”見守ってくれる人”と”見守られたい人”
あなたの周りには、見守ってくれる人や支えてくれる人はいるだろうか。
その関係性も多様であり、友達なのか親友なのか、家族なのか恋人なのかは人それぞれである。また、見守るにも段階があったり、いつも見守られていたり、見守り方にも多かれ少なかれ程度の差が生じる。
自分にとって、どのようなものが「癒し」として必要なのか。
それを、心や身体の危機に見合ったもの与えてもらえるかは別である。
逆に、自分自身が相手に対して「癒し」を与えられるかは、周囲をよく観察をして、人一倍気を配る必要がある。
その中で、ふと考えることがある。
”見守ってくれる人”と”見守られたい人”が存在していることに気が付く。
自分を見守ってくれる人が必ずしも好いている人だとは限らない。
そして、見守って欲しい人が自分を好いてくれているとは言えない。
自分を気にかけてくれたり、自分を見守ってくれたり。
距離感によるが、自分の心の具合によって介入してほしい範囲も異なる。
うまく発信できたとしても、範囲を見定めて近寄ったり離れたりしてくれるわけではない。また何よりも、見かけの問題で受け入れたり、いいところだけを取られてしまう人もいる。
見守って欲しい人に見守られるたまには、なによりも自分自身が「素晴らしい人」にならなくてはならない。物理的にも精神的にも欲しいものを与えてもらえるには、相手にとっての「優れた」ものを提供し続けなくてはならない。
だから結局、「相手を好きであること、大切にしたい」という気持ちが”見守ってくれる”に繋がっていく。そうなると、やはりモテる人やうまくいっている人の方が「救われる」ということになってしまう。
自分自身がどうなのかと考えると、正直難しい。
自分が欲しい「癒し」がもらえているのかと聞かれれば、否であるし。
自分が辛い時に「近く」にいないのかと言われれば、それも違う。
確かにそうなると、隣の芝生は青く見えるのものだから気にしてはいけないとするのは理解できる。
しかし、そんな状況で冷静に見れるものではない。
なぜ自分だけ、なぜ自分だけと頭のなかでグルグルと苦しくなってしまう。
人の姿というのは、本当によく見えるものである。
どうしてあそこまでよく見えてしまうのか。
自分の持っているものが、まるで腐っているのではないかと錯覚してしまう。
そのことをひっくるめて、人に言われることが
「人に期待しすぎだ」
ということだ。
期待するというなかには、甘えたい・守られたいということなども含まれているということなのだろうか。
”見守ってくれる人”や”見守られたい人”は
そのときの自分の人間関係が色濃くでてしまうのかもしれない。
ということは、自分と関係がある全ての貢献し続けていった後に分かる指標なのかもしれない。
夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。