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エッセイ

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ゲンコツの手(エッセイ)

僕の母は、とても幼い頃に這い這いで掘り炬燵に潜り込んでしまい、炭で火傷をして左手の指を失ったそうだ。それでも、指のないゲンコツの手で、車の運転でも家事でも、日常生活はほぼ問題なくこなしてしまうので、母がれっきとした手帳を持つ身体障害者だということは、つい忘れてしまいそうになる。明るく世話焼きな性格で、人望が厚く、友達が多い方ではないかと思う。
子供の頃は、指がないことでずいぶんいじめられたらしい。

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床板の記憶

床板の記憶

音楽や食べ物によって特定の記憶を思い出すことが誰しもあると思う。場所もまたそんなスイッチになることがある。決まった場所に行くと、特定の記憶の時間にふっと飛んでしまうようなことが。
あらゆる喜怒哀楽が染み込み居心地を良くも悪くもしている僕らの手作りの販売店舗も、やはりそんな場所だ。
元々農協の支所だったその建物は、すだれで隠しているメガネ顔のマスオさんのシールに、かろうじて当時の面影を残している。

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目覚め

目覚め

人はなかなか自分のことが分からないものだと思う。自分の中に相反するものが常に同居しているように思える。自分の心なのに、白かもしれないし黒かもしれない、と言えたりする。ちょうどオセロの盤上のようだ。 2014年が明けたころ、僕は自分で創業したかまど炊きの豆腐屋を続けたかったし、続けたくなかった。毎日そのことを考えていたが、毎日答えが変わった。 ようやく最後に結論を出す決め手になったのは、ある夢だった

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父の手

父の手

よく晴れた六月の日曜日、僕は妻と娘とともに、介護施設から退所したばかりの父を迎えて、僕が幼少時代を過ごした諏訪へ出かけた。
父と会うのは一年ぶりだった。
一年前、父は徘徊を繰り返した。夕方になると家を飛び出して黙々と歩いた。心配で、僕や母はよく街中を探し歩いた。警察のお世話になることもあった。
「きちんと家で見ていてください」
世間は理解してくれなかった。力が強く、とても止められるものではない。止

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