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声にならない「声」に、耳を傾けて。

写真家・幡野広志さんの写真展に行ってきました。幡野さんのTwitterの言葉をお借りすると「写真家、元狩猟家、血液がん患者」の方の写真展です。

幡野さんのことは著書『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』で知り、Twitterやnote、NHKのドキュメンタリー番組などで幡野さんの言動を追いかけていました。
私が幡野さんの言葉や発信を気にしだしたのは、幡野さんがいま、余命少ない中で家族を抱えながらも写真家として活動されていることや闘病していることに感動しているから、とか、そういうことではなかったです。いわゆる「お涙ちょうだい」ではないことは、すぐにわかりました。そこには、強烈な問題提起と、これまでなかなか表に出てこなかった「患者」側の気持ちが赤裸々に語られていたからです。

ちょうどその本を読んだとき、私はパニック障害という病気で体調が絶不調のころでした。幡野さんが、患者に対して投げられる、「頑張って」とか「必ず治るから」とか、そういう悪意のない応援の言葉に対して疑問を持っていたことに、とても共感したのを覚えています。

私はがんになったことはない。けれど、パニック障害にはなったことはある。自分が病気になってから、人の苦しみなんて、その人にしかわからない、と本気で思うようになりました。だから、がんの患者さんに不用意な言葉をかけることは絶対にできないし、なんなら、同じパニック障害の人にも、かける言葉には悩むときもある。人によって、病気の重さも、辛いことも、その捉え方も、全部違うと思うから。

私は、病気に大小をつけたくないと思っています。そりゃあもちろん、がんの方が辛いんだろうと思う。死の可能性という怖さもあるし、治療もきっと辛いのでしょう。でも、パニック障害の底にいる人にとっては、その現状が何よりも辛いはずで、それを人に代えることも出来なければ、言語化して伝えることもできないから、共有しようもないし、比べることもできないと思うからです。「辛い」は比べられるものではない、と思います。だから、わかったようなことは何も言えない。胃腸炎で辛いひとも、花粉症も、虫垂炎も、骨折も脱臼も、全部同じだと思います。私は、手は骨折したことはあるけれど、足は骨折したことないから、足を骨折したときに日常生活でどんなことに不便を感じるのか、何に困るのか、どういう悔しさがあるのか、全部わからないです。だから、敢えて、レベルも捉え方も何もかも違うかもしれないけれど、私はがん患者である幡野さんに、自分の気持ちを重ねました。もし不快に思う方がいたら、ごめんなさい。

病気になってから、「心ない言葉」に傷付くことは嫌というほどありました。気持ちの問題ではなく身体の不調なのに、「前を向いていこうよ」と励まされたりとか。前なんてとっくに向いているんだよ、と心では思っていました。逆に、腫れものに触らないように、というような態度をとる人とか。

写真展で展示されていた写真に、こんな写真がありました。

親子の、あたたかい写真。わたしがこのときドキッとしたのは、幡野さんの胸元にうつっている「ヘルプマーク」。赤いプレートのようなものです。おそらく、電車や街中で見かけたことがある方も多いと思います。このヘルプマーク、どれくらいの人がその意味を理解しているかはわからないけれど、「外見から分からなくても援助や配慮を必要としている方々が、周囲の方に配慮を必要としていることを知らせる」ために身に着けるものです。

私が最も体調が優れず、電車に乗ることも怖かったとき、このヘルプマークを駅員さんから貰ったらどうだ、と親から提案されたときがありました。パニック障害は見た目にはまったくわからない病気だから、しかも私は20代なので、電車でも席を譲ってもらえることはないし、少しでも不安が和らぐのなら、と。でも、私はどうしても、このヘルプマークをつけることができませんでした。お出かけしたくって、友達と会いたくって、メイクをして好きな洋服をきて出かけて、でもそのバッグにこのヘルプマークをつけたら、全てが台無しになるんじゃないかと思ってしまった。可愛くなかった。ファッションに合わなかった。可哀想って思われたくなかった。それを付けている自分を想像することも嫌だった。それでも、電車は怖かった。病気を受け入れていないんじゃない。薬は毎日飲んだ。ただ、ヘルプマークは嫌だった。そんな気持ち、誰もわからないだろう、とも、思った。ヘルプマークをつけていらっしゃる方も多いと思います。それで救われる人ももちろんいると思います。もし不快に思われたならごめんなさい。でも、それが、私のそのときの正直な気持ちだったのです。

病気の人の気持ちを100%理解するなんて、そんなことは無理だし、それを求めることはお門違いだと思います。私にとっても、今も考えるし、まだ答えがない。どうやって、病気のひとも、そうでない人も、どんな人も、共生することができるのか。とにかく、「想像力を持つこと」ということしか、私の中にはまだ、答えはないです。

幡野さんの写真展には、いろんな匂いが漂っていました。もちろん、鼻で嗅げるような匂いではないです。生の匂い、死の匂い、血の匂い。そして、骨の匂い。生と死が、とても近くに感じられる写真たちでした。息子さんの優くんが墓地で笑っている写真も、狩りでしとめた動物の頭も、血も。偶然なのだろうけれど、展示会場の窓から見える隣の敷地は、墓地でした。死とはこんなに近くにあって。それは恐ろしくなく、とてもフラットに、感じられたことでした。

展示されていた写真の中から、何枚か載せますね。写真を写真で撮るというのは、どうなのだろうと一瞬思ったのですが、様々な理由で、来たくても来られないという方のお役に立てればと思い。とてもあたたかく、そして心の中だけではなく、頭の中も揺さぶってくれる、写真展でした。
(写真は、iPhoneXSの外カメラで、加工もフィルターも一切なしで撮りました。一枚だけ、壁に文字が書かれているものがありますが、文字が見やすいように少し加工させていただいています)

命のことや、生きること・死ぬことに口を出すことは、私はできません。ただ、生き方も死に方も、同じように意見を持っていいという議論の場を作っていただいたこと、発信してくださったことに、最大限の感謝と尊敬の気持ちを持っています。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。