JUN KATO

その後の、加藤淳。

JUN KATO

その後の、加藤淳。

最近の記事

マーラー第10交響曲

<宇宙が鳴り響く>と、当時、作曲家が自負していた第8よりも、現代では、未完に終わった第10交響曲の方がはるかに人気がある。   高校時代に、セル/クリーヴランドoのLPで、第1楽章以外の断章が存在することを知り、18歳の頃、銀座コリドー街にあった「ハルモニア」という輸入盤専門店で、モリス/フィルハーモニアのLPを見つけ、クック版の全5楽章を初めてきいた。第5楽章の後段で、第1楽章の最初の主題が再現されることに、少し意外な感じを受けたことを覚えている。 実演できいたマーラー1

    • 山の上ホテル

      1980年代は、映画、美術、音楽など、各分野の文化が充実した時代だった。クラシック音楽については、NHK FMで海外のライブコンサートが放送されることがあり、当時の日本では、CD化される前の、最新の演奏に触れることのできる貴重な機会だった。 銀座のデザイン会社で仕事を終えた後、平日の夜、「山の上ホテル」の新館の、すいているロビーのソファーに、SONYの小さなFMラジオを持参して、 シノーポリ/シュトゥツガルト放送響のマーラー第6をきいた時代が懐かしい。 テーブルの上には、

      • 手塚治虫「ブラック・ジャック ミッシング・ピーシズ」

        手塚治虫の代表作「ブラック・ジャック」が発表されてから50年。 今年、A I がストーリー制作に参加したという新作「機械の心臓」も読んだ。この作品についていえば、派生的な細かいエピソードがちりばめられているが、作品を貫く太い幹のようなものや、大きな陰影がない。手塚のオリジナルの70%にも到達していないのではないか。 仮に、加藤淳が「ブラック・ジャック」の新作を描くとしたら、 『3人目がいた』というタイトルで、不発弾の杜撰な処理が原因で、幼少の頃、瀕死の重傷を負った主人公が、

        • 小林研一郎

          小林研一郎の実演は40年前に、一度きいたことがある。 1983年の春、日本フィルを指揮したマーラー第5交響曲。 ひとことで言えば、全曲をかろうじて音に出来たような演奏で、 演奏のクオリティや解釈の独自性などとは無縁のところで、 達成感だけを、この指揮者が舞台の上で、一番喜んでいたような記憶がある。 小澤征爾や若杉弘がいた時代、中堅指揮者の印象が強かった小林も83歳。 「府中の森芸術劇場」で、久しぶりにこの人の演奏をきく。 現在の小林は、指揮棒を最小限しか振らない。 少し長い

        マーラー第10交響曲

          クラシック音楽

          クラシック音楽を、自分の意思で最初にきいたのは、 小学生の終わり頃だと思う。 父親のLPレコードのコレクションから、 ベートーヴェンの最後の作品、弦楽四重奏曲、op135を取り出して、 プレーヤーに乗せて、針を落とした時だろうか。 著名な作曲家が最後に書いた音楽、という点に興味を引かれたのだと思う。 奇妙な音楽、というのが第一印象。 褐色から濃い緑色に伸びていくような、最初のフレーズの印象と、 達観したような、平易な旋律が続く第3楽章以外は、 どこか戸惑うような音楽の連続だ

          クラシック音楽

          金子未弥「未発見の小惑星」

          川俣正の「コールマイン田川」で面識のある山野真悟氏の最近の仕事を辿っていくと、金子未弥のドローイングが気になり、横浜・黄金町にあるギャラリーを何度か訪れた。黒澤明の「天国と地獄」の舞台となった町でもある。 NPOが主宰するギャラリーの前を流れる大岡川は、犯人役の山崎努が歩いた場所に続く。 確かな力量で描かれた「小惑星」のドローイングには、コロナ禍での生活体験が反映しているという。他人との関係が閉ざされた後、自室で、梱包に使うような紙に、人間が住む場所の基本単位=民家や公園な

          金子未弥「未発見の小惑星」

          40年後の演奏

          インバルがブルックナーの交響曲の初稿をTELDECに録音したのは1982年頃だっただろうか。ホルガー・マチースによる見事なジャケット・デザイン。 ブルックナーの肖像をモチーフに、この作曲家の名声の拡大、メディアの進化や、作品への丁寧な修復姿勢を巧みに織り混ぜ、視覚化した一連のデザインは、今なお魅力的だと思う。 そのインバルによるブルックナー第4交響曲の初稿(1874)を実演できく。 第1楽章後半、最初の主題が大きな弧を描いて回帰してくる箇所の表現力に引きつけられる。いろいろ

          40年後の演奏

          立教高校

          10年に1度位、立教高校を訪れることがある。自由な、いい学校だった。 アントニン・レイモンド設計のチャペルの造形が好きなこともある。 在学中は週に一度、朝、礼拝のような時間があった。 聖堂の内部、正面の不思議な幾何学図形の装飾を見ながら、聖歌をきいた。 入堂聖歌303番が好きだった。ハイドンのカイザー・カルテットから採られた旋律。現在のドイツ国歌。コンクリートのチャペルに響く、やや甲高い パイプオルガンの音を覚えている。 自分が本当に好きなものに重きをおく人達が多いのも特徴

          立教高校

          水木しげるが見た光景

          調布市文化会館で「水木しげるが見た風景」という企画展をみた。 水木は鳥取出身で、戦後、調布に長く在住していたという。 自身の戦場での体験を反映した戦記漫画に圧倒される。原画と、それを拡大したパネルで構成される作品のハイライトを、時間を忘れて辿った。 戦争末期、職業軍人の兄と特攻隊に志願した弟が対峙する。弟の特攻参加に驚く兄は、〈戦争は、おまえのような者が50人、100人死んでも、どうなるものでもない。もっと大きな力と力の対立なのだ。出撃しても途中の島に不時着して生き延びろ〉

          水木しげるが見た光景

          八甲田山

          1977年。立教高校1年の頃、映画「八甲田山」が公開された直後、 青森を訪れ、避難ルートに沿って、アスファルトで舗装された県道を 歩いたことがある。 その45年後、雪中行軍の遭難者が眠る幸畑陸軍墓地を再訪した。 明るい緑色の芝生が広がる墓地の印象は変わらないが、 隣接する場所に遭難の経緯と関連資料を展示する資料館が整備されていた。 一日に数本しかない、帰りの路線バスは1時間半後なので、 資料館のロビーで書架に置かれていた映画「八甲田山」のシナリオを ガラスの向うに兵士たちの

          八甲田山

          藤沢

          藤沢駅を30年ぶりに訪れる。相模湾の海をみるには起点となる駅。 前回降りたのは、つい最近のことのように思うが、 1980年代の後半、藤沢市民会館で行われた、 シノーポリ/フィルハーモニアoによる演奏会に出かけた時だった。 京王線から小田急に乗り継ぎ、かなり時間を要した記憶がある。 シューマンの第二交響曲はオーケストラは違うが、 DGへの録音とほぼ同じ解釈で、それを実演できいたという印象。 そして、この日、演奏されたもう1曲は、ブラームスの第一交響曲。 この指揮者による公式録