見出し画像

詩 『シベリアの狼』(⚠️解説部分後半には一部闇描写あり)

作:悠冴紀

君と二人で築いた長城を
汚されることのない記憶が流れていく

私の雪は君のために舞っていたことを
君は知っていたか
私の河は君のために流れていたことを
君は知っていたか

私は孤独が怖くなかった
私は寒さが心地好かった

人々がことごとく去った後の
廃屋に棲みついた狼のように
私は飄々ひょうひょうと暮らしていた

私はシベリアの狼だった

無人の廃屋に好んで独り
孤独も寒さも平気だった

心にいつも君がいたから
永遠に共にあると信じていたから

私はシベリアの狼だった

── 今は 君が廃屋に棲む
私でさえ棲まなくなった廃屋に
君は独り悶々もんもん
……

人に帰れ 狼よ
その身体は獣にあらず
寒さに耐え得る力を持たぬ

君に突き付けられた別離に学び
私は愛を覚え 人となった

私は彼方の廃屋に向け 遠吠えする
けれど君には届かない
もはや私は狼にあらず
寒さを貫く獣の声を持たぬ

君を失って初めて知った真の孤独
君が去って初めて知った真の寒さ

私は何も
わかっていなかった

やっとのことで人となり
愛の何かを知った私

振り返る道は積雪に消され
遠く遠く 離れていく

この遠吠えも届かぬほど
遠く遠く 私たちは
……

君のためにあった雪の華が
私の肩に舞い降りてきた

君を失って尚も流れる河のほとり
白い雪の華だけが
今も大気に咲く

画像1

※2005年(当時28歳)の作品。

この作品における『君』というのは、これまでにも何度か詩作品に登場させたことのある幼馴染みの親友Sのことです。

同親友のことを書いた他作品はこちら▼
●『氷の道標
●『
天狼~ハティ
●『
幽 霊
●『
SPHINX
●『君に贈るもの

ところで、本作は一部誤解を招く可能性のある表現が含まれているため、その一節についてのみ、解説しておきます。(関連して過去の振り返りも書きますので、文章としては長くなりますが m(_ _)m)

作品の解釈は自由とは言え、以前何度か会ったことのある出版社の人が、本作を読んで失恋の詩だと勘違いしたことがありました。私が「いえ、そうではなくて、幼馴染みの女友達の話です」というと、今度は「えっ!? でっ、でも、あなた以前、そっち、、、ではないと言っていたじゃないですか💦」と、何やら激しく動揺したような反応💧

ようするに、この詩の中の『君に突き付けられた別離に学び、私は愛を覚え~』というくだりを、相手を失って初めて本当の意味でその人を愛していることに気が付いた、というニュアンスで捉え、私を女友達に密かな恋心を抱いていた同性愛者だと思ってしまったようなのです🤣💥

その解釈にはさすがに、こっちが仰天しましたね。驚きすぎて言葉が続かなくなり、とうとう弁明もできずじまい💧 その出版社からは結局一度も本を出したことがないのですが、たぶんその後もずっと、あの人は私のことを同性愛者だと思い続けていただろうと思われます😓

この機にくれぐれも言っておきますが、私の周りには同性愛者やトランスジェンダーの知人友人も一人ならずいるため、そっち、、、方面、、の事柄については多少知識があるし、差別意識なぞは一切ありません。そういう友人に付き添って、オカマBARに行ったりゲイBARに行ったりしていたくらいですからね。恋人探しを手伝ったり相談に乗ったりして。ただし、私自身はあくまでストレートです。(実際、今現在 日常を共にしている相方は歳上のオッサンです(^_^;))

とは言え、私は多くの女性が恋愛話で盛り上がる華の学生時代に、異性にも恋愛そのものにも全く興味関心がなかったので、間違っても「普通」とは言えない身だったように思います。おそらく私は、世に言う「アセクシャル」に限りなく近い存在だったのでしょう。

でもそれも、あくまで過去(20代半ばぐらいまで)の話。ただ単純に、かつてはけがらわしいと思い込んでいた性的要素を一切含まない友情関係というものを特別視し、親友という存在を自分にとっての絶対神のような最重要事項にしておくために、その他すべての存在や関係を下位に見るという、極端な差別化が一因となっていた “似非アセクシャル” にすぎず、ゆえに思考停止レベルの行き過ぎた友情ユートピアから目がさめ、正気にかえった時点で、アセクシャル様の傾向すらなくなったのです💧

