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古い記憶と工場と祖父母

スキかみさま、こんばんは。

今日もスキかみさまにお目にかかれてしあわせなさらです。

さて、本題なのですが先輩と子どもの話をしていたときのこと。

子どもは言われたこと結構おぼえてるだろうからヘタな叱り方できないよね〜
そう考えると、ちびっこたちはいつぐらいから自分の思い出や記憶として残るんだろうか

という話になりまして。

だいたい人は自分を自分と記憶(認識)するのはいつ?とさぐってみたのです。

先輩は保育園の思い出が断片的にあると言っていて、私も大体それくらいかなと思っていたのですが、どうやら私の一番古い記憶はなんと2歳のようです。

今では片っ端から鍵を忘れ、財布を忘れ、タスクを忘れ(このへんはメモでなんとかしている)るポンコツな私。

古い記憶の断片を至極大事に握りしめるよりかは、学生時代、次の日のテストを80点取れる短期暗記力が欲しかった…とチラリと思いつつ

芋づる式に出てきた自我の記憶と、私の人格の基礎になったであろう祖父母の記憶を彼らへの感謝を込めてつづろうと思います。

1.こげちゃのカーペットの感触

いちばんはじめの記憶は、なんと伝えたら良いかわからない。

『言葉』になる前の、心に浮かんだ気持ちだからだ。

私があとからその感情の記憶をテキストにしただけにすぎないけど、その当時はこんな『気持ち』だった。

どこかのお家の中でいた記憶

ほかほか、せなかがあたたかいが、熱い。

どうやらわたしはカーペットで左を下にしながら横たわっている。

となりの工場の音がリズムよくやかましいくらい聴こえてくるなぁと思っていたけどあまり嫌ではなかった。

その音は気がついた時からこの時間(お昼寝タイム)に鳴っていたし、それがあたりまえのわたしの世界だった。

箱のなかで、人が笑ってる。こんなに小さいひとが中で笑っている。

けど意味はわからないし私はその箱に入らないからつまらない。

カーペットに防炎ってマークがあるけどなんのためにこれはあるのだろうか(文字としての認識はない)

くろいかみのもじゃっとした頭のおばあちゃんとよばれる人はわたしをだっこしたりおんぶしたりするけど、すぐどこかにいく。

ああ、たいくつだ、わたしはどうしてここに横になっているのだろう。

いくら思い返しても、古いものはこれだけである。

思ったことが当時言葉としては浮かんでいなかったので、当時の私が感じた『気持ちの記憶』を言葉にしてみた。

わたしにはいつ頃の話(言葉以前に時間や時期の認識もないので…笑)かわからないので母に聞いてみた。

家の中で機織りの音が聞こえて昼間に寝ているという情景から1歳半〜2歳の頃じゃないかという答えが返ってきた。

(昼の時間帯に泉州の祖母の家でお昼寝をしていたのは3歳前に保育園に入る以前ということだ)

そのころから以降の幼い記憶の一塊を、もう一度呼び起こしてみた。

2.絶え間なくきこえる織機の音

幼少期に過ごした泉州は、近代あたりからタオルなどの繊維・織物業が盛んな地域だった。

祖父母は隣の工場で織布業を営んでおり、規則正しいガシャコン・ガシャコン・ガシャコンという機織り機の音が私にとっての子守唄で、日常の生活音。

(音のイメージ的には、ガチャコン⭐︎ガチャコン⭐︎と何重にも同じ音が重なって楽しそうに機織り機たちが歌っているような感じなのだが、ここに同意してくれる人はなかなかいないだろう。)

