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島津に『待った』をかけた男「大友宗麟」

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第16話「先制攻撃」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

第16話「先制攻撃」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

西暦1578年(天正六年)10月20日未明、大友勢の先陣30,000兵強が島津方の新納院高城(宮崎県児湯郡木城町)の城下に迫りました。

この時の陣立ては以下のとおりです。

本陣:総大将・田原親賢(豊前妙見嶽城主、宗麟の義兄)
左翼:佐伯惟教(豊後国栂牟礼城主、宗麟重臣)
右翼:田北鎮周(宗麟重臣)

この陣立ての通り、宗麟自身は出陣しておりません。

この頃の彼は務志賀(延岡市無鹿町)に留まり

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第15話「第二次石ノ城の戦い」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

第15話「第二次石ノ城の戦い」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

西暦1578年(天正六年)8月、大友宗麟は、島津氏の出方に目立った活動がないことを鑑み、いよいよ自らが出陣して本格的に日向(宮崎県)侵攻を決意しました。

宗麟は全軍の総大将を田原親賢(宗麟正室の兄弟)に命じ、彼に20,000兵を与えると、その他に田北鎮周、蒲池鑑盛、吉弘鑑理、斎藤鎮実らに本隊の20,000兵を率いさせ、総勢40,000兵を越える大軍勢で日向に侵攻したのです。

宗麟の出陣
宗麟の

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第14話「前哨戦」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

第14話「前哨戦」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

西暦1578年(天正六年)3月、大友宗麟は、日向国の戦国大名・伊東義祐と、日向国でゲリラ活動を行っている伊東の旧臣たちの要請を受ける形で、九州南方への攻略、すなわち日向国への出兵を家中に命じました。

宗麟が最初に命じたことは

「裏切者の土持親成を滅ぼせ」

でした。
同年3月13日、大友家当主・大友義統が30,000の兵を率いて、出陣しました。これに従う武将は

佐伯惟教(佐伯氏当主/加判衆/

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第13話「日向出兵」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

第13話「日向出兵」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

西暦1570年(元亀元年)8月20日、肥前国今山(佐賀県佐賀市大和町付近)で起きた大友軍と龍造寺軍と局地的合戦(今山の戦い)で、大友軍は総大将の名代にして大友宗麟の弟・大友親貞が討ち死にし、数千の兵を失いました。

60,000兵の大友軍にとって、数千の兵を失ったことは体勢に影響はないものの、宗麟の弟である大友親貞が討ち死にしたことによる士気の低下は避けられず。とりわけ宗麟のショックは凄まじいもの

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第12話「今山の合戦」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

第12話「今山の合戦」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

西暦1569年(永禄十二年)10月、大友宗麟の宿老・吉岡長増の策略により周防大内氏の一族で大友家の客将となっていた大内輝弘が周防(山口県)で挙兵。山陰尼子氏の残党ゲリラ部隊もこれに呼応して出雲(島根県西部)、備前、備後(岡山県中西部)周辺で活動を激化させました。

安芸(広島県)を本拠とする中国地方の大大名・毛利元就(本拠地:安芸)は、これに驚き、豊前門司城を残して立花山城を開城。筑前の戦力を中国

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第11話「雌雄決着」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

第11話「雌雄決着」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

戸次道雪VS小早川隆景の戦いは、小早川隆景の敗北となり、毛利軍は立花山城の防衛網が崩れることを恐れて城に退却し、舞台は籠城戦に移りました。しかし立花山城の北方、豊前門司城(福岡県北九州市門司区大字門司字古城山)には毛利元就がすでに後詰の兵を入れており(元就自身は長門国赤間関<下関市>に着陣)、補給と援軍の期待できない大友軍は形勢不利となっていました。

「せめて、門司の兵だけでも撹乱できれば戦いよ

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第10話「強敵再び」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

第10話「強敵再び」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

立花氏は、大友氏六代当主・大友貞宗の次男・大友貞載が筑前国糟屋郡立花山(福岡市東区、新宮町、久山町に隣接する)に立花山城を築城し、「立花氏」を称したことから始まる大友家の庶流です。

