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同時に学べる!地理と世界史 Vol.13 600年~800年の世界

いったんバラバラになった世界が再びまとまる時代①

歴史:この時代のユーラシア大陸では、いったんバラバラになった国が、新しい秩序によって再びまとまっていくことになるよ。

「新しい秩序」ってなんですか?

歴史:前の時代にはユーラシア大陸の各地に遊牧民が移住していったよね。

 遊牧民の移住した先には定住民が農業をやっていたから、遊牧民は各地で定住民を支配する必要にせまられたんだ。

 ケンカばっかりしているわけにはいかないし、お互いそれぞれ強みも弱みもある。新しい支配の仕組みをつくっていくにあたっては、従来の遊牧民の常識も定住民の常識も通用しない。どちらも「納得」するような新しい仕組みが必要になる。「不公平だ」と感じる人が多くても社会はギクシャクするし、支配するのに都合が悪くなっても困る。

異質なキャラをミックスするって、なかなか難しいですね。

歴史:そうだね、特定の民族や文化だけに限られるような仕組みでも困るしね。
 民族や場所に関わりなく、なるべく多くの住民が「共感」するようなストーリーが必要になるわけだ。
 その例が、キリスト教、イスラーム教、マニ教、仏教といった宗教だよ。

 では地域別にみていこう。

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●600年~800年のアメリカ

歴史:北アメリカでは、乾燥地域でトウモロコシなどの農作物の力で人口が増え、大きな町が発展するようになった。

 でも南部のマヤ文明では今まで栄えていた都市が見放され、中心都市は別の場所に移動している。現在のメキシコの高原にあった大都市も衰退した。
 開発のしすぎが環境破壊につながり、資源の取り合いになったと考えられているよ。

アンデス山脈はどうなっていますか? 

地理:南アメリカのアンデス山脈には広い範囲を支配するリーダーも現れている。
 標高が2000m~3000m近いところはまだ木が生えるけど、3000mを超えるともう生えない。
 森林が生えなくなるほど高いところの気候を「高山気候」(Hという記号で示す)というよ。
 強風が吹き付け紫外線が強いけど、赤道近くでは「高さ」にさえ慣れてしまえば、低地よりも住心地はマシだ。
 

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●600年~800年のオセアニア

歴史:太平洋ではポリネシア人が東へ東へと拡大し、なんとハワイやイースター島にまで到着している(もっと遅いという説もあり)。
 ポリネシア人は「人類史上もっとも広い範囲に拡大した民族」といわれているよ。

地理:オーストラリアもまだ外部との接触がない。
 先住民のアボリジニーは、狩りや採集による生活を続けているね。

 オーストラリア大陸の東側を南北に走る山脈(注:グレートディヴァイディング山脈)には、彼らが住んでいた跡がみつかっている。現在は大地の動きは活発ではなく、いちばん高い山でも2228mしかない(コジアスコ山)。


オーストラリアって全体的に標高が低いんでしょうかね。

地理:国全体の平均は340m。9割がたが500m以下の土地なんだ。
 古い岩盤が露出したり、その上に積もった地層が長い年月を経て削られた影響が残っているんだ。

エアーズロックってありますよね?

地理:ああ、あれは「削られ残し」の部分だ。「残丘」(ざんきゅう)っていうよ。
 アボリジニーにとっての聖地で、彼らの呼び名では「ウルル」だ。

一枚岩である。Photo by Jason H on Unsplash

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●600年~800年の中央ユーラシア

遊牧民たちの活動はどんな感じですか?

歴史:この時代には定住民エリアに大きな国がつくられていくんだけど、負けず劣らず遊牧民の草原地帯にも大きな「まとまり」ができているよ。

 ユーラシア大陸の東のほうでは、トルコ系の言葉を話す民族が大連合を形成していて、貿易ルートをめぐって中国と戦っている。

じゃあ草原地帯はトルコ語が話せなければやっていけないってことですか?

