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自殺・安楽死するとどうなるか?

日本の自殺者は3万人超をピークとして減り続けていると言われますが、死因不明の死亡者は年間15万人ほど・行方不明者は8万人ほどで推移しており、また自殺でも急性心不全などと別の死因で報告されるケースもあるでしょうから(恐らくは名誉や後追い防止や保険金のため)、国が出す統計などはまるでアテにならず、実際どのぐらいの人が自殺しているかは知りようがありません。近年は著名人の自殺報道が以前より多いように感じますし、実感として自殺者は増えていると思います。

僕は自殺経験者(もちろん未遂だったから生きているわけですが)として、またそこから幸せになった人間として、自殺をしようとしている人達を何とか思いとどまらせたいですし、幸せに導きたいです。そしてそれが使命の一部だとも思っています。

自殺したいと思う理由は人それぞれかと思いますし、僕がその一人一人の気持ちが理解できるとは言いません。ただその死にたくなるぐらいの心の痛みというのはよくわかります。だから自殺しようとしている人に対して心から同情しますし、何か説教みたいなことをしたり「生きていれば必ず良いことがあるから」なんて無責任ななぐさめを言うつもりはないです。

ただ人生というのは不幸を経験せずに幸せを実感することはできませんし、死にたくなるぐらいの不幸の経験は必要なもので、それなしには本当の意味で幸せになることはできないのです。死にたいのと実際に死ぬのとでは全く次元が違うことです。どんな不幸も決して恨みで返して人生を諦めず、不幸は課題であり幸せに至るためのマテリアル(材料)であり過程であると信じ理解して欲しいのです。死にたいぐらいの悲しみを味わったあなたにしか救えない誰かが未来できっとあなたを待っていると思います。

というわけで、死にたいぐらい辛い時に長文を読むのはダルいと思いますが、もしあなたが(例え今すぐでなく将来的にでも)選択肢の一つとして自殺や安楽死を考えているのであれば、ぜひ読んでいただけると幸いです。

また僕は死後についての質問も結構よく受けるので、当記事はその回答にもなるかと思います。

今回も質問箱からの転載ですが、手抜きじゃないですよ(笑)。かなり加筆修正してます。

【質問】30代男性・システムエンジニア
初めまして真也さん。この世は、主人公として目覚めて世界を救うRPG(ロールプレイングゲーム)であると説いた真也さんの話は興味深いです。そこで疑問に思ったことがあります。

一人一人に用意されたシナリオがあり、様々なカルマを克服して成長し、そして世界を救うことが大切であるようですが、カルマを克服出来ず当然主人公として目覚めず世界も救うことなくエゴに埋没して最終的に自殺若しくは安楽死をした人間(NPC)の魂はどうなるのですか?
※NPC(ノンプレイヤーキャラクター)とは、プレイヤーが操作しないキャラクターのこと。主人公以外全員。

神が与えた配役をこなせなかった魂は厳しい説教を受けて罰として永久に虚無の空間にでも追放されるのでしょうか?それともより困難なカルマを与えられて再び人間として生まれるのでしょうか?一方で慈悲としてもう少し易しめのカルマを課せられて生まれ変わるのでしょうか?あるいは自殺・安楽死した瞬間、その人に与えられたカルマが全て克服出来るまで何度も人生をリセットされてやり直しを命じられるのでしょうか?

今までの回答からすると、もしかすると真也さんはこの疑問や質問を持つことこそがまさに脇役NPCの典型的な思考であると思っておられるかと存じます。ですが、それでも私は自殺・安楽死した魂はどんなシステム・仕組みで処理されるのか、どんな扱いを受けるのか、好奇心が抑えられずどうしても気になってしまい質問致しました。もし存じ上げない場合は率直に不明であるとお答えいただけたら幸いです。

最後までお読みいただき誠にありがとうございました。森羅万象に幸あれ。

【回答】
ご質問ありがとうございます。メッセージを受け取っていただき光栄です。

>>真也さんはこの疑問や質問を持つことこそがまさに脇役NPCの典型的な思考であると思っておられるかと存じます。

はい。その通りです。

死後の世界・輪廻転生に好奇心を持つことは人間としてとても自然なことです。しかしあなたが「NPCのまま自殺・安楽死した人のその後はどうなるのか?」という点に限定してご質問されたのはなぜでしょうか?

それは恐らくあなた自身が今生で主人公として目覚めること・己のカルマに立ち向かうことにまだ否定的で、将来の耐えがたい苦痛や不幸を恐れて「いざとなれば死ねばいい」と考え「NPCのまま自殺・安楽死した後どうなるか、そのペナルティーの厳しさを知った上で検討したい」と、自殺・安楽死を退路として確保しようと考えているからではないでしょうか?

人間とはそのように考えるNPCとして初期設定されているのであり、僕も当然NPC出身ですからお気持ちはよくわかります。だから決して今もNPCをやっている人たちをバカにしたり見下したり責めたりするつもりは毛頭なく(ハゲなだけに)、魂の兄弟として等しく尊敬しつつ、目覚め・幸せに導こうとしているのです。なので決して悪く受け取って怒ったり落ち込んだりしないで下さいね。

人間がNPCから主人公に目覚める事はとても困難に創られています。みんな幼い頃より他者評価に依存させられ、自尊心を下げさせられ続けて、自分も他人も大したことのない存在だと思わされているからです。そしてそれは人間(認識主体者)みんなに課せられた共通の課題であって、その初期設定の「NPC思考」を乗り越えて「存在するということの価値・尊さ」に気づき、主人公として目覚めるからこそこのRPGは面白いのです。

「主人公として目覚めず自殺・安楽死したらどうなるか」なんてペナルティーを恐れながら逃げ腰で生きるのは、使命を果たす気がなく、戦う前から負けを決断しているに等しいのです。そしてそれはNPC思考そのものなのです。

恐らくあなたは僕の言っていることをまだ本当に創造主から覚らされている真理だとまでは認めず、もし気に入らなければ「興味深い説の一つ」ということで片付け、今生はもうNPCでいいやと思っているのでしょうが、このRPG世界に偶然はなく、目覚まし役の僕と出会ったあなたに目覚めを拒否するという選択肢は残されてはいないのです。今後はもう「知りませんでした」というのは通用しないわけですからね。

