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neutral008 永遠に恋愛できない男


 このタイトルから1918年の室生犀星の詩「永遠にやって来ない女性」を連想するあなたは相当な文学通でしょう。室生犀星は親友、萩原朔太郎が落胆したように植木等さんがゴツくなったようなお世辞にもハンサムとは言えない風貌だった。小説家では私の一推しでもある梶井基次郎(「何処にでもある場所」は『檸檬』からヒントを得た)も女子高生が写真を見て信じなかったように、文章と実物のイメージが一致しない二大巨頭と言えるのかも知れない。
 さて「永遠に恋愛できない男」とは誰のことなのでしょうか?
 もう皆さんは薄々感じていると思うのですが、暫定的にわたくしとしておきましょう。潜在的には何百、何千万人居ても不思議ではありません。女性も同じ理由で何万人か居ても可笑しくはありません。
 私は若い頃リゾートというものが肌に合わず、そういう場所には自ら行こうとしたことがありませんでした。付き合いで行ったとしてもその施設で働いているウェイトレスの女の子に目が行ってしまい、遊びに来ている可愛い子より興味が湧いてしまう始末でした。仕事中の女性と、その女性が休憩中やオフの時の姿とどちらを選ぶかとなったら迷わず仕事中と答える嗜好を持っていました。一生懸命に注文に応えたり、後片付けに奔走する後ろ姿を眺めるのが至福とも云える程の自分を発見し、これでは永遠に私生活での付き合いは出来ないのではと不安になったこともしばしば。当時はまだ「多様体」という言葉も知らず、その女性の二面性を二者択一でどう考えたら良いのかも分からず、思考するのも面倒になってしまい、例え仕事で出逢いがあったとしても、付き合いはプライベートになるのか、と落ち込んだり。別人?に変身した彼女を多分さほど好きにはなれないし、素顔の彼女とどう向き合って行けば良いのか、大問題でした。
 プライベート(ニュートラル)しか知らない彼女なら迷う必要もなかっただろう。n−1 の1(プライベート)だけで接する彼女はすべてなのだから。ところが働いている女性に目が入ってしまうのだからプライベートでの出逢いは皆無に近く、また興味も湧かなくて消極的と来ては絶望的になってしまっても不思議ではありません。では仕事中の女性というもの、企業の業務によって作られたもので、そのままでは交際などとんでもない蜃気楼や幻なのだろうか。「多様体」からすれば一要素としてプライベートと同等にその女性のキャリアを表現しているし、勿論リアルでアクティブな姿なのだ。ただそのままでは交際には向いていないキャラクターだろう。悲劇の主人公に陥ってしまった自分なのだろうか。交際相手にこちらの一方的な好みを押し付け、仕事中のあなたのようになって付き合ってくださいと恥を忍んで頼んだとしても、不変的に続けられるはずもないし、変人に見られるのがオチだったろう。
 室生犀星はその後世帯を持ちました。
 何故私が今になってこんな事情を書き連ねているのか、n–1の1を肥大させて(自己同一性)その人物を評価するのは比較的当たり前で可能なことであるけれど、「多様体」としてある女性を仕事中とプライベートと少なくとも二つの要素を持った「多様体」として認め受け入れるのは、人間の捉え方として、新しい別次元のことなのではないのか、と思ったりしているのだ。「多様体」と明確に意識していなくとも、何となく折り合いをつけて認知しているのだろうし、しなければ生活を共にしていけない。
 多様体 n は自分の自己分析以外、その要素数を計り知ることは不可能だろう。幼児から、物心着いた時代から n+1 として増え続け、友人の数と同じだけ違う自分が居る(平野啓一郎の分人説)という、私も同様にそう思っているのだ。特に一対一では顕在化し易い。
 古代からの人類の歴史で未だかつて人類を明確に「多様体」として把握出来た者は恐らく居なかっただろう。むしろ単純であったろう古代人の方にチャンスはあったかも知れない。そういう人間の不可知の事情から全知全能の「神」または「浄玻璃の鏡」が奇跡の存在として想定されたとしても不思議ではない。人間は自分を「多様体」として完璧に知り得ない、そのカウンターとしての。
 人間(日本人)を「多様体」として認め、知る手立てはあるのだろうか、と問うてみると答えは限りなくNOだ。残念ながらスケッチ(近似値)を描くことは出来ても完璧には無理というものだろう。無理を通せば挫折が待っているだろうし、健康を損ねてしまうかも知れない。無理に知ろうとせずに人間、特に日本人は「多様体」であり、それ故に「一期一会」のその場面のその時の自分を知れればいいのではないかと私は思っている。わたせせいぞう「ハートカクテル」のように「縮約」として。
 哲学の思考はその時の世界を静的に断面で捉えがちである(構造主義)。歴史は時間の流れの中で動きや変化を捕える。すべての学問はその二つに収束するだろうと言われている。(続く)
 
 追伸: 奥の手として喫茶店、甘味処などの店舗を共同経営して、営業中の彼女に会えるようにするというのは名案ではないか……。
 まずリッチにならねば……
 「良妻賢母」の時代の主婦は便利な家電も無くウェイトレスのように家庭内で働いていた。生まれる時代を間違えた、ニアミスは人生において良くあることなのかもしれないのだが。
 2024/03/28
 

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