ラブソングを聞き重ねてもー愛を持たない人ー

今日もお酒を飲んでしまった。
でも何か思ったことを書きたくなったので書こうかなと


たくさんの恋歌を聞いて、たくさんの失恋歌を聞いて
まるで自分が恋愛を重ねているかのような気分になって
また新しい恋を、新しい出会いを見つけようと踏み出そうして。

でも本当の自分は、誰にも愛されたことがなくて、誰かを愛そうとすればするほど、その誰かは自分を決して愛してはくれない。

この世は、「愛」があることが前提になっている。
「愛」があればあるほど見えないものが見えてくる
幸福、未来、帳尻合わせ、治癒、希望、安心・・・

その愛を守るために、人は弱いものを殺し、異端者に地獄を与える。
自分自身、自分自身たちの世界を守るために

真面目に生きている人間を、容姿がたまたま偏ってできているだけで
自分の大切にしているものが少し強いだけで

愛を受け入れられなかった人々は、愛を持つ人々から「死」を与えられる。

そもそもこの世界は、恋愛自体が、「人」として成長する絶対条件であり
当たり前に生きていれば“必ず”誰か一人とは親密な関係になれるものとされる。

それができないということは、必然的に「欠落」「欠陥品」「欠損存在」として認知される。そして、「愛」を持たぬ人々を「劣っている・不必要」とみなすことが許されていると誤認している。

人として、誰かと一緒にいたい、手を触れたい、その感情を叶えるという行為は奇跡とでもいえるだろう。

しかし、奇跡ではなくて、「当たり前」とありえない間違いをしながら
多くの人々は手に入れていく。それは、何を意味しているのだろうか。

どんな者でも、必ず好かれる。愛される。それは紛れもない事実だ

でもなぜ自分だけは、「愛」を手に入れることが不可能なのか

人を貶め、傷つけ、殺め、幸福を独占し、努力という自信の奇跡を自慢し
「愛」を持たぬ人に「愛」を見せつけても

どうして「愛」を手に入れることができるのだろうか。
その答えは、案外とても簡単なことなのかもしれない。

「生きている環境」が間違っていること

そのせいで、自分自身を愛せない、
自分自身の輝きを見えなくさせられている。

それは、もうどうすることもできない。自分の力でも変えることはできない。ただ、一人の「愛」を得られなかった自分として思うことがある。

死ぬ物狂いで生きた先、老いて死ぬ間際に、
世界には愛されていたのだと気づくのでないかと思う。

誰からも、
自分でさえも不必要と思っていても世界は生かしてくれているのだから。

でも愛されたい、愛したい。

人がもっと優しく、
人がもっと痛みや挫折や絶望を知って、
助け合うことができればいいのに

今日も、ラブソングを聞き重ねる。
想像上の愛溢れる世界に飛んでいくために

そうか僕は想像の世界で愛されているのか
見えなくても、触れることができなくても、

想像上にはたくさんいるから1人なのか

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