RPGでNPCである町民Aとしてエゴ(我欲・保身・虚栄)のために生きようとするキャラクターのストーリーが面白くなるわけがありません。人生というRPGを楽しむなら主人公として目覚める勇気を持ってクリア(カルマの解消・彼岸・解脱・アセンション・地上天国の実現)を目指す以外にないのです。せっかく「主人公として生きる」という人生が最高に面白く幸せになる方法を知ったのに、わざわざつまらなく苦しく不幸な「NPC人生」の方を選ぶ理由はありません。

まずあなたに知って欲しい事は、あなたが主人公として目覚めようと目覚めまいと、あなたの認識世界はすべてその認識主体者であるあなた次第に作られているのであり「退路を確保する人間は必ずその退路へと追い込まれる」という真理です。

例えば夢が叶わなかったときの退路を確保しようとする人間は必ずその退路へと追い込まれる定めであり、夢など叶うわけがないのです。退路を断って己の全てをかけて夢に向かっている勇者に勝てるわけがないですしね。世界は認識主体者である自分が作っているものなのですから、リスクを恐れることで夢が叶わないイメージを常に持ち、退路を確保するための努力に時間と労力を割いていたら夢が叶わないのは当然です。

同様に、将来の耐え難い苦痛から逃れるために自殺・安楽死という選択肢を退路として考えながら生きている人間は、その退路へとどんどん追い込まれていく悲惨な人生になってしまう定めなのです。苦しい時に問題解決策の一つとして自殺・安楽死がいちいち頭をよぎって無意識にイメージし続け、無意識にそこに引き寄せられることになるわけですからね。これは僕自身がそうだったから確信的にわかります。試験会場から逃げ出すという選択肢を常に持ちながら試験を受けて合格できるわけないですからね。だからもし幸せになりたいのなら、自殺・安楽死という選択肢を退路として確保しながら生きるというのは賢明なことではありません。

あなたの職業が退路を断って叶えている夢の途中なのか、夢が叶わなかった時のために準備していた退路なのかは僕にはわかりませんが、もし後者であるとご自分で思うのであれば、「もう遅い、今更無理だ、このまま行くしかない」などと考えず、気づいた時があなたにとってベストタイミングなので、どうか夢に向かって下さい。結果がどうなろうと、あなただけのシナリオがあるのですから、他人と比較するのは無意味です。

結局、逃げ道なんてあると思うから恐ろしくなり逃げたくなって保身に走りたくなるのでしょう。そして自ら「嫌な仕事の我慢代で生きる奴隷」になってしまうのでしょう。

正面から立ち向かう以外にないのだとわかって腹を決めれば腹が据わります。僕らは魂の成長のために生まれて来たのですから、将来ラクをするために努力をしても報われるわけがありません。筋トレだって辛いトレーニングを続けるから成長して楽しくなれるのであって、楽しくなるためにはラクはできないのです。どの道を行こうと必ず苦労するのですから、同じ苦労をするなら嫌な事ではなく好きな事のために苦労しましょう。

僕らはみんな人生という物語の主役ですから、例えどれだけ苦しく不幸でロクでもない物語になろうと、最後の最後まで自分という主役を全うする覚悟が大事なのであり、その覚悟がカルマを解消していくのです。苦痛や不幸を経験したら、その分カルマを刈り取って解消しているのだとポジティブに考え、少しでも良い未来を選択していくべきなのです。この辺りの話は「悪いカルマの解消法」を読んで下さい。

人生が映画なら、監督から与えられた役やシナリオに文句ばかり言って真剣に役をやらず、降板すること(自殺・安楽死)を考えながらテキトーに演じている役者に、監督がより良い役やシナリオを与えてくれるわけがありません。

「男はつらいよ」の寅さんと同じで、どれだけしがない庶民役に見えようとあなたが主役なのであり、常にカメラはオンになっている(心の中まで全部見られている)ということを忘れないで下さい。

そして人生は愛と勇気を試すためのRPGなのですから「いざとなったら死ねばいい」と逃げ道を確保することで得られる偽りの安心にすがり、世界を救う主人公として目覚める勇気を持たずにエゴ(我欲・保身)に埋没して生きようとする臆病者の人生が報われるわけがありません。いつもエゴ(我欲や保身)を動機に行動する臆病な主人公が最後に報われるというシナリオのRPGや映画やアニメを見たことがありますか?人間は主人公として目覚め、自分に与えられたカルマ(課題)と向き合って乗り越えて成長していくことが宿命なのです。

>>自殺・安楽死した魂はどんなシステム・仕組みで処理されるのか

あなたは輪廻のシステムを知りたがっているようですが、いくら他人である僕からその詳細を聞いたとしても、あなたにとってそれは自身の体験を伴わない伝聞情報に過ぎません。輪廻(=因果)の仕組みというのは覚りの一部であり、覚りと連動して体験を通して理解を深めていくものなのです。

あなたが伝聞情報を信じるか信じないかを判断するその判断力は、あなたが今まで生きてきた中で作り上げた常識(思い込み)が根源になっているのでしょう。しかしその常識というのは人生というRPGの初期設定であり、それは必ず課題が含まれているのです。もし常識が本当に正しいのなら、課題は何もないことになってゲーム要素がゼロになり、あなたという主人公は必要なくなり、生きる意味がなくなります。だからはっきり言えば常識というのは(一見正しいようで)間違っているのがデフォルトなのです。

あなたは疑り深くなることで真理を知ろうとしているようですが、世界というのは信心を持たず経験も積まずにただ疑り深くなるだけで真理に到達できるようには作られていません。疑り深さというのは臆病さが根源であり、この人生という愛と勇気を試すためのRPGにおいて、それに逆行する疑り深さ(臆病さ)によって真理・幸せに導かれるわけがないのです。

まだ菩提心(主人公・メシアとして衆生を救う覚悟)を起こしていない人間には真理を覚れるような経験は与えられず、自分の判断力の根源が単に常識(思い込み)と実体験の乏しい伝聞情報の寄せ集めなのであれば、賢明な判断は望めません。人間は自分(のエゴ)にとって都合の良い情報ばかりを集め、その思い込み(常識)を強化するために情報を集めるように初期設定されているのですから。

