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停電のなかで気が付く「本当の闇」


昨夜の台風は、かなりの被害がでてしまった。

横浜市、横須賀市、千葉県と幅広い地域で停電が生じ、現在も千葉県では被害が続いている。

自分自身が住む地域では、約1日ほど停電が続いた。しかし、道を挟んだ向こうではいつも通りの生活が続いているのである。

停電ということは、電気に関するものは一切使えない。冷蔵庫のなかものは傷んでしまう。そして、外気温35度に達するため「氷や冷たい水」が必要になってくる。

高い気温下での停電で、近所の高齢者は救急車で運ばれていた。小さい子どもにも被害がでているかもしれない、健康な大人でもやられてしまうかもしれない。

だから、目と鼻の先にある停電のない地域に住む知り合いに

「氷などを分けて欲しい」

とお願いをしてみるのがはぐらかされてしまう。

他の知り合いに頼んでみるが、忙しいと言われてしまう始末。


ここで思うのは、自分の名声のなさなのか、被害にあっていない自分には関係がないということを表しているのかということである。

災害にあった際、誰もが等しく惨禍に見舞われれば「共助や支援」ということを考えることなく出来事に取り組むことが求められる。

しかし、明らかに自分の地域よりも圧倒的に被害が少なく何食わぬ顔で過ごしている場合はどうだろうか。冷静に静観した状態で物事を見ることは少し困難になってくる。

ましてや、「大変だよね」ということで終わらせられてしまったら。


世界には、やはり常に二分された見方や考え方がある。

「私のあなた」、「はいといいえ」、「マジョリティとマイノリティ」、「当事者か非当事者」なのか、何をどこから見ているのかも以外と二分される。

自分の身に直接「厄災」が振りかからなければ、その事象によって引き起こされるだろう傷を視認することはできないし、問題の現象を重大なことだと理解することはできない。

自分が最も引っかかるところは

明らかに近くで問題の現象が起きているのにもかかわらず、誰も何も行動を起こさずに「いつも通り」の生活をしようとするのかである。また、支援の声を求められているのに「日常生活」を遂行しようとするのかという点である。

繰り返しているが、天災のような誰もが等しくという状況であれば致し方がない。しかし、今回は「正常」な暮らしができている人も多く、「異常」な状態をすぐ近くで見ているにもかかわらず関係がないとする対応は一体どのような感情なのだろうか。

それが、社会心理学の分野の「傍観者効果」というやつなのだろうか。

今日の周りの対応や帰り道の会話を忘れることはできない。ここまで大変な思いをしている人が近くにいても、関係がないから早く家路つこうと言える心が理解できない。

いや、それが「人間の闇」であり、自分さえよければいいのである。もちろん究極的に突き詰めれば、誰もが自分というものを優先しているのである。しかし、目の前で倒れている人を笑いながらみれることとは全く話が違う。

ほんの少しだけ手を差し伸べることが、自分の人生にとって大きな転機を迎えてしまうのだとしたら、生きている行為そのものがギャンブラーみたいなものになってしまう。

苦しんでいる人もいるんだから自粛するべきだ。
この議論にも繋がるが、なんとなく理解ができた気がする。

つまり、怒りと悲しみと疑問が合わさって「説明のつかない感情」が誕生することによって「人間の闇」を増幅させてしまうことを避ける意味合いがあると考える。

なぜあちらは普通に暮らしているのに、こちらはこんな状態で食べるのも大変なのに悠々自適に飲んで食べてくつろいでいるの。と心の中にモヤモヤが広がり濃くなってしまう。

自粛するということは、全てをやらないということではない。

本当の意味は、きっと「表に出すことを最小限にする」ということである。だから、苦しんでいる人がいても何をしてもいい。ただ、表に出すのは正常な状態に戻った後でいうことである。

今回の台風による停電を通じて、自分自身の災害に対する心構えや人に対する期待というのが薄くなった気がする。人は誰でも自分が中心である。心の闇を弱い者に向けながら、自分の世界の充実を図っていくのだ。

僕はそんな世界がとても怖いし、何もできないことに絶望する。


夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。