(ちなみに、かつては、実子の命を保険金に換えたがっているサイコパスの親と、その追従者たちからの絶え間ない攻撃・追跡をかわしながら職や住居を転々とし、生き延びるための闘いだけで精一杯の生活困窮者だったので、それ以外のことに興味を向ける余裕がなかった、というのも、似非アセクシャルの大きな原因の一つでした。リアルにハードボイルドな日々でしたね😅 それと、母親が色情魔の変態ババアで、高校生にもなる娘を父親と一緒に風呂に入らせようとするようなセクハラ野郎だったこともあり、そういう人間への軽蔑や嫌悪感から、性的な事柄を極端に嫌い、自分の性別を意識することにさえ抵抗を覚える潔癖な気質が出来上がっていった、とも言えます。幸い父親の方は、モラハラでアル中のロクデナシ野郎ではあれ変態の気はなかったため、風呂には押し入られずに済みましたが、母親からの胸くそ悪いセクハラの類いは他にも色々とありました。エグすぎて誰も読みたがらないだろうから、あえてこの場では書きませんが💧)

さて、親友Sとの話に戻りますが、ちょっと笑われてしまいそうな?引用をすると、相方につられて最近見始めた『進撃の巨人』で、「皆何かに酔っ払っていないと、やっていられなかったんだろう」という科白があり、印象に残っています。親友との友情関係に依存し、夢中になっていた当時の私も、まさにその状態だったのでしょう。今も昔も人からは「強い」と言われることが圧倒的に多い私ですが、当時はまだまだ、泥臭い日常の現実を忘れさせてくれる何かに酔っ払っていないと生きていられないような、弱い人間の一人にすぎなかったのだと思います。そして、そんな形で、耐えがたい事柄から気を紛らすための都合の良い拠り所として選んだ相手を、一種の宗教と言って過言でないレベルにまで美化・神格化してしまったがために、自壊した。失った。必然の結果として。

(👆この手の自壊のパターン、神秘主義的な人間関係崩壊の図式は、京極夏彦さんの小説『魍魎もうりょうはこ』や、山岸涼子さんの漫画『日出処天子』などで、生々しく、しかも小気味がいいほど情け容赦なく暴き出されていますね。特に前者が私たちの事例にしっくりと来る。後者はBL系で性的な要素を多分に含んでいるため、私たちのケースとは少し話が違ってきますが、根っこの部分は同じテーマだと思います。)

――――――――――――

ただし、親友Sの方も、今改めて振り返ると、彼女なりの何らかの理由で私に依存していたように思います。友達と呼べる相手も、私を含めてこの世に2人ぐらいしかいない人でしたしね💧 幼い頃から、歩く百科事典と言って過言でないほど教養の高い読書家で、早くから感性が成熟して大人びていたので、同年代の他の人たちとは馴染めなかったようです。

また、運動が苦手な虚弱体質の彼女にとって、元々の運動神経に加え筋トレと格闘技でメキメキと男並の力を得ていった野生児肌の私(←常に暗殺者のような殺気をまとっていたからか、地元の不良たちも怖がって、私が近づくと緊張気味に道を開けていました💧)は、自分にはないものを持つ憧れの存在でもあったのでしょう。スパルタ教育で勉強嫌いだった中学生中頃までの荒くれ者の私が、成績優秀で礼儀正しい理性派の彼女に憧れたのと同様に。(← 今の私はかつてとは別人のようにお優しそうに見えるらしいし、物書きだから頭脳派だと思われがちですが、実はこっちが血の気の多いマッスルで、あっちが頭脳派という組み合わせだったわけです🤣)

そんなSも、私と同じくそっち、、、の気はなかったように思われます。つまり同性愛者ではなかった。(← と言う根拠は、当時彼女が、私の描いていた漫画作品の男性の登場人物に惚れていたからであって、現実の異性に惹かれる姿は、私も見たためしがないんですけどね😅)

でもその割には、私に想いを寄せる異性が現れ、私に近づこうとでもしようものなら、猛烈に嫉妬してその相手に敵意を抱く傾向がありました。普段のSは沈着冷静で感情を表に出さず、何事に対しても慎重かつ客観的な意見しか言わない人物だったのに、ですよ?(← 歴史的人物にたとえると、女版の諸葛孔明といった感じの人でした (^_^;) 文武両道ではなかったけど。)

私に「余計な虫」が付くときにのみ発揮される、極端な怒りや嫉妬の感情。今振り返ると、その極端な反応の仕方にこそ、依存心が表れていたと思うのです。単なる独占欲というのではなく。