NPCの多くは「宗教に騙された」という実体験や伝聞を元に宗教嫌悪症のようになり、宗教の欠点や過ちをあげつらって信心を持とうとせず、「宗教は怪しいもの」と決めつけて、宗教について否定的な情報ばかりを集めて思い込みを強化するように初期設定され、それが多くの人の常識になっています。

今の世界は資本主義ですから当然宗教を悪用して信者を食い物にする詐欺師はいっぱいいますし、真っ当そうな宗教でも宗教団体は人間が運営するものですから腐敗は必然で、やはり信者をエゴのために悪用する人たちはたくさんいます。

しかしそれを理由にして宗教=あやしいものと決めつけて宗教について全く学ぼうせず(怠惰)、初期設定通りの常識(思い込み)を強化し続け、騙されることを恐れて(臆病)信心から遠ざかるのは、RPGでスタート地点の街から動こうとしないようなもの(NPC思考)です。それは常識と金を信じてエゴのために生きる悪魔教に無自覚のまま入信しているのと同じでなのです(資本主義自体、信者が無自覚なだけでカルトなのです)。そしてそれがNPCとして生きることを自ら確定させてしまうのです。それは成長拒否ですから、人生という成長の物語において不幸に導かれるのが必然なのです。

もし宗教の腐敗が気に入らないなら、宗教を原典から学ぶべきです。宗教にも個性があるのは当然で、個性は欠点や過ちと不可分です。完璧な宗教などは存在しません。もしあったら全員がそれに従うので、信じないという選択肢はなくなり、信じる意味・価値がありません。

そのように信心を持たず覚りの経験を積んでない人の判断力というのは、自分の思い込みの産物である自分勝手な常識に依存していて、それをまた自覚さえしていないのです。前述したように常識は間違っているのがデフォルトですから、常識に依存した判断力のままでは、与えられた初期設定通りに誤った判断を自動的にするだけのNPCから目覚めることはないでしょう。NPCは「自分で選択している」という気分だけ味合わせて貰いながら常識(デフォルト)通りに動かされているだけのAIに過ぎません。

宗教詐欺などに騙される人というのは、己のエゴ(我欲・保身=臆病・怠惰)ゆえであり、自分の人生のコントローラーを他人に預けるように(自分で主体的に考えて、自分の課題に立ち向かい、その全ての責任を取ることを拒否して)誰かに依存しようとし、主人公であることを拒否して自らNPC人生を選択していて、それが原因で不幸に導かれているのです。

そもそもあの世のことは科学的に証明できるものではなく、僕が何を言おうと結局は都市伝説と同じで「信じるか信じないかはあなた次第」ということになります。信心を持たずにあの世のことを知って理解するのは不可能です。今のあなたが輪廻(因果)の仕組みなど他人から聞いたところであなたはそれが本当かどうかを判断できませんし、もし本当のことを教えられても理解することも受け入れることもできないでしょう。真理(愛)というのはエゴにとって都合の良い思い込み・常識とは逆行するものですからね。だから覚りを開く経験・過程なしに他人から輪廻転生について教わろうとすることはほとんど無意味であり、それをやってしまうところがまたNPC思考なのです。

逆に覚りが開けてくれば他人に聞かなくても経験によって創造主から覚らされるものなのです。覚り(判断基準)っていうのはパソコンの前に座って手に入るものではないということを知って下さい。ネットはとても便利で僕も大好きですが、それにより多くの人が経験しないリスクより経験するリスク(失敗する・騙される・バカにされ笑われる・傷つく)を恐れるようになり、経験しなければわからないことを伝聞情報だけで済ませて既にわかったかのように錯覚し、自分勝手な思い込み(常識)を強化することで賢明な判断力が育たず、自ら真理(覚り)より遠ざかってしまうところが最大のリスクなのです。

僕らは経験し、感じ、自分だけの真理への道を見つける成長過程の物語を生むために生まれてきています。真理(愛)は経験を伴わなければただの概念に過ぎず、何の価値もありません。僕らの失敗・試行錯誤をしながら真理を求める経験・物語にこそ価値があるのです。菩提心を起こさず、失敗したり騙されたり傷ついたりするリスクを避け、伝聞情報によって経験を積まずに真理を知ろうとするのは臆病・怠惰であり、それでは何のために生まれて来たのかわかりません。僕らは情報を集めるためではなく経験するために生まれて来たのです。自分の判断基準が体験に基づかない思い込みだけなのであれば、いくら伝聞情報を集めたところで情報(他人)に振り回されるだけで、主体性を失って自分の人生を生きることはできませんし、それでは真理(幸せ)に近づけるはずもありません。

覚りが開けて輪廻(因果)の仕組みについて経験的にわかってくると、死を恐れることなく更に覚りを進めることができます。「死すら恐れない平安な心」というものは、真理を求め衆生を救おうという愛と勇気(菩提心)を日々実践することと引き換えに受け取れるご褒美のようなものなのです。

真理を求め、衆生を救う為に成長し続ける勇気・覚悟を持った人間は、人生という映画において必ず使命を果たし、絶対に途中で降板(自殺・安楽死)する心配がないので、監督たる創造主は安心して主役を任せることができるので、「覚り≒死すら恐れない心の平安」に導いてくれるわけです。

もし仮に菩提心を起こさず「いざとなれば死ねばいい」とエゴに埋没して逃げ腰のまま生きている段階の人(NPC)が、情報として輪廻転生について知って誤った悟り方をして、ただ単に死後のことを恐れなくなったら、今生は別に覚らなくてもいいやと更にエゴに埋没した生き方・自暴自棄で破滅的な生き方をしたりするでしょう。そしてまた悪い事をしている人が得していると考えて羨んだり、どうせ次の人生もあるのだからと自分でもエゴのために悪事を重ねて余計にカルマを深め、辛くなったらすぐ自殺や安楽死に逃げようとするようになるでしょう。

だから輪廻転生についてまだ菩提心を起こしていない人に説明する時、非常に慎重に・相手の個性や段階に合わせて・象徴的な表現や例え話を使って・魂の中にある仏性に訴えかけるようにしてわかりやすく説明しなければなりません。そうでなければかえって悪い方向に導くことになってしまいますからね。

そして「嘘つき」「気違い」「本当は知らないのだろう」などと思われることも覚悟の上で、方便的な手法で相手を導かなければならないこともあるのです。本心では相手を救うために覚り(真理・幸せ・心の平安)をダイレクトに与えたくても、覚りは本人が経験することを通じてしか得ることができないのです。また自殺を戒めるためには脅しのような手段を使うようなこともしなければならないのですから、それはとてももどかしく辛いことです。

