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俺じゃなくて、僕。(Vol.2)

はじめに

私×セクシャルマイノリティ×作業療法士の®︎uwaです。
 まずは前回の自己紹介記事である「浸ってみませんか?私の感性で溢れる海に」を読んでくださった読者の皆様に感謝しております。
 また、まだ読まれていない方は、私の自己紹介やnoteを通して今後伝えていきたいことなどが、より具体的に記してあります。宜しければ是非、ご一読いただけると大変幸いです。


海に入る前の準備体操〜noteを通して私が伝えたいこと(まとめ)〜


私がnoteを通して、多くの方に伝えたいことは”一人一人の個性を尊重し、それぞれが一度きりの人生を謳歌できる社会を作ることの大切さ”です。なぜ、そう思ったのかについては、前述にも紹介した通り前回の記事に記載しておりますので詳しくはそちらをご参照ください。簡単に伝えるとすると、セクシャルマイノリティとして自分らしく生き、受容するためにこれまで経験した苦悩や葛藤。そして、作業療法士の仕事の中で人間行動理論や心理学、各分野の障害学(身体・精神・発達・老年期)の知識、多くのクライエントとの関わり、日本の医療や介護の現状から上記のような社会になることの大切さを感じたからです。
 これまでの人生経験を通して得た自分の感性個性を皆様に”海開き”のように解放しその大切さをお伝えすることで「どのような人でも自分らしく生きていいんだ」と思えるようになったら嬉しいです。
それでは、海に入る前の準備体操という名の前置きはこのくらいにしておいて、早速皆様を私の個性的な感性で溢れた海に浸っていただきたいと思います。


俺じゃなくて、僕。

太陽に照らされて自分らしく輝く海のように。

季節は夏。
外は蝉の声がジリジリと至る所から聞こえ、アスファルトにはギラギラと照りついた太陽の光が降り注ぎ、熱気で充満している1992年の夏に私はこの世に降り立った。

®️uwaの生まれた地

私が生まれた場所は写真の通り港町。男は船に乗り漁に出て、何ヶ月もの間家を開ける。女は家を守り、子供たちを育てる。周りにはそんな家ばかりで、そんな家庭に私は選ばれた。幼い頃の私はいろいろなことに興味・関心を示していたと当時を知る母や父、ご近所さんは言う。「車やウルトラマン、〇〇レンジャーのような戦隊ヒーロー」が好きだったらしい。正直、私の記憶にはあまりない。幼少期の記憶とはそういうものなのかもしれない。

子供頃に遊んでいたウルトラマン人形



 物心ついた時の私は、ウルトラマンや戦隊ヒーローからカードキャプターさくらやスーパードールリカちゃんを見ていた。ゲームでは女のキャラクターをよく使っていた。当時の好きな歌手はモーニング娘。やSPEEDを好み、TVの前で歌って踊っていた。男友達とは何か違う物を好む傾向にあった。

カードキャプターさくら
スーパードールリカちゃん



 また、自宅の縁側から漁から帰ってきた近所のお兄ちゃんが上半身裸で車を洗っているところを興味深い眼差しで見ていたことも鮮明に覚えている。
(生まれた環境の影響もあるのか、この時から私の人生は決まっていたのかもしれない)

そんな中、月日は流れ小学生。皆の一番の楽しみは昼休み時間。グラウンドでは多くの男の子たちがサッカーや野球をして遊んでいる。その中で私は、リコーダーやキーボードを手に取り屋内で遊んでいた。

昼休みに過ごしていた音楽室

あとから聞いた話だが、その姿を見兼ねた母が仕事で家を開けている父に対して「Ruwaにピアノを習わせたい」と電話で相談したこともあったそうだ。
父の答えは”NO”「ピアノは女がするものだ。これ以上、女っぽくなったらどうする」との理由でダメだったそうだ。

しかし、当時の私には上記の様に両親二人の間で家族会議が開催されて議論が飛び交っているこを知るはずもない。

ただひたすらに一日一日を自分らしく、自分の興味関心のままに生きていた。太陽の光に照らされたキラキラと輝く海のように。


雲がかかり、生ぬるい風が吹き始めた13歳。


小学校を卒業し、学ランという黒い男らしい衣装に身を包み学校に登校する中学生時代。

自分の好きなものだけを素直に行いつづけ、太陽の光に照らされた海の様にキラキラと輝きつづけるはずだった。

2つの出来事が私の海に生温い空気を纏った風や雲をはり巡らせるとはつゆ知らず....

