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私が病んだ経緯と精神科に行くまで

中学生のころから自分の体形が気になっていました。付き合っていた人に「痩せたら可愛い」と言われたり、祖母に「太った」と言われたり、そして何より完璧でありたい自分自身が、自分の体形を許せませんでした。しかし同時に、家に1人のときはよくヤケ食いしていた記憶があります。減っても両親が気付かなそうなものを選んで食べていました。実際まったくバレませんでした。そして食べたあと、罪悪感に襲われると私は酢を飲んでわざとお腹を壊しました。摂食障害という言葉もまだ知らなかった頃のことです。

それ以前から母は仕事のストレスに耐えかねていたと見え、よく私に暴力的な言葉を吐いていました。手が出ることも少なからずありました。父はいつも「ママは大変なんだ、分かってあげて」と言います。私はひとりで耐えるしかありませんでした。

そして高校受験から大学入学にかけて、私は摂食障害になりました。主に過食嘔吐、つまりやけ食いして吐くというやつです。とはいえ、いつから吐きはじめたのか、いつ摂食障害という言葉を知ったのか、はっきりとは覚えていません。ただネット記事にある摂食障害になりやすい人の傾向は私にぴったり当てはまっていて驚いたような、そんな朧げな記憶があります。

最初のころは、あまり治そうと思っていませんでした。食べたいだけ食べて太らずにいられるのだから良いことだ。それに止めようと思ったら止められるから病気ではない。そう信じ込んでいたのは、自分の状態を直視したくなかったからかもしれません。でもやっぱり途中から、一生このままでいることの不安や誰かにバレることの怖さが増していきました。病院や学内カウンセリングについて調べたり、別の理由をつけて漢方の病院に行ってみたり。でも、太っている私が過食嘔吐だなんて信じてもらえるだろうか、という不安が頭をよぎって結局何もできませんでした。

転機は1年間休学してカンボジアでインターンしたこと、だったかもしれません。その1年間はそれまでよりも過食嘔吐がひどく、一日に何度も吐いていました。当時は麻痺していましたが、振り返るとかなり辛かったと思います。だからこそ帰国したときは、解放感と幸せが日々の生活に満ちていました。それから私は、その辛い1年間で自信と無力さの自覚、両方を理解していました。なんとなくですが、この自己理解によって私はむやみな完璧主義から抜け出せた気がします。

それから大学に戻って、1960年前後のヒッピームーブメントに関する卒論を書きました。教授に支えられ、たくさんの友達と対話しながら、当時のエネルギッシュな若者たちを追いました。あの時間は、間違いなく今までの人生で1番楽しかったです。そして5年ほど続いた過食嘔吐が収まりました。2020年の年末のことでした。

晴れて大学を卒業し、都内で就職。しばらくして実家を出た私は、精神疾患について勉強しはじめました。実家にいるときは買えなかった親子関係ついての本などもたくさん買いました。そしていくつかの事例に自分が強く共感すると気づき、ようやく私は自分の心身に向き合いはじめました。それはとても労力のいることで、夜中に何度泣いたかわかりません。私はたくさん勉強してたくさん泣きました。

そうこうして社会人2年目の秋、どうしても眠れず仕事に影響が出始めたので、もう行くしかないと病院に行きました。最初は睡眠障害に対処する薬をもらい、通ううちに双極性障害の診断が下り、ADHD傾向も認められました。少しずつ自分の状態に名前がついて、理解が深まっていきました。

今も薬は飲み続けています。依存性の低いものを出す方針の病院で、先生のことも信頼しています。お陰様で物心ついて以来、一番心身の状態が良いかもしれません。早く病院に行けばよかったです。両親や世間からの偏見など気にならないとは言えませんが、それより自分の健康が大切だと思えます。これがご自愛なんだと、20代後半にしてやっとわかってきたところです。引き続き自分を愛して、ケアして、幸せでいられますように、そしてたくさんの人がそうできますように、と思っています。

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