釈迦は輪廻転生についてその詳細は語りませんでしたが、苦しみから逃れるために自殺を考えている人にはこのような例え話を持って聞かせていました。相手を幸せに導くためには脅すような方便的手法を使わなければならなかったのですから、その苦労が偲ばれます。あなたも早く菩提心を起こして覚りを進めて人を救いに導く存在になり、この苦労に同情してもらいたいです。

人間にはそれぞれカルマ(課題)が与えらえれ、それはとても困難で苦しいものです。それなのにその苦しみから逃れるために自分で死を選んだら余計に苦しくなるペナルティーが与えられるのですから、人生を創造主の意地悪や罰ゲームのように考えて呪いたくなる気持ちは僕も同じだったのでよくわかります。しかし人生は認識主体者の認識(解釈)が創っているのですから、人生を意地悪や罰ゲームのように解釈すれば本当にそのようになってしまうのです。

>>もし存じ上げない場合は率直に不明であるとお答えいただけたら幸いです。

ご心配なさらなくても、僕は常に率直にお答えしています。今までの回答をご覧いただいているのなら信頼していただけるかと。

ただもし輪廻(=因果)について全部知っている人がいるなら、それは森羅万象の因果のすべてを知っているようなものです。もちろん僕(人間・真也)は全知全能ではありませんし、既に彼岸に渡ったわけでもありませんから、全てを知っているわけがありません。RPGで登場キャラクターが全知全能ではゲームが成立しませんからね。RPGにおいて主人公には必要な時に必要なものが与えられます。そしてその過程に物語が生まれるのです。

僕は現時点において、人々を覚りに導くという使命のために「(必要)十分に」知っています。映画マトリックスのオラクルと同じですね。あなたにとって他人は僕も含めて全員NPCですが、僕はあなたを目覚めさせる特別な役割にあるNPCなのです。あなたの認識世界の他人はみんな無自覚にあなたの物語の脇役を演じていますが、唯一僕だけが意図的にそれを演じているのです。

ただ「知らないなら知らないと言って下さい」=「本当に知っていることだけを答えて下さい」というように事前確認することは「あなたは知らないことを知ったかぶりして答えそうなので私は警戒しています」と伝えているようなもので、質問する相手に対して失礼ですし、そんなことをしてもあなたにとって何のメリットもありません。相手が本物でも詐欺師でも「あなたの言う事は本当ですか?」と聞かれれば「本当です」と答えるでしょうからね。結局、信じるか信じないかの選択権は認識主体者たるあなた側にあるのであり、結果責任を負うのもあなた自身です。

例えばあなたから「死後の世界はありますか?」と聞かれれば、魂は永遠ですから当然僕は「あります」と答えます。本当は「死後」って表現は正確じゃないんですけどね。しかしもし仮にあなたが実際に死んだ後に死後の世界がなかったとしたらどうするのでしょうか?僕に「どうしてくれるんだ!?死後の世界なんてないじゃないか!」と文句を言って責める事はできませんし、僕も「すみませんでした。死後の世界なんてありませんでした」と謝罪して補償をすることもできません。

わかりますか?相手が言っていることが本当かどうかを判断して結果責任を負うのは自分なのに、質問する相手側に公然と事前確認をすることで結果責任を負わせるようにして保険をかけることで、リスクなく勝ち馬に乗るように賢明な判断をしようとしても無駄なんです。そしてそれをやってしまうところがまたNPC思考なのです。

創造主は人間を魂の成長の喜びを与えるためにわざと無知で愚かに創っています。人間は知らない・わからないことだらけなのですから、結局人間は何かを信じる・信じないの選択をせずには生きることはできないのです。「自分は何も信じていない」という人は、そういう自分の思い込みを信じているのであり、自分の勝手な常識を信じていることにさえ無自覚なだけです。

そして既に証明済みで完全に確かめられていることに「信じる」という意味も価値もありません。特に死後の世界のことなどは科学的には証明不可能ですから、信じるか信じないかは本当に自分次第です。そしてそのように「何を信じるか?(信じないか?)」の選択の主体こそが「あなた」そのものなのです。

あなたが今認識している世界が現実かどうかの判断さえ、あなたの思い込みに依存しています。ここが夢か現実か、他人に聞いて確認することに意味はありません。夢の中で出会った人に「これは夢ですか?」と聞いても無意味ですからね。同様に「あなたが言っている事が間違っていた時、ちゃんと責任取れますか?」という感じで相手に確認することは意味がありません。

自分の生き方に直結するような大事なことは自分で経験して覚るべきであり、それを伝聞情報だけを集めて済まそうとすれば情報(他人)に振り回されて人生は自分のものではなくなります。科学ですら相対的概念であって未来には必ず覆されるものであり、真理として信じるには足りないものです。ましてその科学が自分で実際に確かめて理解したものでないならなお更です。

僕はこの世界が創造主の100%の愛で創られていることを完全に信じています。だから「信じる信じないの基準」に書いた通り「真理=愛=幸せ」であり「それを覚り実践することによりみんなが幸せになれるかどうかが判断基準」になっています。

それによって創造主からの愛をより多く受け取り、より多く覚りを与えられ、科学・宗教・哲学を貫いた一切の矛盾がない壮大で幸せな世界観を築いています。それをみんなに手渡しにできたらどんなに楽かわかりません。でも結局本人が覚りを開いていく過程・経験なしに、それを得ることはできないのです。僕にできることは、覚り(真理=愛=幸せ)を日々実践し、祈ることだけです。そして僕に与えらえた「言語化」という才能を使って説明し、覚りに興味を持って貰って、人を覚りに導くことだけです。

>>神が与えた配役をこなせなかった魂

あなたが主人公の世界において、他人(NPC)は無自覚ながら主人公であるあなた個人のために100%神が与えた配役通りに仕事をしています。まだおわかりにならないようですが、あなたはあなただけの主観的世界に生きているのです。それはこの世もあの世も同じことです。もし「あの世は一つの客観的世界だろう」などと思っているなら大きな勘違いです。あなたという認識主体者(創造主の分け御霊)が経験するすべてはどこまで行ってもあくまであなたの主観的世界であり、あなたが主役の世界なのです。

