見出し画像

織田信長が安土山で盛大な相撲大会を催した話

いまはむかし、織田信長が安土山で相撲大会を開いたことがあった。参加力士は近江・京都から千五百人ほど集まり、これまでにない盛大な規模で行われた。配下の武将たちも、我こそはという力士を集め、互いに戦わせた。相撲大会は辰の刻(午前八時前後)から酉の刻(午後六時前後)まで行われ、朝から晩まで白熱の模様を呈した。

5人抜きや3人抜きなど、派手に活躍して存在をおおいに印象付ける力士も少なくなかった。この大会を機に信長の目に留まり、側に召し抱えられたものは十四名に上った。同時に、金銀飾りの太刀、脇差、衣服上下など豪華な品も振る舞われた。なかには、信長の領地から百石を分け与えられ、私宅まで頂戴した果報者もいた。

この大会は本業力士の取り組みが主だったが、信長は余興として武将たちにも相撲を取らせた。というのも、信長配下の武将で永田正貞と阿閉貞大のふたりは強力の猛者としてその名をとどろかせ、ぜひこの取り組みを見たいと所望したからである。

大会もそろそろ終わる夕暮れどき、このふたりを含む武将数人による取り組みがはじまった。堀秀政、蒲生氏郷、万見重元、布施公保、後藤高治が第一弾として取り組み、締めとして永田正貞と阿閉貞大がぶつかった。

前評判では、体格・技量ともに上回る阿閉に勝ちの予想が集まった。だが実際に取り組ませたところ、永田正貞に軍配が上がった。これだから勝負は分からぬ。ふたりの取り組みを見終え、信長は思わず唸ったものである。


信長の相撲好きはことのほか有名だった。安土山の大会以外にも、たびたび力士を集めては相撲を取らせ、肉体と肉体のぶつかり合いに酔いしれた。相撲奉行を置いて担当役人を定めたあたりを見ても、いかにこの興行を重視したかが分かる。

信長は単なる酔狂で相撲を取らせたわけではない。野に隠れた人材の宝を発掘する意味もあったのだ。信長号令のもと行われた相撲大会において、目覚ましい活躍をした者は血筋・家柄に関係なく召し抱えられた。彼らはいざ戦になると信長のために命をかけて戦った。取り立ててくれた主人の恩義に報いるためである。

戦で使える人材を相撲の取り組みで評価するやり方は、いかにも柔軟性に富む信長らしい。一芸に秀でるものに対しては、分け隔てなく愛を注ぎ、活躍に応じて褒賞を授ける。信長の軍団が精強だったのは、常識にとらわれない方法で人材を評価する点も大きかったといえる。



#歴史 #日本史 #戦国時代 #織田信長 #安土山 #下克上 #歴史コラム #今昔物語 #毎日更新 #毎日投稿





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?