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排尿礼賛。−おしっこを嗤うな

私は谷崎潤一郎先生を尊敬してやまないわけだが、杉の葉から湯気の立つ便器の醜さ美しさを大真面目に延々と綴る先生よろしく、一見どうでもよいようなことを、どうでもよくないからふと真面目に追求してみたりしてしまう。

「おしっこに行ってくる」。そう言い残して部屋を出るとき、人は些かの気恥ずかしさと、自虐を禁じ得ず、その場に居合わせた人にしても、それをお手洗いを借りるであるとか、トイレに行くと言えないものか、自然が呼んでいるとでも言えないものか、とデリカシーに照らして思ったりするのかもしれない。

しかし、である。放尿をするということに含羞と自虐を伴う、どんな可笑しみがあるというのだろうか。
おしっこ、というおどけた軽妙さを持つ音の響きか。それとも、少々滑稽にも思える形状の器官からそれが勢いよく、またはせせらぐように放出されるからであろうか。
その時々で描くカーブが異なる、物理法則に忠実な放物線の間抜けさによるものなのか。体内から透明な、あるいは黄色い液体が出るという紛い物めいた化学反応が股間から生まれる頓狂さなのだろうか。はたまた、それが着水する際に奏でられる、他に形容することができない音色のせいだろうか。

またもしかし、である。おしっこ、などと呼んでそれをいかにも下品(げぼん)と嗤ってみたところで、結局口から取り込んで管を通じて体内を移動してゆく水分を、別の場所の同じ管から排出する、言ってみればワンウェイ(一方通行)にしてシンプルな生理現象でしかない。

人は、何でもないことに無限の想像をたくましくさせるものだ。そのように排尿を、嗤いながら礼賛することと、形のない高邁な愛を想像することの原理との間に、大きな違いなどそも存在しないのではないか。(了)

Photo by Walkerssk,Pixabay

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