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古本をめぐる冒険「吾輩は猫である 夏目漱石」

多くの日本人が知っている小説のひとつといえば「我輩は猫である」であろう。書き出しの「我輩は猫である。名前はまだ無い。」も、空で言える人も多いと思う。そんなにも著名な作品であるにも関わらず「読んだことがない」「あらすじさえ、わからない」という人も多いのではないだろうか。

いや、別に責めているわけでも上から眺めているわけでもない。このようなことを書いている私自身「我輩は猫である」を完読できたのは、社会人になってからだった。それまでに何度も挑戦しては、途中で挫折してしまっていた。漱石自身も序で、

纏まつた話の筋を讀ませる普通の小説ではないから、(我輩は猫である 序より)

と、書いているように、ひとつづきの筋があるわけではないので「続きが気になる!」と、読み続けてしまう類の作品ではないし、なによりも筆者の脳力では高尚すぎる部分が多く集中力が続かなかったのだ。そのようなわけで、今回は内容の解説ではなく、装丁を紹介してみたいと思う。(注・今回掲載している写真は、すべて近代文学館の復刻版です)

「吾輩は猫である」の装丁

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「我輩は猫である」は、上中下の3分冊で構成されている。装丁は橋口五葉で、挿絵は中村不折。モダンで所有欲が刺激される装丁である。漱石先生も序で、

自分の書いたものが自分の思ふ樣な體裁で世の中へ出るのは、内容の價値如何に關らず、自分丈は嬉しい感じがする。(我輩は猫である 序より)

と、書いていらっしゃるから、だいぶご満悦だったのだろう。ちなみに漱石が橋口五葉に装丁を依頼したのは「橋口の実兄が漱石の教え子だった」ことが、きっかけだったとのこと。何が縁になるのかわからないものである。

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カバーを取ると、金押しの美しい図案が表れてくる。私は個人的に「カバー下の装丁」を見るのが好きだ。表紙と同じデザインだと(別に、それが悪いわけではないのだが)少々、がっかりしてしまう。本作品のような装丁を目にすると「カバー下は、こうきたか。手を抜いていないなあ。美しい!」と、ひとり悦に入ってしまったりする。これも「紙の本」を手にする醍醐味のひとつだと個人的に感じている。

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天金もしっかりと輝いている。「切抜帖より」の時にも書いたけれど、天金が施されていると「お宝感」が感じられて楽しい。この復刻版も、発売からすでに数十年の月日が経過しているのだけど、ご覧の通り輝きを保ったままである。美しいです。

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ちなみに、上編にこのような挿画があるのだが、頭の上の文字が読めなくて気になっている。ご存知の方がいらっしゃったら、何と描かれているのか教えていただきたい。よろしくお願いします。

「漱石先生は、すでに教師ではなくなった」

「猫」と甕へ落ちる時分は、漱石先生は、巻中の主人公苦沙彌先生と同じく教師であつた。(中略)然し此序をかく今日の漱石先生は旣に教師ではなくなつた。
(我輩は猫である 下編 序より)

私は、下編の序に書かれたこの一文を目にした時「我輩は猫であるを読んでよかった」と感じたことを覚えている。今回、あらためて(さらりと)再読してみたのだけど、やはりそう思った。なぜかはよくわからない。たぶんこれからも、わからないと思う。

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