歴史:そんなことはない。
 遠距離間のビジネスで活躍していたのは、イラン系のソグド人という民族だ。彼らは遊牧民のふところに入り込み、西アジアから中国にいたるまで各地に支店を張り巡らせていた億万長者集団だった。

ソグド人もモンゴル高原が拠点ですか?

地理:ううん、ソグド人はアラル海に注ぐ2つの川の周辺を拠点にしている。


 かつては世界第4位の湖だったんだけど、農業のために水を使いすぎてここは今から50ほど前には面積がその10分の1になってしまった。現在は堤防でなんとか食い止めている状態で、牧畜や漁業で乗り切っている状況だ。

 アラル海には2つの川(注:アムダリア川とシルダリア川)が、「世界の屋根」ともいわれる高山地帯(注:パミール高原)のほうから流れてくる。

 「わたしたちにとって万年雪はなくてはならないものです」(パミール高原の農民)

乾燥気候の真っただ中にあって、豊富な雪解け水が流れてくる2つの川の間の地域は、農業を大規模におこなうことのできる「天国」のような場所だ。

 ソグド人はこういうところで農業をやっていたんだけど、あまり定住にこだわらず、ユーラシア大陸をまたにかけた商業で発展していったわけだ。


遊牧民の軍事力を後ろ盾にして活動したわけですね。
 
歴史:今となっては「ソグド人」を名乗る民族はいなくなってしまったけどね。
 モンゴル高原のほうではウイグルや突厥といった遊牧民と「一体化」してしまったことがひとつの理由。
 もうひとつは、ソグド人のふるさとである「2つの川の間の地域」が、イスラーム教の指導者(注:アッバース朝)の支配エリアに入ってしまったことにある。

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●600年~800年のアジア

○600年~800年のアジア  東アジア

歴史:東アジアでは、遊牧民が「中国人」化したグループが、中国の分裂状態にピリオドを打ち、新しい王国を完成させた。国の名前を隋(ずい)というよ。 

 隋は従来の支配システムを受け継いで強国を目指したけど、厳しい支配に対して反乱が起きてしまう。

 これをおさめた王族が今度は「唐」という国を建国。中国の「皇帝」を名乗ったよ。
 都は「碁盤(ごばん)の目」状(注:直行路型)の計画都市で、中国の皇帝のパワーの象徴となった。

 唐もやはり遊牧民が「中国人」化したグループだ。

 西の砂漠エリアにも進出し、朝鮮やベトナム、山岳地帯にも支配を及ぼした。

「山岳地帯」っていうのはどこですか?

歴史:チベットとか、今のタイの北にあたる地域だよ。

地理:今のタイの北部は、土地に石灰岩の成分が含まれていることが多い。
 石灰岩は弱酸性の水によって溶けやすい。
 それが雨によって溶けて、初期の「ドラゴンボール」にでてくるような奇妙な形の山が広がっているところもある(注:タワーカルスト。今の中国にあるコイリン(桂林)という都市が有名)。

桂林の老寨(ラオジャイ)山。


 このように石灰岩でできた地形(注:カルスト地形)は、水によって変形しやすい。ちっちゃなくぼ地(注:ドリーネ。ドリーネどうしが連結するとウバーレという)とか、地下の洞窟(注:鍾乳洞(しょうにゅうどう))が発達しやすいんだ。


唐は中国の南部も支配していますよね。

地理:そうそう。
 南部の雨のたくさん降るエリアでは、もともと300年以上にわたって開発がすすみ、大量の稲の生産が可能になっていったんだ。

 「南船北馬」っていう言葉知ってる?

南に船で行って、北に馬で行ったってことですか?

地理:これは、中国の南の交通手段は船で、北は馬だっていう意味なんだ。

はあ。

地理:中国の南はまさに「水の都」。
 洪水が起きないように堤防がつくられ、田んぼや住宅地を増やしていったからだ。

なんでそんな面倒なことをしたんですか?