1つ目のエピソードは

中学校生活から『部活動』というものが始まる。
サッカー部、弓道部、バスケ部、陸上部、テニス部など、沢山の部活動がある中で、どの部活に入ろうかと心躍らせていた。

そんな中、キラキラしていて心惹かれる部活動があった。


『吹奏楽部』だ。

幼い頃にテレビの前で歌って踊ることが好きだった私。小学生時代には昼休みにリコーダーを片手に取ったりキーボードで遊んで過ごしていた日々もあった私。気がつくと吹奏楽部の部室に足繁く通っていた。

しかし、決定打に悩む出来事が1つだけあった。

それは友達の存在

私は幼い頃から高身長であったため、小学生時代の仲の良い友人から『バレーボールをやらないか』と誘われており、学生服に身を包む前に約束していたのだ。

とてつもなく悩んだ。


悩んだ結果
私は心惹かれていた吹奏楽部より、友人との約束であるバレーボールを選んだ。『音楽は女がするものだ』という考えの父はとても嬉しかったと思う。

約束のバレーボール

しかし、部員数も少なく全ての試合に参加しなければならず、グラウンドや体育館の中を走らされる日々。運動が苦手な私にとってバレーボール部での3年間は辛く、厳しいものだった。
部活が始まる前は必ずといって良いほど体調を悪くしていたり、顧問の先生が来ていないか車を確認するなど気が魏ではなかった。


そんな中、聴こえてくる吹奏楽部の音に気を取られることが多くあり、とても羨ましく思うことが多々あった。


自宅生活の中でも悩まされていた。
単身赴任から帰宅した父は、いつも片手にスーパードライと書いた銘柄のビールを持ち、私のバレーボールの試合をテレビでみる。

父親の大好きなビールの銘柄

お酒が入っている父の口から決まって聞かれるのはキツイ口調でのアドバイス
その時の父は決して好きだとはいえず、何かを押し付けられている気がして苦痛で仕方なかった。

私は、自分の心に蓋をする選択をしたことで、心から行いたいものではないことをやっている時間や自分らしく居ることができない時間、他者からの期待の声が苦しかったのである。

2つ目のエピソードは

周囲のクラスメイトからの一言だ。

当時の私は思春期の真っ只中。子供だった自分の身体や心に何かが芽生え始める時期。

小学生時代は何も考えずに自分の好きなことにだけしか目が行かず、素直に自分らしく生きていた私。
 しかし、中学生になると周りのクラスメイトの男子生徒と自分を比較してしまうことが増えた。

比較した結果、クラスメイトの男子生徒と私には決定的な違いがあった。

気づいたら、自分でも他者と違うことを気にしていた。そんな中、事件は起きたのである。

そう。
クライスメイトの女子生徒に他の生徒の前で、まるで私が気にしていたのを知っていたのかの様に、笑いながらこう言われたのだ。

「Ruwaってさ〜。どうして”俺”って言わないの〜」
「俺って言ってみなよ〜(笑)」

クラスメイトの男子生徒は皆、一人称が「俺」なのに対し、私の一人称は「僕」だったのだ。

私は大人数のクラスメイトの前で自分でも理解しきれておらず、気にしていた自分の問題を晒されたのだ。

その時に
「”人と違う”ということは、良くないんだ。みんなと一緒じゃないと笑われてしまうし、馬鹿にされてしまうのかもしれない。」そう感じたのだ。

その一件の後、自分の部屋で一人で「俺」を使用する練習を必死で行ってみたことを覚えている。

クラスメイトと話す時も、わざと「俺」という一人称を使ってみたことも試みたが、自分にとって違和感でしか無かった。しかし、その時の私にはそうするしか方法は無かったのである。

当時を振り返るとこの時期から、私の心の海にはぬるい風が吹き始め少しづつ雲が覆いかぶさり、自分以外の人間の立ち入りを制限し始めたのかもしれない。

この後、心の海は嵐に見舞われ、完全に閉鎖する時がくるなんて当時は知る由もなく・・・

                              2022.9.16 Ruwa








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