生まれつき感度の高すぎるセンサーを持ち、否応なしに人や物事の粗や本質が見えすぎてしまう彼女にとって、私という存在は色んな意味でイレギュラーな存在であり、唯一「掴みきれない相手」だったのでしょう。(← 平たく言うと、変人すぎて謎だった=想像の余地のある存在だった、ということ💧)だから大いに美化できた。過大視できた。彼女のような人でさえ。

ここで改めて📖『魍魎もうりょうはこ』の例に当てはめると、色恋事とは無縁で生身の人間臭さを感じさせない中性的なところがあった当時の私は、彼女にとっては巫女か神官のような浮世離れした位置付けであり、そこに割り込んできて私を恋愛感情という俗なものに落としてしまう異性の存在は、断じて認めてはならないものだった。そして他の大勢と同じ単なる生身の人間に堕ちたなら、巫女は軽蔑すべき対象にもなり得る、と。

(→ だから互いに幻想から目がさめて関係が壊れたときには、ドロドロになりました😓 彼女は最後には私を憎み、存在の消滅さえ望んでいたように思います。それほどまでに、現実存在としての相手=私よりも、自分の頭の中のユートピアの方が大事だったということです。別に私に男ができたから親友との関係が壊れた、なんていう単純な話ではないんですよね。順番で言うと、親友との関係崩壊が先で、私が今の相方と出会ったのは、ずっと後でしたし。壊れるべくして自壊し、失望と憎しみだけが残された。まさに共依存関係が行き着く最悪の末路でしたね。)

しかし当時の若くて無知で阿呆な私は、暗闇の中に見出した一筋の光であったSへの執着ばかり強すぎたために、後にそんな醜い末路を招く可能性など予想だにしていなくて、一路Sとの共依存関係に溺れていった。嫉妬されても「こんな人にそこまで強く求められるなんて、むしろ光栄だ! Sがそう望むなら、喜んで『Sだけの私』でいよう。そんな自分なら、私自身も好きになれるし、誇らしく生きられる!」と💧 だから、ひどい話ですが、自分に言い寄ってくる人物たちとSとを天秤てんびんにかけた結果、私は決まって異性の方をバッサリと切り捨て、色気の欠片かけらもない道を選んだのでした。それも大いに誇りを持ってのことなので、何のストレスやフラストレーションもなく、実に四半世紀近くもの間、恋心皆無の中性人間として親友一途でいられたのです。

人間は状況の変化や経験や年齢などによって、それなりに成長して ものの見方が変わっていくものですが、その自然な変化・成長を、私はどこかの時点から意図的に止め、変わるまいと突っぱねていたように思います。親友Sとの友情ユートピアを維持したいと望むあまり。

――――――――――――

☝️ここでようやく今回の詩作品『シベリアの狼』の話に戻りますが、かつて親友への盲執が原因(の一つ)で、恋愛感情を安っぽくて恥ずかしい下位の感情と見なし、長い間 異性を寄せ付けないようにしていた身であるからこそ、皮肉にも、その親友を失うと同時に、私の視界は夢からさめたように一気に開けました。親友以外の他の人達の存在も、ごく自然に受け入れられるようになったのです。かつて親友一人だけに向けていた情や敬意を、最大の出力先がなくなったことで他の大勢に分散して向けるに至り、友愛・・以外・・の人・・間愛・・も自然に抱けるようになっていった。

そういう体験から出てきた言葉が、作中で私の表現したところの「君に突き付けられた別離に学び、私は愛を知り人となった」の一文でした。

だから、某出版社の人が、『愛』という一語に対して、あたかも当然のごとく『恋愛』の話と捉えてしまったこと自体に、違和感を覚えたんですよね。

『愛』って、恋愛だけですか? 他にも色々種類がありますよね? 友愛、家族愛、同胞愛、自己愛、ペット愛もそうだし、少し漠然とするし偽善臭い印象すらあるけど隣人愛だの博愛だのといったものも、一応後ろに『愛』の一語がつきますよね? 日本ではついつい恋愛だけが愛の形であるかのように見なされがちですが、そういう様々な形のものを含む総合的な『愛』が、この作品に登場してくる『愛』という一語です。

そして、そのうちのほんの一種である友愛だけを例外として守りつつ、その他の数多くの愛を片端から排除し、頑なに拒絶し続けようとしていた私は、今振り返ると「人間」にすらなりきれずにいた現実味のない存在だったのだな、と思います。

しかし、まさにそんな非現実的な(無機的な)存在感こそが、親友Sに特別視され、気に入られている点だった。だから私は、自問で自らの幻想を打ち破って、神秘でも何でもない「ただの人」という現実存在になると同時に、見放された。信じるものの少ない誇り高きSの理想を、ズタズタに引き裂いて失望させた裏切り者としての烙印を押され、永久的に追放されたのです。疑わずに盲信することでしか保ち続けることのできない、二人きりの実体なきユートピアから。