地理:そこまですれば北から馬が攻めてきても安心でしょ
 低湿地にまで馬は攻めて来れないから。グチャグチャで。




そのころ日本はどんな感じですか?

歴史:朝鮮に進出しようとした日本は唐にブロックされ、その拠点を失っている。で、中国の制度を導入して国づくりを進めていったんだ。


○600年~800年のアジア  東南アジア

この頃は季節風貿易が盛んなんですよね。

歴史:そうだよ。
 でもこの時期にはそのメインルートが変更するんだ。
 東南アジアからインドのほうに渡るには、いままではマレー半島の港で一旦降りて、山を渡って向こう側に人やモノを運んでいくのが主流だった。
 でも船の技術がレベルアップして、マレー半島の先っぽをまわるルートが実用化されるようになったよ。

 すると今までは人がよりつかなかった現在のインドネシアの島々にも、貿易ルートや貿易品をコントロールしようとする支配者が現れるようになった。

支配者はどうやって人々を「納得」させようとしたんでしょうか?

歴史:貿易の中心地だから、インド人や中国人などさまざまな人たちがやってくるよね。だから海外からの刺激を強く受けたわけだ。
 インドネシアでは特にインドの影響を受け、「仏教」の「すごいところ」「カッコいいところ」が取り入れられ、王様の支配に利用されるようになるよ。
 当時の中国のお坊さんの中には、インドに「オリジナルのお経」を探しに行った帰りに、インドネシアの島にあったお坊さんの大学で、多くの学生さんたちと一緒に仏教の研究をした人もいる。

貿易ルートをめぐって戦争にならなかったんでしょうか?

歴史:戦争も起きたよ。とくにユーラシア大陸のほうのベトナムやカンボジアの港町の国と、現在のインドネシアが位置する島々の王様たちとの間は仲が悪かった。
 これら国々は重要な取引先である中国との関係を良くするために、中国の皇帝にちゃんとした使節を送って「貿易をする権利」を獲得しようとしたんだ。
 当時の中国は、周辺の国に位を与えて「家来」にすることで、はじめてちゃんと貿易することができるというルールをもうけていたんだよ。

なんでそんなめんどくさいことするんですか?

歴史:中国にとったら、そのほうが「安心」だからだ。周りの国がちゃんとした国によってコントロールされていたほうが「平和」になるでしょ。何人も支配者がいて、別々に貿易を中国に求めてきたら、それはそれで争いのもとだ。「ベトナムではあんたが一番偉い」「日本ではあんたが一番強い」っていうように窓口を指定することで、効率よく地域の秩序をコントロールしようとしたんだよ。


○600年~800年のアジア  南アジア


南アジアはどうですか?

歴史:バラバラの状態の続いていた南アジアでは、北インドが一時期統一されたけど、基本的には地方によってバラバラの政権が建てられる。
 地方色の強いバラエティの豊かさが、インドの特徴だ。

 この時期にも中国から「本物のお経」を求めにお坊さんがやってくるけど、一般人は基本的に地元の神様を信じているよ。神様はたくさんいるけど、人気のある「推し神」は限られている(シヴァなど)。

○600年~800年のアジア  西アジア


歴史:アラビア半島っていう乾燥エリアがあるよね。古来、ラクダを連れた遊牧民が暮らす”のんびりとした”ところだったんだけれども、沿岸地帯にいろんな国からビジネスマンが入り込むようになると、そういうわけにもいかなくなっていった。

「お金なしには生きていけない」社会になっていったんですかね。

歴史:そう。そもそもユーラシア大陸の貿易ルートは、地中海~シリア~イラク~イランのルートがメインルートだったんだけど、このころ東に分かれたほうのローマとペルシアとの間で戦いが絶えない状況になっていて、海を通らざるをえなくなっていたんだ。 