立花山城はその地理的特徴から港町・博多を実効支配しており、立花氏は代々筑前の海の要衝を手中に納めていました。

しかしながら、立花氏七代当主・立花鑑載(たちばな あきとし)は、宝満城督・高橋鑑種の謀反に同心していまし

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第9話「筑前混迷」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

大友・毛利間の和睦がなった翌年の西暦1565年(永禄八年)6月17日、京都で変事がおきます。

足利幕府十三代将軍・足利義輝が、幕府相伴衆にして有力大名である三好義重(のちの三好義継)とその重臣・三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)そして松永久通(松永久秀の嫡男)らに将軍御所を襲撃され、暗殺されたのです。

これを「永禄の変」と言います。

一般的には三好方が義輝を暗殺するために将軍御所を襲

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第8話「未来なき和睦」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

第8話「未来なき和睦」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

西暦1562年(永禄五年)、前年の「第三次門司城の戦い」で筑前、豊前への支配力を失った大友義鎮は焦っていました。

足利幕府より(多額の献金攻勢の結果とはいえ)筑前、豊前の守護職に補任されながらも、その支配権を他の大名に奪われるなど、義鎮の大名としてのメンツが丸つぶれの状態になっていたためです。

また、「第三次門司城の戦い」は、義鎮にとって家督を継いで初めての大敗北と言ってよく、義鎮が受けたメン

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第7話「手痛い敗北」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

第7話「手痛い敗北」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

西暦1560年(永禄三年)12月、すなわち先の「門司城の戦い」から1年後、安芸・周防・長門(山口県と広島県)の戦国大名・毛利元就は、再び豊前攻略の活動を開始します。

左衛門督任官元就は、毛利氏家臣・仁保隆慰(にほ たかやす)に命じて、門司城を攻撃させました。仁保はゲリラ戦法を駆使して、大友方の守将・怒留湯直方を翻弄し、奇襲攻撃を敢行。再び門司城を毛利氏の持ち城にしてしまいます。

そして門司なら

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第6話「仁義なき戦いのはじまり」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

義鎮が筑前と豊前の両国の守護に任ぜられる前年の西暦1558年(永禄元年)、早くも大友・毛利の同盟は破綻することになります。

毛利元就の三男・小早川隆景(小早川家当主)が大友家の持ち城である豊前門司城(福岡県北九州市門司区字古城山)を攻め落とし、九州攻略の足がかりとしたのです。

毛利が周防大内氏を滅ぼしたのは西暦1557年(弘治三年)4月ですので、その翌年には九州侵略の手を伸ばしていたことになり

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第5話「九州探題補任」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

大友氏当主・大友義鎮は、西暦1554年(天文二十三年)11月20日、肥後菊池氏を滅ぼし、豊後、筑後、肥後(現在の大分県南部、福岡県南部、熊本県全域)の三か国を支配下に置きました。

この段階の九州の国別の勢力を説明すると

豊前:大内家
筑前:大内家
豊後:大友家
筑後:大友家
肥後:大友家、相良家(球磨郡のみ)
肥前:少弐家、蒲地家
日向:伊東家
薩摩:島津家
大隅:肝付家

となっており、この

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第4話「肥後国平定」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

第4話「肥後国平定」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

「二階崩れの変」によって大友氏の家督を相続した大友義鎮は、弟・晴英を周防、長門(山口県)の戦国大名・大内氏の当主に送り込むことに成功し、自分の領国である豊後(大分県南部)、筑後(福岡県南部)に加え、筑前(福岡県北部)の貿易都市・博多の権益を確保しました。

義鎮の次の仕事は、隣国である肥後の完全攻略でした。大友家はすでに足利将軍家より肥後国守護職に補任されていましたが、肥後国は戦国大名・菊池氏が実

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第3話「大友家と大内家」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

第3話「大友家と大内家」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

大友家の家督を相続した大友義鎮は「二階崩れの変」を収束させて事後処理を行ないつつ、先代義鑑の重臣五人衆を当主直轄の諮問機関とし、また執行機関として佐伯惟教(豊後栂牟礼城主)、戸次道雪(豊後国鎧ケ岳城主)、臼杵兼続(筑前柑子岳城主)らを重用して領国運営体制を固めつつありました。

ところが「二階崩れの変」翌年の西暦1551年(天文二十年)周防国、長門国(現在の山口県全域)を支配していた戦国大名・大内

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