あなた以外の人間はこの世でもあの世でもあなたのNPCであり、彼らも含めてすべてあなた次第に創られているのです。つまりあなたの認識世界の他人(あなたの仏国土の住民)が死後どうなるかもあなた次第なのです。だから本当に菩提心に目覚めた人間というのは、自分の認識世界(仏国土)に存在する御霊・御魂の全てを救おうとするのです。

創造主は一瞬も休むことなくあなたのすべてを見通しています。自分という主人公と創造主の関係は一対一であり、NPCである他人のことは一切言い訳に使えません。あなたの認識世界に何十億人NPCがいようと、あなたはその背中に隠れることはできないのです。他人に死後与えられたペナルティーやそのシステムを知ってから自分が主人公として目覚めるかどうか・自殺や安楽死を退路として考えるかどうかを決めようなんて臆病で怠惰な考えは「愛と勇気を試すRPG」における主人公としてあるべき姿と逆行するものであり、それがあなたをNPCとして確定させ、どれだけ輪廻を繰り返してもひたすら脇役として使い回されるだけのAI俳優と化してしまうのです。それは主人公の救いをひたすら待ち続けるだけのつまらなく不幸で苦しい役柄です。

そしてあなたは自殺・安楽死などの死に方(人生の結果)だけでその後が決定されるようなイメージを持っていて「こういう死に方をした人はこうなる」というシステム・法則のようなものを知りたがっているようですが、輪廻(=因果)というものはそんなに単純ではありません。壮大な因果の中でその人が「どんな存在であったか」と人生がトータルに判断されてその後が決まるのであり、例えば乃木希典と太宰治の死が同じ自殺ということで同じに扱われると考えるのならそれは大きな間違いです。その人の人生が実際どのようだったかは、因果の全てを見通して心の中までつきっきりで見ている創造主(実は自分自身)にしか知りようがありませんし、その人がどのように評価され死後どのように扱われたのか、他人には知りようがありませんし、知る意味もありません。それは主人公であり創造主の分身であるあなた次第で変わるのですしね。大事なのは他人の人生があなたという主人公の人生にとってどのような意味を持つ伏線(カルマ)なのかということです。

覚りが開けてくれば、創造主がどんな存在で、どんな目的で人間を創って世界と人生を与えているのかがわかってくるので、自ずと輪廻(=因果)の法則性も見えてきます。その詳細をぜひ皆さんにご説明したいところなのですが、説明の仕方が大変難しく、膨大な量にもなるでしょうし、本人の解釈次第という部分も大きく、また覚りが進んでいない人には確実に理解不能なので、詳しくは後ほどnoteで記事にすることにして、今回は何とかエッセンスだけは伝わるように書きたいと思います。

>>厳しい説教を受けて、罰として

創造主は愛そのもののような存在であり、人間に説教などしませんし、罰も与えません。人間に罪悪感や羞恥心を与えて、自らを評価し自らを裁くという権限を人間に譲渡しているのです。

ただし罪悪感や羞恥心というのは、本当はお互いを許し合い補い合うことでより深く愛し合えるように創造主がありったけの愛で人間だけに与えたものであり、「許し」というのは創造主が人間にだけ与えた最大の権限移譲なのです。このあたりの話は「罪と恥の存在意義」に書きました。

創造主は全知全能であり、自分が創った人間に説教したり罰を与えたりするぐらいなら、最初から人間を完全に自分の意図通りに動くように・一切過ちを犯さず常に正解を選択するようにプログラムし、自由意志は与えないでしょう。あなたはSEだそうですが、自分で作ったAIが自分の思い通りに動かないからと言ってAIに説教したり罰を与えたりしますか?そんなことをする愚かな存在が全知全能なわけはないでしょう。そしてあなたは自分を愛するAIを作ってそのAIから愛されて嬉しいでしょうか?それを考えれば我々に何のために自由意志が与えられ、なぜわざわざ愚かで間違った選択をするよう初期設定されているのかがわかることでしょう。

創造主はRPGの中において主人公に対し自分の分身(神々や人々や出来事)を通じて導きを与えることは常にしていますけども、RPGで全知全能のクリエイター自身が登場して直接プレイヤーに答えを教えてしまったら(説教してしまったら)ゲームになりませんし、魂が成長する要素がなくなります。創造主は人間を敢えて愚かに創って、初期設定では間違いを選択するようにプログラムし、自由意志を与え、敢えて間違いを犯させ失敗を経験させつつ、経験を通じて正解に気づかせ自発的に真理(覚り)に向かわせるよう常にこれでもかってぐらいヒント(導き)を出し続けているのです。

愛(勇気)だけでなく信心も尊敬も感謝も許しも、ポジティブな選択というのは常に逆のネガティブな選択が存在し、無明の闇(エゴ・愚かさ・迷い・臆病など)を与えられているがゆえにそのネガティブな選択肢を選択してしまうよう初期設定されているからこそ、それを自由意志(愛と勇気)により乗り越えてポジティブな選択をすることに価値があり、魂の成長があるのです。

もしポジティブな選択肢しか存在せず、人間が必ず正しい選択をするように創造主が初期設定して強制してしまったら、その選択に価値はありません。この世界のすべてがポジティブとネガティブの二元的に創られているのは、一次元では位置が特定できない=価値が特定できない=存在意義がないからです。愛も感謝も尊敬も信心も成長も、自由意志により自発的にするものだからこそ意義(価値)があるのであり、創造主が人間に自由意志を与えずに必ず正解を選択するようにプログラム(強制)したら感情は存在し得ませんし、それでは人間の存在意義がなくなります。

創造主は人間に対し直接的には答えを教えず、あくまでも自発的に真理を覚らせるように自由意志を与え、愚かで間違った選択をするよう初期設定した上で「因果(応報)」という壮大なシステムを作って運営し、認識主体者(主人公資格を持った人間)をその因果(応報)が支配する世界の中で常に自由に選択させて経験を積ませ、魂の成長を見守っているのです。輪廻転生というのは、その因果(応報)というシステムの中核を成すものであり、自発的な成長・覚りを促すためのものなのです。だから僕は輪廻=因果と再三書いています。

