雑記:九州の戦国大名・龍造寺と島津

熊本県玉名市高瀬は、高瀬の会戦が行われた場所で西南戦争の激戦地として知られるが、その高瀬の願行寺には龍造寺隆信の首塚と伝承される石塔がある。

龍造寺隆信は「五州二島の太守」と異名を取り、あるいはその酷薄で猜疑心の強い性格から「肥前の熊」ともあだ名されて九州を席巻した戦国大名であるが、沖田畷の戦いで島津軍と戦い敗死した。

この時討ち取られた隆信の首は、島津によって本国佐賀にいる従弟で家老の鍋島直茂(直茂の生母と隆信の父が兄妹)に届けられたが、直茂は宣戦布告とばかりにこれを受け取ることを拒否し、仕方なく使者が首を持ち帰る途中に首がだんだん重くなったために高瀬に埋葬したものが願行寺の首塚と言う。

逸話の真偽はともかく、明治になって五輪塔を発掘した所、首の骨が出てきたと言い、その骨は佐賀市にある鍋島家の菩提寺・高伝寺に改葬された。

ただし、五輪塔は乱積みで、地輪は宝篋印塔の基礎で代用されており、水輪は室町時代くらいまで遡るものと思われ、いづれも隆信の没年以前の造立と考えられる。

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現在高伝寺にある隆信の墓(下の写真)は、火輪の形が特徴的な九州によく見られる形式の五輪塔であるが、造立年代は隆信の時代よりもずっと下るため、首塚から出た骨を埋めた際に建てられたものであろうか。

隆信の墓以外にも、高伝寺には鍋島家歴代の墓所がある。

龍造寺隆信

隆信を討ち取った島津氏は、同じ頃島津義久が当主であったが、彼の弟達はいづれも武勇に長けた武将であった。

中でも次弟で薩摩藩初代藩主島津家久(義久の弟の家久と諱が重なるので、区別をつけるために初名の忠恒で呼ばれることも多い)の父である島津義弘は、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いの敵中突破などの武勇伝で知られる人物である。

義久・義弘兄弟の墓は鹿児島県鹿児島市の福昌寺跡の墓地内にある(福昌寺は明治初年の廃仏毀釈によって廃絶して墓地のみが残る)。

こちらも、九州南部によく見られる塔身が細長く相輪も独特の形状をしている宝篋印塔である(下の写真一枚目の向かって左側が兄弟の父・島津貴久の墓、右側が義久の墓、二枚目が義弘の墓)。

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福昌寺墓地には、他にも島津家歴代当主の墓が建ち並び壮観である。

島津氏は鎌倉時代から一貫して薩摩を領していたため、室町時代時代から幕末までの当主の墓が一箇所に現存している全国でも珍しい大名墓所になっている。

六代以前の墓は別所にあり、福昌寺は七代元久以降の墓があるが(七代元久・八代久豊の墓所は下の写真一枚目)墓所内の石塔で最も古いと思われるのが南北朝から室町時代頃のものであるため、当初から元久以降の歴代当主の墓があったと見て問題ないであろう。

当主の墓は概ね江戸時代の藩主と同じ宝篋印塔形式であるが、一部五輪塔や宝塔も混じっている(五輪塔と宝塔は当主以外の一族の墓か)。

なお、幕末の藩主・島津斉彬は宝篋印塔であるが(下の写真五枚目)、弟の久光の墓は、藩主に就任していないためか角柱塔である(下の写真六枚目)。

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