――――――――――――

──ここまでの話を読んで、多くの人は「こいつら、つくづく変わっているな~。ブッ飛びすぎていて、全然共感できないや。話題としては物珍しくて面白いけど、こういう外れ者の変な奴らにしか起こり得ない例外的な珍事だから、結局のところ、俺達のような多数派のまとも組には関係ない話なんだよな」なんて思っているかもしれませんが、こんな私たちでも、最初からそこまで極端にブッ飛んでいたわけではないんですよ?😅 小学生以前からの幼なじみですから、たぶんはじめは、どこにでもある子供同士の変哲もない付き合いだったはず。それが知らず知らずどこかの時点から限度を越えてしまい、お互い迷子になってしまったのです。どんな邪心のゆえでもなく、ただただ相手をより強く求め、その関係を自分たちなりに、より高い次元に引き上げようと理想を追求した果てに。

そういう流れって、別に私や親友Sのような「例外的な人間だけにしか起こり得ない例外的な話」、というわけではないと思うんですよね。必ずしも同性の友達関係だけにしか起こらない限定的な事柄、というわけですらない。何らかの原因で拠り所に飢え、求めるものばかり過剰になったり、いつの間にか 当たり前意識や絶対神話の安心感などに溺れて過信してしまったりした結果、その対象を失うはめになる、というのは、誰にでも起こり得ること。

おそらく、「こんなはずではなかった。あんなに理想的に始まったものが、なぜこんなひどい結果になるのか。はじめはそんなじゃなかったのに、一体いつの時点から道を外れていったのか?」と思うような末路に苦しむ人達の多くは、それぞれの形・それぞれのやり方で「よりよく生きたい。より確かな価値のある自分になりたい」と望んだだけの人達なのだと思います。それが、人生という長い道のりの中で、知らず知らず度を越して、ズレが生じ、自壊への一途をたどってしまう。

果たしてどのあたりからを「過剰」とするのか、ガイドラインなどどこにも存在せず、境界線が見えないからこそ、自分自身がそう・・なる・・瞬間、一線を超えてしまう瞬間というのも、なかなか自覚できないものなのです。宗教がいい例ですが、良かれと信じていることに対しては、その強度・度合いを強めれば強めるほど、より良い結果を得られるに違いないと思い込み、極端に走りがちですしね。こんなにも純粋で潔白な思いから取る行動に、何恥じるところがあろうか! と自問の余地をなくして。思考停止への第一歩です。

(☝️ちなみに、今現在の私に、強いこだわりや信念や美学と呼べるようなものが特になく、かつての自分に比べると何かと適当でやる気のない態度なのは、そのあたりの手痛い経験がいましめとして活きているからだと思います。別にどの生き方・在り方が正解ということもないんでしょうけど、とりあえず私はもう、かつてのようなことを繰り返したくありませんから。人間が熱くなるような色々のことに、すっかり醒めてしまいました (^_^;))

──まあ、そんなわけで、誰にとっても他人事ではない話ですよ、とは言っておきたい A^_^;) ひょっとすると、「俺様に限って」と思っている人や、すべてが順調で自信満々になっている絶頂期にある人たちこそ、まさに今が真っ最中なのかもしれません。思考停止の落とし穴は、何かに至上の価値や不動の答えを見出したような気でいるときや、パターン化された一定の役割や安定した日常に腰を落ち着けて、自問の必要性などすっかり忘れているときにこそ、陥りやすい傾向にありますから。

皆々様も、お気をつけて!
でないと、私たちみたいになり果ててしまうかもしれませんよ……A^_^;)

注)シェア・拡散は歓迎します。ただし、この作品を一部でも引用・転載する場合は、「詩『シベリアの狼』悠冴紀作」と明記するか、リンクを貼るなどして、作者が私であることがわかるようにしてください。自分の作品であるかのように公開するのは、著作権の侵害に当たります。

※私こと悠冴紀のプロフィール代わりの記事はこちら▼


※私の他の詩作品をご覧いただける無料マガジンはこちら▼ (私自身の変化・成長にともなって、作風も大きく変化してきているので、制作年代ごと三期に分けてまとめています)
📓 詩集A(十代の頃の旧い作品群)
📓 詩集B(二十代の頃の作品群)
📓 詩集C(三十代の頃の最新の作品群)

※ 小説家 悠冴紀の公式ホームページはこちら


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?