「孤独はイヤだ」と言われる人は多いです。どうしてなのでしょう? 私なりに考えてみました。

人は一人では生きていけません。


人は一人では生きていけないのは当たり前の話ですし、よく聞く話でもあります。しかし、その意味をどのようにとらえるかによって、この言葉の解釈が変わると思うのです。

純粋に言葉の通りに受け取ると、「人との関わりをまったく持たないで一人だ」という解釈だと思います。この関りを「家族」「友人」「知人」「趣味の交友」「自治会」「仕事関係」などとの関りを持たないという解釈としましょう。

このように人との交流を持たない生活のことを、私は「孤立」だと思うのです。「孤独」ではなく「孤立」です。

この場合、「話し相手がいない」ということになるでしょう。それは寂しいですよね。年老いた時、せめて「茶飲み友達」の一人や二人はいた方が良いと思います。しかしそういう人を一人も持たないということは、「社会から孤立した状態」だと思います。

孤独は、一人で行動する人のこと


一方「孤独」というのは、一人暮らしで、「趣味仲間」の数人くらいは交流があるという状態だと思います。一日誰とも喋らない日はあっても、週に数回は知り合いとお喋りができる程度の人は「孤独な人」と言えるのではないでしょうか。

孤独な人で、一人遊びのできる人だとしたら、それはそれで幸せかもしれませんよね。誰にも文句言われず、邪魔もされず、思ったままに行動できるわけです。一人で山へハイキングに出かけることができる人。一人で釣りに出かけることのできる人。一人でプールで泳ぐ人。これらは一人遊びの上手な人だと思います。と考えると、「孤独」という言葉が当てはまりにくくないですか?

社会と関わらずに生活はできない


ここからは私個人の考え方ですが、「孤立」も「孤独」もまったく社会と関わっていないわけではない、と解釈する考え方があると思います。

例えば、生きていく上で必ず何かを食べなければなりません。そのためにはスーパーやコンビニへ買い物に行って食材を買います。食べた後、ゴミが出るので、ゴミ収集場へ出します。一般的な流れですよね。

ここにはすべて人が介入しています。例えば、鶏肉を買うとして、その鶏を育て、さばき、トレイに入れ、重さを量り、ラベルを貼り、陳列されています。この工程の間に、はたして何人の人が関わっていることでしょう? まったく想像もつきません。レジを通過しなければ持って帰ることができません。お金を払うにしても、紙幣を印刷した人がいます。財布は誰が作ったのでしょう? エコバッグは誰が作った? 履いている靴は? 服は? ごみは誰が収集してくれる?・・・

何をとっても誰かの手が介入されているのです。だから一人で生きているわけではありません。顔も名前も知らない人ですが、誰かがそれらを作ってくれているから、私が生きていけるのです。その誰だかわからない人に感謝しながら生活すれば、一人で生きていることにはなりません。

そう考えると「孤立した人なんていない、孤独もない」という考え方になります。分別してゴミ出しするということは、ちゃんと社会参加できていて、その地区に溶け込んでいることになります。

孤立も孤独も寂しくはない


「人とお喋りしなければ関わったことにならない」というルールが決まっているわけではありません。
もし私が友人知人すべてを失ったとしても、テレビを観てツッコミします。勝手に返事しながらテレビやラジオと喋ります。何も問題ありません。だから、私には孤立という言葉はありません。孤独でもありません。一人暮らしの中年男性なだけです。

「孤独はイヤだ」と言われる人は、一人遊びが上手ではないのだと思います。また、人に依存しなければ生きていけないのでしょう。「死ぬときは一人はイヤだ、家族に見守られながら息を引き取りたい」と言われる人も多いです。自分はもう死んでいくのに、死に方を希望するなんて、欲深いですよね。「ピンピンコロリがいい」と言いながら、そのためにやるべきことをやってないんだったら、その希望は叶わないですよ。孤独がイヤだと言われるならば、そうならないために、今日何をするべきかを考えてみましょう。


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