20世紀の歴史と文学(1913年)

1913年は、大正2年であるが、偉大な人物が亡くなった。

その人物とは、江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜である。

今では、いい夫婦の日として多くの人に馴染みのある記念日ではあるが、この11月22日が慶喜の命日だと知っている人は少ないだろう。

慶喜は、明治天皇より17才年上だったのだが、76才まで生きた。

黒船来航の年(1853年)は、今で言うなら高校1年生、将軍には30才で就任し、幕末の戊辰戦争から日清・日露戦争の時代も生き抜き、江戸と明治の2つの時代の終わりを見届けて亡くなったのである。

明治天皇と徳川慶喜の死後、国内の政治は大きな転換期を迎えることになる。

1913年は、大正政変(たいしょうせいへん)が起こったことで有名であり、第3次桂(かつら)太郎内閣が総辞職した。

本シリーズでは、1901〜1910年の解説をしたとき、西園寺公望内閣が登場したと思うが、実は、1901年から1913年までは「桂園(けいえん)時代」と呼ばれたほど、桂太郎と西園寺公望が代わる代わる内閣総理大臣を務めたのである。

桂太郎は軍人出身、西園寺公望は公卿出身である。軍人と公卿でどこに共通点があるのかと思う人もいるだろう。

実は、1900年10月19日から1901年6月2日までは、第4次伊藤博文内閣の時代だった。

この伊藤内閣のとき、5月11日から6月2日まで伊藤に代わって臨時代理を務めたのが、西園寺公望だった。

第4次伊藤内閣から第1次桂内閣に代わって、第1次西園寺内閣→第2次桂内閣→第2次西園寺内閣→第3次桂内閣と「桂園時代」が12年間も途切れることなく続いた。

なぜこんなふうに続いたのかというと、つい最近も話題になった「派閥」が関係していた。

桂太郎が、西園寺公望と手を組んだほうがよいと考えて、このようなリレーが実現したのである。

実は、初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任した1885年から1898年までは、幕末に活躍した薩摩藩や長州藩出身の政治家がほぼ交代で政権を担う「藩閥政治」が行われていた。

つまり、今のように自民党や旧民主党による「政党政治」の形は取られていなかった。

1898年に、大隈重信が第9代内閣総理大臣に就任したときは、憲政党として政権を担った。

実は、この大隈重信の内閣総理大臣就任は、明治天皇の勘違いによって実現した。

明治天皇が勘違いしなければ、大隈内閣は誕生せず、第3次伊藤内閣のままだったのだが、伊藤博文が明治天皇に上奏したのを、単なる(伊藤内閣への)入閣の許可と勘違いしたのである。

大隈内閣の誕生は、日本で初めての政党内閣誕生となったが、半年も持たず、第2次山県有朋内閣に引き継がれたことで、一時的に藩閥政治が復活した。

ところが、伊藤博文が立憲政友会を立ち上げ初代総裁となり、政党内閣制の本格的導入に本腰を入れたのをきっかけに、政党内閣制に反対だった同じ長州藩出身の山県有朋は、内閣総理大臣の辞職を決意した。

1900年9月に、立憲政友会が正式に政党として成立し、第4次伊藤内閣も政党内閣となったのだが、「桂園時代」がその直後に10年余り続いたのは、日露戦争の影響もあった。

伊藤博文が1909年にハルビンで安重根に暗殺されたことも、政界のパワーバランスに影響を与えたのである。

そして、あの大正デモクラシーが起こるのである。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?