水利システムの崩壊は日本の食料安全保障の崩壊?

江戸時代は資源リサイクルも行われた、安定した定常状態だったと思われがちだけれど、解像度を上げてみるとかなりの流転がある。
江戸時代に入る前の安土桃山時代から、吉宗の活躍した享保時代までは、耕地面積の拡大と人口増大が続いた。なぜかというと。

戦国時代には、平らな土地である平野での耕作は難しかった。雨が降ったらいつまでも水が引かず、水浸し。稲もそのままでは水没してしまう沼地。疫病も発生しやすく、人の住む場所ではなかった。
このため、日本の農業は長らく、緩やかな傾斜のある、水位を制御しやすい中山間地で行われていた。

しかし戦国大名の中から、平野部を広大な耕地に作り変える技術を備えるものが現れた。甲府や静岡あたりで、平野部での水抜きと水やりを可能にする水利工事が行われた。広大な沼地は、適度に水位をコントロールできる田んぼに変わり、飛躍的に生産が伸びた。武田信玄や今川義元らが強くなった理由。

この技術を習得したのが織田信長や徳川家康。広大な沼地だった尾張や三河の平野部を、大規模な水利工事を施すことで田んぼに変えた。新興の戦国大名として急成長したのは、平野を田んぼに変えるというイノベーションがこの時代に起きたからと言えるかもしれない。

「平野を田畑に変える」技術は、奈良時代から脈々と続いてきた荘園を崩壊させた。平野を田んぼに変えると、耕作する人間が欲しくなる。荘園で働いていた人間は次々に新田をもらって独立。その際、この田んぼは自分の田んぼだと保証してもらいたくなった。それが「検地」。

豊臣秀吉が行った太閤検地は、農家が求めた事業でもあった。当時は平野が次々に田んぼに変わり、自分の田んぼを持てるようになった者が多かった。けれど農地の所有権を誰かに保証してもらわないと、どんな紛争があるか分からない。太閤検地はいわば登記にあたり、これで土地の所有権を認めてもらった。

このとき、家族制度も激変した。農家ばかりだった昔は大家族で暮らしていたと思われがちだが、この時代は核家族が多かった。
荘園時代に荘園で働いていた農夫は、決まった報酬しか与えられず、頑張りがいがないから、指示待ち人間になりやすかった。しかし平野部が農地になり、自分の土地を持てると。

働いた稼ぎが、年貢さえ納めればすべて自分のものになる。となると、指示待ち人間で働きがいまひとつの下男を抱えているより、その人にも独立してもらい、家族だけで精を出して働いた方が効率がよくなった。この時代、高齢者はあまり長生きしなかったので、夫婦と子どもだけの核家族が増えた。

平野を農地に変え、核家族が自分の農地を所有し、その所有権を検地で認めてもらい、子どもをたくさん産み、その子らがまた新しい田んぼを持ち・・・という、耕地面積の拡大と人口の増大が、江戸時代の中期、徳川吉宗の享保あたりまで続いたが、このあたりで頭打ちとなる。

享保時代まで人口は増えたけれど、その後、明治維新を迎える百年後まで、日本は人口がピタリと増えなくなる。増えなくなるのだが、これも単純ではない。東日本で人口が減り、西日本で人口が増えるという地域差があった。

享保時代から、大飢饉が発生するようになる。享保の大飢饉、天保の大飢饉、天明の大飢饉。特に後ろの2つは、東日本の人口を大きく減らすことになった。東日本を基盤とする江戸幕府が弱体化する原因ともなった。
他方、西日本は比較的天候に恵まれ、人口増大が起きた。

明治維新を起こした雄藩、薩長土肥がことごとく西日本であることは偶然ではないと思われる。食料生産が安定し、人口が増えた地域であったことも大きいだろう。飢饉で弱体化した江戸幕府と、成長し続けた西日本。これにより明治維新が起きたという側面がある。

享保以降に、家族の形も大きく変化したらしい。昔の人は子だくさんだと思われがちだが、それは明治維新以降の話で、江戸時代後期には子どもが二、三人の家庭が多かった。授乳期間を長くとり、それにより不妊期間が長くなるようにし、子どもをたくさん持たないようにしていた。

江戸時代後期も新田開発が進められたが、うまくいくとは限らなかった。新たな田んぼをもらって独立できるとは限らないので、子どもの数を制限せざるを得なかった。
農地が限られている以上、子どもの数だけ田んぼを分けて相続する「田分け」をすると、食っていけなくなってしまう。

田んぼを分けてもらえない次男以下は都会に行って働いたらしい。江戸時代でも都会は「人口のブラックホール」だったらしく、各地から人口を吸収する割に人口を再生産することはあまりなかった。都会で結婚し、所帯をもち、子どもを生むということは難しく、独身が多かったらしい。

江戸時代は、はげ山も多かった。特に江戸時代前半は植林もせずにバンバン木を切ったものだから山肌がむき出しになり、大雨で土砂が流れ、川は鉄砲水となり、土石流となり、農地が大規模に壊されたりする災害が多発した。熊沢蕃山が治山治水を提唱したのもそのため。

はげ山状態は、実は戦後昭和に至るまで続いていた。なにせ、燃料といえば薪と炭。木材が煮炊きには必要で、大量に切り出された。戦後になり、石炭と石油を使う「燃料革命」が起き、植林が盛んになることで日本は緑豊かな山林になった。

こうして歴史を解像度上げて観察すると、いろいろ見えてくる。平野部は農地にするのに有利と現代人は思ってる。トラクターで大規模に耕しやすいし。しかし平野を農地として維持するには、大規模な水路を維持できる「パワー」が必要となる。

