2023.11.8 東西科学の統合 〜新時代の学術に向けて〜

桜沢さんの健康の7大条件を読んだときに思ったのが、やっぱり教祖様感というか、カルトっぽくなる。たぶん、これは東洋の哲学や宗教の構造も関係しているのだろう。

東洋というのは釈迦とか桜沢みたいな、いきなりポンと完成形が出てきて、残りの弟子がずっとそこに到達しよう、という追いかけるゴールがすでに出来上がっている。つまり、弟子がいかに正確に教えを継いでいくか、みたいなことになる。で、そこに対して僕は気持ち悪さを感じるというか、「なぜ越えて行こうとしないのか」、つまり桜沢にしろ、釈迦にしろ、僕が尊敬している学術界での他の巨匠にしろ、皆もちろん偉大である。偉大な先生であり、師匠である。ただし、やっぱり同時にライバルとして、僕は見ている。体がそのように捉えてしまっている。そうした偉大な先人への畏敬の念を抱きつつ、彼ら・彼女らを超えて行くつもりでやっているし、実際にいけると思っている。 

しかし、その“超えていくという発想”そのものが、今のマクロビ界には欠如しているんじゃないか。これが、ある意味異質な領域から・異質なルートからマクロビの世界に足を踏み入れた私の目に映った、マクロビ界に対する正直な意見で、問題提起であります。

この、「先人を超えていく」という営みこそが恩返しであり、次に、今度は私たちを超えていく弟子を、次の世代を育てるというのがいいんじゃないかなって。それが人類史じゃないか。 

他方で、この先人の肩に乗って先人を越えていく姿勢というのは、西洋哲学の方向性なわけです。どういうことかというと、西洋哲学というのは、これまでの積み上げに乗っかって、どんどん発展していくことが命題なのである。人類としての知の研鑽と積み重ね、これが西洋哲学の土台であり、西洋の科学の発展もこの土台の上に成り立っている。この「超えていく」態度が、東洋に足りていない姿勢じゃないかと思うのです。

ただし、西洋の場合は、今度そうなってくると既に完成しているもの、マクロビオティックもですが、感性工学やKJ法など、一旦は完成しているものに対して、無理やり揚げ足とりや粗探しをして、「その発展の方向、違くね?」とか「いらんくね?」っていうことをやりだす。それが現代の科学、特に日本の不毛な、科学と言われる研究のプラクティスだと捉えている。これは私の目を通した私的な意見なので、エビデンスはありません。そういうトーンで聞いてください。

でも、この東西両方の共通問題として浮かび上がったのが、どちらも“一つの軸上でしか見ない”ということです。

つまり、東洋ではマクロビならマクロビ、仏教なら仏教というベクトル上で、もう完成形の神がいて、それで完成しちゃってんだからもう超えようがない。横にはみ出す以外ない。でも、逆に言うと、横にはみ出せるんです。僕が今マクロビ以外にやっている、美座療法やKJ法、Crystal Medicineという別の領域を合わせることで、違うベクトルに分岐できる。違う水脈が見えてくる。 

川の流れで言えば、その本流を登って行って、そのままスタート地点をぶち破っての川より上に来るって事は出来ないんだけど、その横に分岐させて行ってさらに上流に登るってことはできると思うんだよね。

他方で、西洋科学も、やっぱその一本の本流の中で発展させていっている。だから、もうどっかの地点で完成して、ここが打ち止め・ここがこの川の・この領域の完成形だってなっても、さらにその先に無理やり進まなきゃいけない、っていう歪んだ発展をしていく。ここにおいて、横に視野を広げると、いい塩梅で一本筋に発展をしていく傍らで、その先端にある完成形をどんどん見ながら、違う方向への分岐・支流ってのを発掘していけるんじゃないか。

何が言いたいかっていうと、東洋的なリスペクト、完成形の偉大な先人を見るということと、西洋的な、それをさらに発展して超えてくっていう両方を合わせることによって、かつ一本の筋だけじゃなくて、2個、3個、横展できる違う知見をきちんと同じように極めていくことで、初めてイノベーティブだったり、イノベーションが起こせたり、発展っていうものになるんじゃないか。

ここに、カルト味とか、無理やり粗探しみっていうものを解消する、僕の思う東洋と西洋の科学いいところをきちんと統合した、新たな時代の科学や学問の可能性があります。この領域の開拓と構築を、知性と感性の両方をもって、頭を動かし、体を動かし、みんなが笑える世界になればいいなと思ってやっているところです。

以上です。 

ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?