もしあなたが主人公に目覚めず、ただ単に苦しみ(カルマ・課題)から逃れたいという目的で自殺や安楽死を選択肢として確保しようとすれば、それなりのペナルティーがあるのは当然でしょう。しかしそれは因果応報=悪因悪果(善因善果)であって、あくまで自由意志により自発的に正しい選択をして魂を成長させて欲しいという創造主の愛ゆえに存在している防波堤のようなものなのです。

どうか「自発的に」主人公に目覚めることを選択し、創造主の愛に感謝し、あなた自身の愛と勇気でエゴを乗り越え、世界を救って下さい。そうすれば自殺や安楽死など考えなくなり、輪廻転生の仕組みについても正しく覚らされるようになります。

森羅万象の因果を自分という主人公視点で見たものがカルマです。しかしそれは人間にはどこでどうつながっているかわからないのです。鏡の法則という本に「子供が学校でずっといじめられていたのが、ある日長年連絡をとっていなかった親に生み育ててくれたことへの感謝を伝えたらいじめがパッタリとなくなった」という話がありましたが、このようにカルマというのはどこでどうつながっているかわからないがゆえに、自分のカルマ(課題)が何なのかを常に考えながらそれをクリアしていくことが大事なのです。

>>永久に虚無の空間にでも追放されるのでしょうか?

ははは・・・。面白いですね。仏教ではそういう世界を無間地獄(むげんじごく)と言います。その世界には時間も空間もありませんから「虚無の空間」という表現は正しくありませんけどね。そしてそれを恐れるところがやはり人間の初期設定通りで、NPC思考そのものなのです。

あなたは(初期設定通りに)大きな勘違いをしています。「存在の本質」は思念と概念だけが存在する世界であり、あなたが恐れている「永久に虚無な世界」の方がイメージ的には近いのです。創造主(の思念・概念)以外のものは存在せず、存在する時点でそれは創造主の一部なのです。

僕らの存在も、僕らが認識できる森羅万象も、創造主が自分の中に作り上げた仮想の世界において、その思念がまるで実体があるかのように現されている幻に過ぎないのです。時間も空間も物質も、我々が自分と他の存在は違うものだという認識(分離意識)も、すべてが我々に与えられた幻想であり、本当はすべての存在は創造主自身(ワンネス)なのです。我々が当たり前に存在すると考えているものは何一つ当たり前ではなく、覚りが開けてきてそれが見えてくれば「自分と自分以外のものが存在すること(人生)のありがたみ」というものが自ずと湧いてくることでしょう。

「存在の本質」は「創造主(の思念・概念)しか存在しない世界であり、無限の可能性が無限に存在するだけで何も結実しない(何も経験し感じる事ができない)完全な世界」です。それは芸術の素材だけが無限にあって芸術が存在しないかのような、究極に退屈で孤独で無意味・無価値な世界です。それはまさにあなたの恐れる「永久に虚無な世界=無間地獄」に等しいものです。思念と概念だけの世界では、何一つ経験することも感じることもできません。それは時間も空間もなく永遠かつ絶対的に退屈な世界なのです。そして創造主にとって世界=自分であり、自分が唯一の存在で、他の存在に目的をもって創られた存在ではなく、完全であるがゆえに他の存在を必要ともしません。それは絶対的な孤独なのです。創造主は完全で全知全能でありながら存在意義(存在価値)がなかったのです。しかしそれが「存在の本質」なのです。

だからこそ創造主はその絶対的な退屈・孤独・存在意義(存在価値)のなさを解決するため、つまり芸術(物語)を生み出し、それを各々の観点から経験し感じるため、ありったけの愛でこの仮想現実世界(神話)と人間を創ったのです。人間が無間地獄を恐れるのも「5億年ボタン」のようなファンタジーを生み出すのも、自分が創造主そのものだった頃の「絶対的な退屈・孤独」と「存在意義(存在価値)のなさ」という魂の記憶があってそこに戻されることを無意識に恐れるからなのです。

人生という「経験ができる機会」を与えられている価値がわからないのなら「経験ができない世界」つまり他者が存在せず、時空が存在せず、思念と概念しかない無間地獄を「経験」させられるのは至極自然なことでしょう。

全知全能で完全無欠でありながら存在意義(存在価値)がない創造主にとって、存在意義(存在価値)こそが唯一求めるものであり、そのために彼は感情(愛)・成長という概念を生み出し、それを経験できる人間と世界を創り、自らを分割して分け御霊を与え、創造主としての意識を隠し、光そのもの(全知全能=智慧そのもの)であるその分け御霊たちに無明の闇(エゴ・愚かさ・迷い・恐れなど)で包み込んで分離意識を与え、それを乗り越えて行く使命を与えたのです。どんな概念も、経験が伴わなくては存在価値がありません。そしていきなり真理に辿り着いたら経験に意味はありません。あえて間違いを犯させ失敗させ試行錯誤させる経験を積ませるからこそ成長があり、経験に意味が生じるのです。

全知全能の創造主は物質やお金などいくらでも生み出せます。それはデータに過ぎませんからいくらでもコピぺ可能なのです。でも存在意義(存在価値)は無限に生み出すことはできないのです。それがわかればお金やモノを求めて生きる事がいかにくだらないかがわかるでしょう。まして神様にお金を払って天国に行こうなどという考え方がどれだけ愚かかわかるでしょう。

僕らの存在意義(存在価値)は経験すること、感じること、成長すること、愛することであり、それができること(存在)を創造主に感謝することです。それが創造主に存在意義・存在価値を与えているのです。人生を悪く解釈して不平不満や愚痴を言うことはそれと逆行するので、悪業を積んで不幸に導かれるのは当然のことなのです。

人生と肉体を与えられ、自分という主人公(主体者)が存在し、経験し・感じることができること。自分以外のもの(他人)が存在し、お互いの欠点や過ちを許し合い・補い合い・尊敬し合い・感謝し合い・愛し合えること。存在の本質を知れば、僕らが当たり前だと思っている事は何一つ当たり前じゃないんです。そういうものを当たり前だと思って感謝せず、ネガティブな解釈ばかりして、苦しいことが多いからといって不平不満ばかり言って、自らの認識世界(仏国土)を地獄のようにすれば、本当に地獄のような世界に行くことになるのです。