 特に大きな都市では、人間関係よりもお金の関係が優先されるようになっていった。
 「不公平だ」という意識は、いつの時代でも社会を変えるパワーになる。 

 このときに立ち上がったのはお金持ちのビジネスマン出身の人物で、「これからはみんなが平等で平和にやっていける世の中の仕組みをつくろう」と訴えたんだ。

お金持ち出身ってとこがすごいですね。

歴史:そうだね。みんなが平等で平和にやっていくには、「そもそもこの世界のすべてが神様によってつくられ、その終わりに向かってすべてが定められている」ってことを認めることからはじめようじゃないかと訴えた。


その「神」ってどんな神ですか?新しくつくった神なんですか?

歴史:彼によるとその神は、ユダヤ教徒やキリスト教の神と同じ神だ。でもユダヤ教徒にしろキリスト教徒にしろ、彼らは神について正しく理解できていなかったというんだ。

 アラビア半島の人たちは自分たちが「ど田舎」だっていう劣等感を持っていたんだけど、これからはこの神をまつるために、ユダヤ教徒やキリスト教徒のマネをする必要はない! 
 これからはアラビア半島の大都市メッカにある神殿に向かって祈ればいいんだ! と主張したんだ。

お祈りには何語が使われるんですか?

地理:たしかに聖典はアラビア語(注:アフロ・アジア語族に分類される言葉)で読まれていた。
 アラビア語は商売のときに使われることばでもあったから、アラビア半島から北アフリカにかけての乾燥エリアへとまたたくまに広まっていき、現在でもこの地域ではアラビア語が通用するんだ。若干の方言の違いはあるけど。

じゃあ、彼の考えはアラビア半島の人向けってことですかね?

歴史:人間は神の下では平等なんだという考えには、場所を選ばれずに信仰される要素があったからね。

 それに、ユダヤ教徒やキリスト教徒などに対しても、存在を認めなかったり弾圧をしたりということはしなかったんだ。 こうして彼の考えはアラビア半島の遊牧民にしだいに受け入れられ、短期間のうちに広まっていくことになる。
 この新たな宗教をイスラーム教というよ。

 開祖が亡くなると、「代理」が信者の選挙で選ばれたけど、「誰を代表にするべきか」をめぐって仲間割れが起き、最終的に力ずくで軍人が「代理人」の地位を勝ち取り、その地位は選挙ではなく彼の一族(注:ウマイヤ家)に受け継がれることになってしまった。

 このころには、アラブ人の支配エリアはイラン、シリア、エジプトにまで広まっていたから、かなり広い範囲だね。

 でもこの一族がアラブ人を「ひいき」したことに対する反発も、日に日に強まっていった。すでにイスラーム教はさまざまな民族の地域に広がっていたからね。

 そこでウマイヤ家の遠い親戚にあたるアッバース家が立ち上がり、新しい国をつくって、イスラーム教徒ならみんな平等という制度をつくったよ。

ほんとうに平等になったんですか?

歴史制度的にはね。
 イスラーム教徒の国では、支配者にもイスラーム教徒の正義にかなった支配をすることが求められる。支配者はイスラーム教の平等で平和な世界をつくることで、人々を「納得」させることができるわけだ。そうやってはじめて支配者は、開祖の「代理人」としてのパワーと尊敬を集めることができる。

 でも、そもそも誰が開祖の「代理人」としてふさわしいかをめぐっては対立もあって、はじめから数えて四代目の「代理人」の一族こそが「代理人」にふさわしいというグループが、根強く残っていくよ(注:シーア派)。

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●600年~800年のアフリカ

歴史:この時期、北アフリカにはアラビア半島の遊牧民がイスラーム教という新しい秩序を掲げて進出し、支配をしようとしている。

 でもここにはもともとベルベル人という遊牧民がいて、サハラ砂漠を超えたラクダの貿易をコントロールした支配者が各地で力を蓄えていた。

どうしてわざわざ砂漠を超えて貿易するんですか?

