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同じ環境の他人と、もっと話がしたい。

死にたいと思ったことがない人が、この世にいるなんて信じられなかった。

毎日毎日、人から見たらきっと羨ましがられるような不自由ない生活をしていたとしても考えてしまうのに、どうしてなのだろう。

私とその人では何が違うのだろうと思ったけれど、私は心配してくれる人の数に比例するのだろうと思った。

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「え、死にたいと思ったことないの?」

「ないです。だって親が悲しむじゃないですか?」

言葉を失った。そうか、両親が悲しむ顔って普通は見たくないものなのか。それとも、ゆとり世代の考えってやつなのか。後輩の言葉に頭が混乱した。

飲みかけのカフェオレに口をつけて、落ち着かせたけれど、心はバクバクと音を立てていた。

「へぇ、1度もないってすごいね。」

必死に探した言葉だった。

「最後にはどうせ死ぬんだから、やりたいことやりたいです。そんな生き急ぐ必要ありますかね?そんな毎日死にたいとか思うって、大丈夫ですか?」

大丈夫なわけない。心の中で答える。

死にたい気持ちは、唯一残された私の希望だと思っていた。むしろ、自分を否定して自分自身を追い詰めているというより、肯定していると思っていたのだ。


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例えば、手をぶつけたら、もしかしたら血が出るほどの怪我をするだろうし、骨折をして毎日ギプスをしないといけない。応急処置された傷を見て、痛そうだとか、早く治るといいね。と思う。そして、傷が塞がったら治ったんだと感じる。

でも心の痛みは、見えないし癒えたかどうかさえ自分ではわからない。私は見えない痛みを可視化するために自分を傷つけていた。きっとこの傷が治る頃、私の心も癒えるのではないだろうか。本気でそう考えていた。

何も考えたくないときは、薬やアルコールに頼った。ふわふわして気持ち良い。その快楽に身を委ね終わったなら、今度は副作用で苦しむ。

いつだって消えたかった。だから、死こそが最大の救済であると信じてやまなかった。

今もまだ、少しだけその考えはある。そして、死にたいなと思う日もある。

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でもやっぱり、死は選べない。

明日会うはずの人が、いきなり死に呼ばれる時が来る。だから、

「生きなくっちゃ。」

最近「死にたい」と思う気持ちを抑えるために考えるようにしている言葉。

私が死んだところで、ここはゆかりのない場所だ。どうなるかよくわからないし、多分恋人がどうにかするのだと思うけれど、最後まで迷惑かけちゃうのかなぁと考えると、それはそれで申し訳ない気持ちが込み上げて、ただ涙が溢れてくる。

良くしてくれてるのに、何もできてない自分に嫌気が差して、今日もベッドに横たわっている。

死にたいと思ったことがない人の話を、もっと聞きたいし、出会いたい。色んな人の話を聞きたいのだと思う。友達が欲しいというよりは、話し相手が欲しい。充実している人の話だと、なお良い。生きたい人は何を楽しみに、何に希望を抱いて生活しているのだろう。

それが今、私の心のリハビリに必要なのではと思っている。

お仕事中のドリンク代にさせていただきます。ちょっといい紅茶を買いたいです。