天国は創造主に与えられた自分の心の世界(仏国土)を天国に変えられた人間が行くところであり、逆に地獄は自分の心の世界(仏国土)を地獄に変えた人間が行くところなのです。「存在するということのありがたみ」がわからず、心の世界(仏国土)を地獄に変えてしまうような人間が無間地獄に落とされ、今まで自分がいかに素晴らしい世界にいたかを思い知らせれ、自ら覚らせられるのです。

創造主が100%の愛で創ったこの仕組みを意地悪や罰ゲームのように考えるのなら、あなたはもう地獄に片足を突っ込んでいるようなものです。それは因果応報システム上の必要悪であり、それを悪意で解釈すれば全部自分に返ってくるだけです。そして前述のように自殺するなどという選択肢を考えているだけでも気づかない間にそこに導かれるというペナルティーがあるのです。それだけ自殺というのは感謝(創造主の存在意義)と逆行するものであり、創造主の愛を裏切る最悪な選択なのです。

安楽死は巷で活発に議論されていて、肯定派の人達は「他人の苦しみを思いやる」という正義を盾にしていますが、実際は自らの不幸と死の苦痛を恐れているだけです。それは神に「生かされている」っていうことへの信頼と感謝の欠如であり、不幸に導かれるのは「我々の存在意義」がわかれば自明なのです。我々は事故や病気などあらゆる死の可能性を集めればとっくに死んでいますし、そもそも生まれてもいません。「生かされている」ってことの意味をよく考えて、自発的に信頼して心から感謝すべきです。

主人公の認識世界は、解釈(哲学)の選択が作るものです。人間が何か行動の選択をする前に既に自分が解釈によって世界を創っていて、それが行動の選択肢も作って(引き寄せて)いるのです。例えば「自殺するかしないか」という選択も、そういう選択を迫られるような状況を自分の解釈(哲学)によって創り出しているのであり、その時になってみて自殺するかしないかを選択しようとすることには意味がないのです。どれだけ迷い躊躇しようと、人は何か行動の選択をする時点で既にその選択に必要な自分の哲学を作り上げているのですから、行動の選択時点ではもう結果が決まっているのです。実際、普段から自殺を問題解決の一手段として考えているような人は、霊障に主体者としての地位を犯されているのであり、いざ極限状態になった時にブレーキが利かないのです。

だからまず常に創造主から愛によって自分にとってベストなものが与えられているのだと解釈し、存在一つ一つの価値に気づいて感謝することが大事です。僕らはみんな創造主の一部であり、創造主は僕らと同じように与えたものの価値に気づいて感謝しない人間に、もっと良いものを与えようとは思わないのです。もっと良いものを与えても価値に気づかず感謝しないだろうことは確実ですからね。「他人(NPC)と比較して」良いものが与えられなければ感謝できないという人の感謝に価値はないのです。誰かを羨んで自分を蔑み、与えられたものに不平不満ばかり言って恨みで返すようでは、既に与えられたものまではぎ取られ続け、失うことでその価値に気づかされるような悲しい人生になって、どんどん自殺・安楽死という選択に追い込まれることでしょう。自殺・安楽死というのは感謝・信心の欠如であり、不平不満・恨み・被害者意識の成れの果てなのです。

もし自殺に何の苦痛も伴わず何のペナルティーもなければ、ちょっと気に入らなかったらすぐゲームのリセットボタンを押すように手軽に自殺・安楽死してしまうでしょう。それでは誰も成長などしませんし、人生が魂の成長を経験するためのゲームとして成立しません。前述の映画俳優の例えのように、現状に不平不満を言って自分の心の世界(仏国土)を地獄に変える人間が、より良い条件でリスタートを望むことがいかに愚かなことかを知って下さい。

人間の不平不満の根源は他者比較・他者評価依存にあります。RPGにおいて主人公がNPCと自分を比較することに何か意味があるのでしょうか?他人と自分を比べて羨んだり見下したりしないで下さい。自分を蔑まないで下さい。自分という主人公にだけ与えられた配役・シナリオがあり、他人とはスタート地点も条件も課題も異なるのです。だから自分に与えられた初期設定からいかに成長できたか、いかに愛したか、どれだけカルマを解消できたかを考えて下さい。それを他人と比較するのは意味がありません。

人間が死の苦痛を恐れるのは当然です。前述したように、それがなければ簡単に死んでしまって魂の成長は望めません。苦痛はそのために与えらえているものです。そして人間が最初から魂の永遠性を理解して信じて死を恐れないようでは覚りに意味(価値)はなくなります。

始めから何も恐れず何も傷つかない人間の勇気に価値はありません。臆病で傷つきやすく創られている人間が愛(×エゴ)によって振り絞る一握りの勇気にこそ価値があるのです。生死という幻が存在せず、人生が始まりも終わりもない物語なら芸術として成立しません。そして死に対する恐れや悲しみがなければ物語になりません。

死の苦痛は幻です。苦痛は生きようとする意志を高めるためのものであり、苦痛があるときは「まだ生きろという意味なのだな」と理解して下さい。本当に死ぬべき時に死ねば苦痛は感じないのです。臨死体験者たちの体験談は人それぞれですが、一件の例外もなく口を揃えて言っていることは、「(魂が肉体から乖離している時は)痛くも苦しくもなかった。肉体(この世)に帰ってきた時に苦痛が襲ってきた」ということです。

ここは仮想現実であり、僕らの肉体はプログラムされたアバターなのですから、苦痛には上限があり、リミッターがあるのです。苦痛が限界を超えるとそのリミッターが外れ、量子効果により一瞬過去に遡って死の直前の苦痛も上書き消去されます。他人から見て死に瀕している人が苦痛に悶え苦しんでいるように見えても、死の直前にはその認識主体者である魂は肉体から乖離しているのであり、悶え苦しんでいるように見えるのは自動で動いているAIのようなものなのです。それを見て人間は死を恐れるように初期設定されていますし、他人の苦痛を思いやることは大事なことなのですが、それをもって自らの死の苦痛を恐れ、自殺や安楽死という逃げ道の選択肢を確保しようと画策すれば、人生を空費しながらいつかその選択に追い込まれることになり、それは前述した通り賢明なことではありません。

僕は決して安楽死や尊厳死に反対なのではありません。ただ僕やあなたがそれらに対して賛成しようと反対しようと、その決定に関わる権力・権威はないわけで、何を言ったところで何の影響もありません。そして死の苦痛はみんな怖いのですから、放っておいても落ち着くべきところに落ち着くのです。そして本当に死ぬ時は苦しくないのですから、安楽死・尊厳死の議論などはNPCたちに任せて、主人公であるあなたはただ放っておいて、ただ自分の使命を果たすことだけを考えていれば良いのです。