歴史:砂漠の南で金がザックザクとれるからだ。
 砂漠では岩塩がとれるから、その岩塩を持っていけば金と交換できるというわけだ。

ベルベル人はイスラーム教を受け入れたんですか?

歴史:ほとんどの人はイスラーム教を受け入れた。ビジネス上、そのほうが有利と考えられた面もある。
 そしてアラビア半島の人たちといっしょに、ヨーロッパにわたって現在のフランスやスペインのあるところを攻撃し、スペインの大部分を支配下に置くことに成功した。

えっ、ヨーロッパってキリスト教ってイメージがありますが…

歴史:だよね。スペインはイスラーム教徒が支配した経験を持つ地域だから、旅してみると「ちょっと違った雰囲気」が建築や文化から感じられると思うよ。
 どこの地域もそうだけど、文化っていうのはたった一種類の純粋な成分でできているっていうのはありえなくて、ミルフィーユみたいに、古い時代からいろんな要素が積み重なったり混ざり合ってできていくものなんだよ。


 ゲルマン人という民族が国を建てていたんだけど、この時期には滅ぼされている

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●600年~800年のヨーロッパ

ローマが分裂した後、ヨーロッパはどうなってしまいましたか?

歴史:西側のローマでは、ゲルマン人はあちこちで国を建てるけど、キリスト教の教会やローマ人の有力者と協力するようになる。住民たちを支配するためには、軍事力による脅しだけでは難しいからね。
 でもすでに前の時代には、ゲルマン人の軍人によって西ローマ皇帝は殺され、西側のローマは滅んでしまっていた。

 現在のイギリスでは、ゲルマン人の一派が複数の王国を建てている。

 土地がやせていて農業に向かない北ヨーロッパでは、船を出して貿易をおこなうヴァイキングという民族も活動を始めるようになっているよ。

どうして土地がやせているんですか?

地理:ヨーロッパの北のほうはかつて氷河におおわれていたからだ(注:スカンディナヴィア氷床)。
 氷がかぶさっているので、木や草が生えない。
 つまり、「良い土」が積み重なっていかなかったんだ。

 
なるほど。では、東側のローマの様子はどうなっていますか?

歴史:一方、東側のローマは、ゲルマン人の進入に関して言えば、大きな痛手はそんなに受けなかった。だから皇帝は依然として強いパワーを持ち続けるんだ。

 でも、この時代には東のほうでアラビア半島の人たちがイスラーム教を掲げて広まると、皇帝は対応に追われた。シリアやエジプトを奪われてしまったからだ。

 また、アジアの方面からやってきた遊牧民(ブルガリア人)や、ゲルマン人の東隣にいた人たち(スラヴ人という)の活動もさかんで、彼らの退治にも一苦労だ。

 東側のローマ皇帝は権力と尊敬を集めるために、キリスト教の教会を保護し、ローマのほうの教会もコントロール下におさめようとした。ローマの教会との間には「キリスト教の教え」の解釈をめぐって対立も起きているよ。

 そうなると、ローマの教会は「東側のローマ」の皇帝とは別の”親分”を欲しがるようになった。
 そこでその代わりの親分として白羽の矢が立ったのは、ゲルマン人の一派が現在のフランスに建てたフランク人の王様だったんだ。

 フランク人の王様は、ローマの教会によって「お願いします。”西ローマの皇帝”になって、東ローマと対抗してください」と頼まれたんだ。こういうわけで今後ローマの教会は、存在感を高めていくことになるよ。
 ヨーロッパにキリスト教の要素がプラスされるのは、この時代以降というわけなんだ。

クリスマスの風習も、ゲルマン人とキリスト教の要素が組み合わさってできたものだ(ドイツのトリーアのクリスマスマーケット)Photo by Diogo Palhais on Unsplash

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