【続編】歴史をたどるー小国の宿命(37)

講和条件は、お互いに納得できるものでなければ、交渉は決裂する。

秀吉が中国の明の使節から言い渡されたのは、秀吉が日本の国王であることを証明する金印を授けようというものであった。

中国からすれば、これは古代から日本に対して行っていることである。

日本が縄文時代で、中国が後漢の時代だったとき、「漢委奴国王」という金印が当時の倭国王の証として授受されたのは、小中学校の歴史でも習うことである。

小国である倭国(=日本)の王は、大国である中国の国王から認められることで、他に名乗りを挙げている王たちの代表となり得たわけである。

こういったことは、時代が進んで室町時代になっても、足利義満が行った日明貿易が、実質的に朝貢貿易だったように、何ら変わりはなかったのである。

義満も、国王である証がほしくて、朝貢貿易をしたわけであるが、義満の子であった4代将軍の義持は、この貿易は屈辱的だと言ってやめたのである。

天下統一を果たした秀吉も、そこは分かっていた。自分が最高権力者であることは自明のことであり、わざわざ交渉相手にそんなことを言われる筋合いはない。

秀吉は、実際、激怒したのである。

では、秀吉が提示した条件は何だったのか。

ひとつは、朝鮮半島の南部を割譲しろというものであった。つまり、今の韓国をよこせということである。

もうひとつが、驚きの内容であった。

中国の皇帝の娘を、我が国の天皇に嫁がせろというものだった。このやり方は、自分の妹を、家康と結婚させたのと同じである。

つまり、日本の属国になれと言っているに等しかったのである。

これには、中国の使節もあきれかえったことだろう。

まさに、「おまえはアホか?」である。

こうして交渉は決裂し、1597年に、再び秀吉は朝鮮出兵を行った。これが、慶長の役(けいちょうのえき)である。

二度目の戦いは、秀吉にとっては負けられなかったので、彼は冷静に計画を立てていた。

実際に作戦は成功して、日本に勝機があると見込まれた矢先に、秀吉は病に倒れることになる。

続きは、明日である。




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