桜流し

「あなたへの好きをとっておくことなんて、できないから」

涙香(るいか)はそういって、寂しそうに笑った。
鼻をつく春の風は、甘ったるくて切なくて。
桜流しで湿ったアスファルト。遠くから聞こえる、電車の音。
逃げ出したいと切に願っていたこの町が、今日はなんだか少しだけ、愛おしく感じた。

「私が好きなもの先に食べるタイプだって、糸雨(しう)は知ってるでしょ?」

地面を弄ぶ、涙香の白茶けたコンバース。
つられて視線を自分の足下に向ければ、潰れた蛙。紫色の内臓が、あたり一面にはじけて。
このまま死んでしまうのもありかもしれないと思った。
だけど、口にはしない。
きっと涙香は、止めてくれるから。
重荷に、感じるから。

「私さ、この町嫌いって、言ったよね」

私が言うと、涙香は困ったように微笑んだ。

「でもね、今、この瞬間だけ切り取って、そうしてこの瞬間だけを永遠に繰り返せるのなら、この町にとどまってもいいかなって」

「ほかにいくらでもあるでしょ。ヤった日とかさ」

涙香がいたずらっぽく笑う。
私もつられて、笑ってみる。
涙さえ流さなきゃ、きっと、大丈夫だから。

「今がいい」

そう今がいいんだ。
お別れするのは、怖い。
でも、ずっと甘々な世界に閉じ込められてしまうのも、怖い。
だってそれって、いつか来るかもしれない終わりに、いつだって怯えて過ごさなくちゃいけないってことだから。
それに…。

「初めて、私を好きって認めてくれたから」

涙香が目を丸くする。
言わなきゃよかったかな。
でも、どうせもう会えないから。
会わないから。

「あの日は、好きって言ってくれなかったじゃん」

そう、私を抱いてくれたあの日も、その後も。
まるで一度の過ちだったみたいに、涙香は私に二度と触れなかったし、一度だって、あの日のことを口にしてはくれなかった。
けれど私は知っていた。
だって涙香は、誰よりも臆病で、寂しがりやだから。

「最後に言ってもらえて、嬉しかった」

勝手だな。
本当に、勝手だな。
だけど涙香は怒らない。
くしゃみをしそうな時みたいに、鼻に少し、しわを寄せる。
涙香が涙をこらえるとき、いつもする、その仕草。

「最初で、最後だよね?」

涙香が、少しおかしそうに、目を細める。

「うん。最初で、最後」

私への好きを貫くのは、きっと涙香には辛いんだ。
私が母親と父親につけられた深い傷に、結局、自分は勝てなかったんだって、そう思ってる。

「一緒に、町を出ようか」

もう何度目かわからない、意味をなさない、私の言葉。
涙香は何も言わずに、もう一度、笑ってみせた。
その困ったような微笑みが、私は、大好きで。
でも私は、彼女の重荷。
最低な、私。

「重荷だなんて、思ってないから」

「え?」

「ただ、飛び方がわからないだけ」

涙香は、空を仰いだ。
空を覆う灰色の雨雲は、どこか幻想的で、いつもよりうんと低い空なのに、なぜか窮屈には感じなかった。

「飛ぶべき理由も、知らないから」

わたしたちの前髪を、濡れた風が心地よく揺らす。

「でもね、糸雨。あなたは知ってる」

涙香が、私を見つめる。
とても意志の強い眼差しで、私を見つめる。
その瞳の奥がどこか悲しそうに感じるのは、私がそう、思いたいだけなのかな。

「飛ぶべき理由を、知っているから」

私はもう一度、空を仰いだ。
見慣れた空は、なぜか少しだけ、広かった。
知らない町から見上げる空は、こことは随分、違うのだろうか。
それはなんだか、とっても、いいこと、なのかもしれない。

『私は、涙香の飛ぶべき理由には、なれない?』

そんな不躾な質問は、心の底に閉じ込めて。
いつかきっと、望んでも思い出せないくらい、とっても時間が経ったなら、苦しくも、なくなるんだ。
そう、信じて。

気づけば涙香は歩き出していた。
たゆたう涙香の髪につられるように、私もゆっくり、歩き出した。


END

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