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川崎の事件から思うことー僕らも”加害者”なのではないかー


一度、僕は考えなければならないと思うです。

その犯人が自分自身であった場合のこと。

僕らは、常に犯罪者予備軍であることを忘れてはならない。
どうにもならない絶望や困難などは、いつ訪れか予測できない。

自分自身のことを棚に上げて
他者への批判や他者への無関心で自分自身を満たして
己の利益のみを考えて生きているということは

間接的に、誰かにとって

僕たちは犯罪者(加害者)
になっているかもしれないということを忘れてはならない。

今一度、
考えて行動し、言葉を発し、生きていかなければならないのではないか。


5月らしからぬ真夏日を経験し
今日は微妙な気候で、暑さが和らいだ日

事件は突然起こった。


この事件を速報で知ったとき

僕は、今の僕の立場を考えて
もし他者に対して憎悪などが向いていたら

僕もこうなっていたかもしれないと

恐怖でいっぱいなった。


川崎の登戸で児童等19人が殺傷された事件。


犯人は死亡しているため、
何が原因で事件を起こしたのかはわからない。


世間では、「一人で死ね」などといった意見が出ている。

一方で、「そのようなことを流布せず、手を差し伸べてほしい」
といった専門家たちの声が上がっている。


正直、どちらも同じような立場で話しているんだと感じた。
結局は、他人事であって、別世界の出来事なのだと。

犯人に同情する余地はないかもしれない。
しかし、その犯人の背景を”こうだったら”と仮定した場合
誰だってそうなったかもしれない可能性を持つのではないだろうか。


例えば、貧困・孤独・病気・絶望など・・・

誰にだって起こる出来後である。

貧困・孤独・病気などは自殺をした理由の上位を占めるものでもある。


今回は、苦しみや悲しみといったものが他者に向かって
それも無実の何の関わりもない人々が標的にされたと出来事であった。

しかし、他者に向かわず自己へ向けてしまうことは
よくあることである。(近年の自殺者は年3万人を下回っているが)


多くの人は、通勤電車で自殺をした人に対して

「こんな時に死にやがって」

などと罵詈雑言を並べているのではないだろうか。


その人はどのような思いで生きて、電車に飛び込んだのだろうか。
もしも誰かが声をかけてくれて、人生に対して少しの優しさを分けてあげたら死ななくても、あなたの通勤時間を奪わなかったかもしれない。

何かを訴えたくてしたことも

結局は、学校や会社に着くころには忘れられてしまう。


今回の犯人も同じよう理由だとしたら。

その報われない思いが、殺人という方法で解消されたとしたら。

支援や援助、つまり「助けてもらう」ためには

スキルや運、そして能力を求められてしまう。
簡単に助けてもらえる人々は恵まれているのである。

そして、それだけではない

行政に助けを求めることも
社会に”正しい”形で訴えていけることも
誰かの目に留まることも

がなければできない、見つけてもらえないことなのである。


僕らは、常に自分自身のことしか頭にない。
あるいは、自己の利益になる他者のことしか考えていない。

もしも自分だったら、もしも同じ立場だったら

そう考えられるのは絶望を経験した人だけなのである。


今回の事件で亡くなられた方たちにご冥福をお祈りいたします。


そして、犯人対して思うことは

しっかりと償いをしてほしいと思うとともに

助けてもらなかったことに対しては

辛かったのだと思う。


それももう叶わないことではあるが
同じ事件が起こらないように


僕らは他者に対して「寛容さと支援」が大切なのである。


夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。