既に僕の質問箱史上で最長になってしまっていますが、最後にあなたが知りたがっている「(他人ではなく認識主体者であるあなたが将来)NPCのまま自殺・安楽死を選んだらどうなるか?」について少しお話しましょう。もちろん前述の通りケースバイケースで人生がトータルに判断されて決まるわけで、僕はあなたが生まれてから死ぬまでの人生をトータルに知っているわけではないですし、あなたが目覚めないまま自殺・安楽死したら絶対にそうなるという保証などありませんし、信じる・信じないを選択してその結果責任を負うのはあなた自身だということをお忘れなく。

自殺と他殺、どちらも人殺しであり、重罪であることに変わりません。でも多くの人は自殺は他殺より悪くないと考えています。自分の命を自分のものだと考え、どう扱おうと自由だという不遜な考えを平気で持つのです。しかし人生はRPGです。ゲームの中で他人を殺すのと、ゲーム機(自分)ごと壊すのと、ゲームを与えてくれた父たる創造主はどちらをより罪深いことだと考え、どちらをより悲しいと思うでしょうか?自殺というものは他殺とは次元の違う最悪の罪だということを知って下さい。

せっかく人生という「全てが主人公である自分次第」の素敵なRPGを父親の100%全力の愛でプレゼントされているのに、その価値に気づかず、またその物語の主人公にしてもらっていることにさえ目覚めようとせず、自分自身でつまらなく苦しいクソゲーにしておいて、そのシナリオ・設定に文句を言い、ゲームが本格的に嫌になったからといってストーリーの途中でゲーム機ごとぶち壊して強制終了させようとする、そのような人間はその後どうなるでしょうか?

ゲーム機本体である自分の配線を引っ張ったり切断したり(首吊り自殺・血管の切断による失血自殺)、落っことしたりぶつけたり(投身自殺)、焼いたり(焼身自殺)、水没(入水自殺)させたり・・・。そんなことをすればその壊れたままバグ状態のような感じの中でゲームを強制続行させられるのです。つまり前述の苦痛のリミッターが外れない状態で寿命まで延々と壊れたレコードのように繰り返し自殺の苦痛を経験させられることになるのです。

そして他人の認識世界の物語のシナリオを悪化させる霊障(悪役)として使いまわしにされ、憑りついた人間を同じ苦痛・同じ不幸に導き、主人公であることに目覚めた人間によって救済されるのを待つだけの亡霊となります。(僕は日々そういう霊の浄霊をしているのでよくわかります)それが自省期間なのですね。

これは存在すること・人間に生まれたこと=主人公資格を与えらたことへの感謝がなく自殺・安楽死した魂への当然の処置(因果応報)でしょう。自殺なんて一番人を悲しませ苦しめますからね。動物などへの転生も十分あり得るでしょう。

また、さんざん人を傷つけきてカルマを積み上げ、最後は自殺や安楽死で逃げようとするような人間は、その逆の立場を味あわされて更なる自省を求められることになるでしょう。ワンネスの世界に「逃げ得」は存在しないのです。

自殺・安楽死にどんなペナルティーがあっても創造主に文句は言えません。その仕組みを作ったのは本当は分け御霊を与えられる前のあなた自身(創造主)なのですから。

それがなぜ正しいとわかるかと言えば、もしみんながこのように考えたらみんなが主人公に目覚め、その使命を果たし、自らカルマを解消するように自発的に善行を積むようになり、みんなが幸せになるからです。それは今まで僕が得た覚り・判断基準である「真理=幸せ」から考えて間違いありません。それは「信じる信じないの判断基準」に書いた通りです。

>>森羅万象に幸あれ。

あなたが認識できる森羅万象に幸をもたらすのが、あなたという主人公の使命です。そのために菩提心を起こし、実践を通じて真理=愛を覚り、それを世界に遍く連鎖させて下さい。それ以外に真に幸せになる方法などないのです。

森羅万象はすべて波動で出来ていて、距離や時間は関係ありませんから、あなたの心を愛で満たし、目の前の人を例外なく愛してその波動を連鎖させていけたら、それは指数関数的に広がっていき、世界はいつか必ず救われます。メシアの使命は、実践を通じて真理を覚り、心の世界(仏国土)を愛で満たし、そこの住民たち(出会った人達全員)にそれを連鎖させていくことです。

主人公(メシア)になるのに有名人・権力者にならなければならないと考え、大したことのない自分にはその能力などあるわけがないなどと考えて、主人公として目覚めることを拒否しないで下さい。「世界を救う」という大きな目標を持った上で「そのために自分は何ができるのか」と考えて下さい。エゴ(我欲と保身)を動機に自分のやりたいことなど考えても見つかるわけがないのです。RPGにおいて必要なものは必要な時に必要なだけ与えられるものであり、使命に必要な才能などは後付けで与えられますから、何も心配など要らないのです。本当はすべて大丈夫なのであり、我々が大丈夫じゃない・不安だと思わされているのは、人生が愛と勇気を試し、自発的な魂の成長を促すためのものだからです。

この世界の存在のすべてには存在理由があって、それは全知全能たる創造主の100%の愛によって我々に与えられているのです。決して創造主が我々への意地悪や嫌がらせで創ったシステムではなく、与えられたものの価値に自ら気づき、自ら犯した罪の重さに気づいて、自発的に感謝し愛せるようになって魂を成長させて欲しいからです。決して悪く解釈せず、また自殺や安楽死などの退路を断ち切り、勇気を持って菩提心を起こし、自らのカルマと正面から向き合って解消して魂を成長させ、今生も来世も幸せになって下さい。

僕がここまで大変な思いをしながら説明しても、あなたは主人公に目覚めることを選択せずにNPC人生を続け、自殺や安楽死による逃げ道を確保することによって導かれる悲惨な人生を選択するのでしょうか?あなたに与えられた自由意志でよくよく考えて下さいね。創造主の愛も、それを必死に伝えようとしている僕の愛も、あなたが無駄にせずに菩提心を起こして、あなたの心の仏国土に住むみんなと幸せになって下さることを心から祈っています。


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