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”きちんと生きる”とは

生きていれば誰でも、理不尽だ、不公平だ、こんなの耐えられないと思うような出来事に遭遇することがある。私も前職をクビになったとき、そう感じた。私はそこを解雇されたのに、まだそこでは私についての話題が止まないらしい。つくづく、人間は醜い生き物だなと感じた。

私が日本を離れたのは、日本での社会のプレッシャーが私には合わないと思ったし、もっと違う世界で仕事をしてみたいと思ったから。でも、ここにきて結局人間は人間だな、と。国が違うから、人種が違うから、文化が違うからといって大きくは変わらない。

上に立つ人間はお金を手に入れるとだんだんと傲慢になっていく。新たに何かを学ぶこともなければ、汗を自分でかくこともなく、若者や他人を駒のように扱う。使えなければ容赦なく捨てる。地位を使って全てをコントロールしようとし、それを正とする。なのにこれっぽっちも生産性なんてない。

駒にされて動いているうちに「ああこれは間違っているな」「毒されているな」と気がついている人でさえ、それに立ち向かって戦うには無駄な労力だと判断する。自分がその環境によって変わってしまったことにも、過ぎていく時間は皆平等であるとも気がつかずに。(体調が悪いなと感じながらも病院に検査に行かずに、倒れてから実は病に侵されていて、でももう手遅れでした、みたいな)

つまり、組織はそれを利用しているから、それでことが回っていると勘違いをして本質の(病気で言う腫瘍の)部分に気がついていない。気がついたとしても、見ないフリをして自分達の生活を守ろうとする。全部自己防衛のためのエゴ。

解雇されてしまったことは、今でも残念だと思う。環境は決して良くなかったし、毒されていたし、正直マネジメントなんてガタガタだった。でも、そこで働く人もお客さんも心から大好きだった。その人たちとの関わりが途絶えてしまうんだと思うと、本当に悲しかった。それでも他人を責めたりしてはいけない、ある程度自分にも非はあるし、他人を責めると言うことは自分の課題から逃げて、進歩しようとしないことと同じだから。少なくともそんな人にはなりたくない。

かなりぶっちゃけた話をすると、そのレストランの評判を口コミで下げてやろうかとか、裏切った人の車のタイヤをパンクさせてやろうかとかいう考えが頭の中によぎったこともある。でも、もちろんそんなことはしなかった。

するかしないか迷ったときの判断材料として役に立つと思うものがある。
迷った時には
・人の道理に反していないか
・それをした後の自分を誇りに思うことができるか
・もし同じことで悩む友人がいたら、なんとアドバイスするか
・常に難しいと思う道を選べ

衝動的なことをしそうになった時にも、一度深呼吸をしてこのことを考えてから行動するようにしている。

そして、何をするにもどこへいくにも何か一つ学びを得ること。年齢なんて関係ない。人生の先輩から学ぶこともあれば、最新のことを若者から学ぶこともできる。

結局何が言いたいかというと、何が起こっても全て学びに変えることは可能だと言うこと。自分は無力であることを知ること。物事は全て起こるべくして起こっているということ。明けない夜はないのだということ。

何もやりたいことがなくったって、人として正しいことをしていれば、自分と向き合えばいつか必ず見つかる。

希望を持って今日もきちんと生きて頑張ろうね。


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