戦国時代まで平野部を沼地として放置せざるを得なかったのは、大規模な水利工事を行うだけの強力な権力、動員力を備えた権力者がいなかったから、という面がある。広大な平野部を水で潤し、不要な水は抜けるようにする灌漑設備は、途方もなく大規模な工事となる。現代でもちと難しいくらいに。

それだけの大規模な工事を行うには、工事で働いてくれる人間に食事を提供しなければならない。しかも農地をなんとか作れたとしても、十分な収穫が得られるようになるには10年ほどかかる。その間の食糧援助も必要。平野を耕地に変えるには、大規模投資を長期で行える財力と権力が必要だった。

さて、今の日本。コメを食べなくなったから小麦を育てればいい、あるいは高く売れる野菜など園芸作物を育てりゃいい、という論調が強まっている。確かにコメを食べる量が減ってるのだから仕方ない面がある。しかしコメを完全に諦めると、水田としての機能をどうするか、どうなるか。

もし田んぼを完全に畑に変えてしまうと、田んぼに戻すにはかなりの時間を要する(水を貯められなくなる)。もしその地域の多くが田んぼをやめ、畑作に切り替えれば、水路を維持するのが面倒臭くなるだろう。場合によっては水路がダメになってしまうかも。

水路を維持できなくなることは、単に一枚の田んぼだけの話では済まなくなる。水路は、その平野部全体を潤し、あるいは水抜きするための巨大な装置。これを維持できなくなると、その土地での水田耕作はほぼ不可能となってしまう。いざ食料が足りないから水田に戻そうとしても、もうインフラがない状態。

北海道や新潟のように非常に広大な田んぼを抱えている地域は、一枚の田んぼが広大で、少人数でも機械で耕せる。こうしたところは、まだまだ価格競争力があるから、生き残れるかもしれない。しかしこうした地域でも、2点不安がある。

一つは、「石油」というパワーが失われたら?広大な面積をたった一人で耕せるのは、石油エネルギーで機械を使って耕すから。しかし今後、石油が高騰し、機械を動かすに動かせなくなったとしたら、少人数で耕すのは困難になる。

もう一つの不安は、農家が減れば、政治というパワーが水路に関心を持つことを難しくする。
広大な平野を田んぼとして維持するには水路の維持が欠かせない。これまでは農家の数が多かったから、それはそのまま政治力となり、水路維持の経費も工面できた。しかし。

ごくわずかな人数の農家だけが広大な平野を耕すようになったら、それだけの人数で巨大な水利システムを維持管理するのは無理が出てくる。しかし農家の数が少なすぎると票にならない。票が集まらないなら政治家は関心を失う。すると、水路維持にお金を出すだろうか?

日本はどうやら、長い時間をかけて作り上げてきた水利システムを崩壊させるとば口に立っている。比較的小規模な、経済性の低い平野部から水利システムが崩壊し、広大な平野部も、別の原因から水利システムの維持が将来的に困難になるかもしれない。

水利システムが失われることの大きな問題は、水田を維持できなくなるから。水田が維持できなくなると、安定した食料生産が難しくなる。なぜなら、水田は「毎年コメが穫れる」けれど、畑作だと毎年とはいかなくなるため。

水田でのコメ生産は、毎年稲を植えても連作障害というのが起きず、安定してコメが穫れる。しかし水田とは違い、畑作だと、同じ作物を続けて育てると病気になったり収量が減る連作障害が起きてしまう。水田のコメは連作障害が起きない、極めて例外的な生産法。

サツマイモは比較的連作障害は起きにくいとされていたけれど、近年は基腐れ病が蔓延し、連作に危険性が増している。コメは水田でなくても陸稲で育てるなら畑でも育つけど、連作障害が起きてしまう。翌年は別の作物を育てねばならず、畑作はどうしても生産性が落ちやすい。

水路システムを崩壊させることは水田を失うことであり、安定した食料生産法を失うことにもなる。いったん水路システムを崩壊させてしまうと、もう一度再構築するのは、現代でも非常に実施の厳しい、予算規模の巨額な大事業になってしまうだろう。

しかし農業も、経済合理性に従って形を変えざるを得ない。しかし現代の経済合理性を放置すると、水田はムダとなり、水路システムの維持費用もムダという判断に傾きかねない。しかし一度失えば取り返しがつかない。日本は、食料生産システムを崩壊させようとしているが、どうしたらよいのか。

水田を維持することが経済合理性にかなう「構造」を用意せねばならないだろう。しかし海外の小麦は、値上がりしたと言っても国産のコメよりは安く(関税をかけてるからわかりにくいが)、価格で太刀打ちできない。コメを作っても食べる人が減っている。これではコメの価格も低迷する。

コメが高く売れないなら作る人も減る。作る量が減れば水田もいらなくなる。水田がなくなれば水路システムを維持するのも面倒なだけ。しかし水路システムは、一度壊してしまえばイチから作り直しとなる。そしてそれには巨額の予算が必要。たぶん、無理。

巨大な水路システムを、日本は維持できるのか?現在の一時的な経済合理性に適応して水路システムを破壊してしまうと、将来、エネルギーや予算という「パワー」を失ったとき、コメを作ることのできない国になるかもしれない。それは、食料安定生産が難しくなるということでもある。

農業から人がいなくなり、少人数で行う分、パワーが失われていく。そんな中でいかに食料生産システムを維持するのか。難しいかじ取りが求められる。

参考文献
暉岡衆三「日本の農業150年」
玉城哲「稲作文化と日本人」
鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」
田中圭一「百姓の江戸時代」
関山直太郎「近世日本の人口構造」
菊池勇夫「飢饉」
速水融「江戸の農民生活史」
板倉聖宣「歴史の見方考え方」
本間俊朗「日本人口増加の歴史」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?