将来は妄想。不安も嘘。私たちは今にしかいることができない。

気をぬくと、意識ってすぐにふわふわ飛んでいってしまう。体は歯磨きしてても、料理してても、ご飯食べてても、歩いてても、意識はぜんぜん別の場所にいたりする。人の話を聞いている時でさえ上の空なことって案外多い。

考えている間、聞くことはできない

人と話している時のふわふわは、「傾聴」を習った時に痛感した。傾聴とは聞いたままを受け取ることであって、聞いている時に主観をいれないということだった。傾聴の場合は「この前友達と喧嘩しちゃって大変だったの」と言われたときに「喧嘩ってやばいね」とか「まあ来週また会うからなんとかなるんじゃない」とかはダメ。正解は「(お友達と喧嘩しちゃって)大変だったんですね」。傾聴100%の日常会話なんてありあえないけど、訓練として傾聴してみると、人の話を聞いている時に自分は相当考えているんだということがよく分かる。(そして人は考えている間はきちんと聞くことはできない。)


将来(未来)は存在しない

さて、このふわふわな意識ってアイデアをキャッチしてくれたり同時にいろんなことを考えてくれたり便利なことも多いけど、ふわふわした不安や恐れをうっかりキャッチしてくることも多いなあと思う。

以前、初期仏教のスマナサーラ長老にお話を伺った際「”将来の不安”というのは妄想。そもそも”将来”なんてないから”不安”も存在し得ない」というお話があった。

その通りすぎて、ぐうの音もでない。たしかに、現在に将来(未来)は存在できない。だから将来の不安というものも成立しない。将来があるという仮定のもとに不安はふわふわと湧き出してしまう。

つい、未来のことを考えてしまう。これからどうなるかな、うまくやっていけるかな。うまくいかなかったらどうしよう、代わりにこれをやろうかな?いや、それも微妙かな、全然別のことをしないといけないかな....

いや、待て待て、まだ何もわからないんだから、考えたってしょうがないんだから。まずやってみてからでしょ。未来を考えるのは何かを企画、計画するときなど時間を定めてやれば良いのであって、日頃からどうなるかなこうなるかなと忙しく妄想している必要はないよね。って、分かってはいるけれど。


「いま・ここ」に集中する

人(あるいは自分)に手を当てて霊気(自然療法の一つ)をしている時って、ぼーっとしているだけが一番よくて、つまり何もすることがない。本当に手を当てているだけで、念じることもないし、パワーを込めたりもしない。その時の在り方は、先生によると「目の前にいる人を無視しない」ということで、これがとても深く、印象的だった。

目の前に人がいるのは分かっているし、むしろ手を当てて触っているし、一見、無視のしようがない。でも、よく観察していると、すぐに別のことを考え出している自分に気づく。この後何食べようかな...あの連絡どうなったかな.... などなど。考えている間は人の話を聞けないのと同じで、考えている間は相手のことを感じられない。つまり、相手を無視しているということになる。

霊気でいう「相手を無視しない」とは、当てている手の感覚に集中し続ける、感じ続けるということになるんだと理解している。(相手の言葉に集中し続ける傾聴と似ているのかも)とはいえ雑念はわいて当然なので、また相手に意識を戻れば大丈夫だという。

そうしていると、結果的に「今」にしかいることができない。(当てている部分が)あったかい、ピリピリしている、ミシミシきている、という感覚は「今」でしかない。それが0.1秒ずつひたすら連続しているだけ。もし、どんなにお金がなくても状況が悪かったとしても、手を当てている間は不安になりようがない。

ふわふわと飛んで行かずに「いま・ここ」に存在して、体の感覚を感じる、マインドフルネスと言われる在り方。私はマインドフルネス瞑想は続けられなかったけど、霊気しているとマインドフルな在り方を実感できて面白い。


霊気の五戒にある「今日だけは」とは、そういうことなのかもしれない。

「今日だけは 怒るな 心配すな 感謝して 業に励め 人に親切に」

ただひたすらに、今に集中することを繰り返すことができたら、ずっと安心して生きていける。私も今日も、今日だけは、怒らず心配せずマインドフルに業に励んで、人に親切にしていきたい。



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そういえばこんな日もありました。


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