私が小学生の頃に祖父はその仕事をたたんでしまったので工場の記憶はあんまりないけど、あのすんとした機械にさす油の匂いは今でもしっかりと覚えている。

決してアロマのようなリラックスできるいい匂いではないのだが、とても懐かしい故郷の香りがする。

あれから30年以上経った今でもかすかに油の残り香が工場には漂っていて、当時祖父母といえど若々しかった彼らの横顔を思い出させる。

おじいちゃんとおばあちゃんが面倒をみていた機織りの機械たちも私の家族だった。

3.オジイチャン、オバアチャン、と機織り機たち

工場にあった織機は、戦後、おじいちゃんが単身で栃木に出向いて仕入れたものらしい。

偶然にも主人の故郷の市のものだったらしく、私は謎の縁にびっくりした。

工場をたたんだあと、機械は売ってしまったのか一つも無くなってしまった。

せっかちな機械たちが休む間もなく動いていた狭い工場は、がらんとして広くなってしまった。

機械と機械の間の狭い狭い通路の突き当たりにあった古いお手洗いの扉がだけがぽつんと遠くにそのまんまの形であった(水洗じゃなかったので工場稼働時おさなかった私は怖くて使えなかったが)

小学生ながらも、なんだか心に隙間風が吹いたような虚しい気持ちに襲われた。

糸を繰る機械が止まった時に祖母が切れた糸の端をとってつなぎ直す手元や、織機をメンテナンスする祖父の背中、働き続ける機械たちをずっとみてきたから。

その機械がなんのために毎日、糸を忙しく紡いでいるのか、布をつくっているのか、その当時は理解できなかったけど、なんのために生まれてきたのかわからない私も似たようなものなのでそんなことはどうでも良かった。

祖母にお世話されるこの鋼の機械も、祖母に世話される私もなんだか同じみたいとぼんやり思っていた。

祖父は背は高くなかったけどもちもちで筋肉があって、なかなかに怖い人だったらしい。

けれど、私が小児喘息だったのをきっかけにタバコを辞めたのだと何回も母から聞いた。

私は10人近くいるいとこの中で唯一の孫娘だったから、祖父にとってはとくに可愛かったのだろう。

兄と騒いでいる時に、うるさいとかんぬきを投げられた記憶はあるけど(笑)、自転車の後ろや軽トラの助手席にのっけて街を回ってくれる大好きな祖父だった。

そんな祖父とも中学や高校になると月に一回遊びに行くか行かないくらい。

社会人になるとそれは年をまたぐようになった。

3年ぶりに再開した時は、結婚の挨拶に行った時だった。

その時に、祖父に言われたことがある。

さらちゃんおめでとう。結婚はな、博打みたいなもんなんや。いいときもわるい時もある。だから、良いときでも有頂天になったらあかん。悪い時でも自暴自棄になったらあかんで。

その時は、愛妻家にしか見えない祖父が言うには意外だったことと、孫娘の結婚のお祝いにいう言葉かいな?と思ったけど、いろんな幸せや不幸せな出来事が起こってその意味が少しだけわかった気がした。

運要素もあるし結果は変えられないけど、それをどう受け止めるかは自分で決められる。

たぶん、そんなことを言いたかったのだろう。

ウエディングドレス姿は見せてあげられなかったけど、曽孫を抱っこしている満面の笑みの生前の写真はわたしのiPhoneの中にのこっていて一年おきぐらいにひょっこりでてくる。

その祖父が亡くなって3年目の秋が来た。

祖母は健在だが、気持ちは少しづつ祖父のもとに向かっている気がする。

機織り機の音と油のにおいがする場所から離れて30年近くたったが、私が『キカイ』に対して偏…愛を持ってしまうのはこういう機械と祖父母に守られて育った生い立ちがあるからかもしれない。

今住んでいる西陣は日本でも屈指の職人の街で、今もあのころからタイムスリップしてきたような昔ながらの機織りの工場がある。

街をあるくと、どこからともなく風にのって、昔の思い出が聞こえてくる。

4.今日の積みあげ

・病院に行った(また備忘録として記事に書きたい)

・パソコン周りを仕事仕様にレイアウト変更した。

・配線タップの寿命は5年なのに、15年もののタップが出てきて笑った。火事の恐れもあるのでなるべく取り替えようね…。

・記事を2つかいた!一つはこの記事

・イラストも2つ書いた

・ゲーム配信した!





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