『大野修理奇譚』顛末

別稿で「大野修理奇譚」を書き上げたが、その際に永禄、天正年間について年表にまとめた。

この年表はかなりのフィクションを含んでいて、大蔵卿局の出生年、大野治長の出生年、茶々(淀殿)の出生年、大野治房の出生年、大蔵卿局の再婚、大野治長の仕官、大蔵卿局と茶々(淀殿)が秀吉の元へ行く年などは、物語に都合のいいように組んである。

特に浅井長政と市の政略結婚は、古い説である永禄7年説で組んであるので、近年の永禄11年説をとると、物語が崩れる。できれば、治長と茶々の年齢差を短く取りたかったので、フィクションとさせてもらった。

小谷城落城が記憶違いで思いのほか早く、8歳で戦闘に加わるというのも、微妙な気がしたが、まあ草稿的な意味合いも強いので、そのまま書いた。

近代史だと西暦で年表を把握することが多いので、元号が混じり込むと難しいなあ、と思うものの、西暦に直すと、永禄年間から慶長年間まで60年余りもあって、時代の変容を意識しながら生きた人がいたとするなら、潮目の変わった時期に生をおわらそうとしても、いいのかなと思って、動機を作った。

もちろん、あれがあまりにも近代人的なメロドラマ解釈だというのもわかる。ただ、古田織部などは、時代の潮目に殉じた人のようにも見えた。

淀殿と治長が密通していたという話は、確か、元和初期の冊子本の流通の中で見られるということなので、それを苦々しく思った前田彦右衛門の一族が「奇譚」として「真実の物語」を書き綴り、千姫に助けられたもう一人の秘密を一族郎党で守っている、という話にした。

木版印刷それ自体は、ヴァリニャーノによる伝来以来、技術としてはあったが、秘匿すべき内容が含まれていたので、写本的に、代々何かを書き加えながら、更新されていった、という形にしたかった。書物史、印刷史的にウラ取れているかどうかについては、もっと検証しなくてはいけない。

イメージとしては中世ヨーロッパの写字生のことが念頭にあったので、事実に反することもあるかもしれない。製本・印刷史とはいくらフィクションであっても、不適合を起こしたくない。

インスパイアされた書物は、たまたま手に取った植村清二の『歴史と文学の間』(中公文庫)に所収されている「大野治長」である。ここに千姫脱出の立役者である前田彦右衛門の話があったので、それを軸にしてスルスルとかけた。書割のようになっているのは、とりあえず全体を完成させたいとおもったから。

植村のエッセイだけだと、Wikipediaとかを確認すると、結構古い文献が元になってて、辻褄の合わないところが出てくる。みなさん、前半生は不明なところが多いので、こちらもそこはフィクションしまくりできた。

徳川、治長共謀説は、すでに大正期の福本日南の「大阪城戦記 前編」にも、あるので、むしろお話としては古い発想で、新味はないのかもしれない。ただ、共謀説をとるなら、どうして淀殿と秀頼を治長が救えなかったか、という疑問が出てくるので、それは淀殿に大変近代人的な動機を付与して解決した(もう生きるのに疲れた)。

慶長年間は長い。関ヶ原が終わってもなお15年もある。幕府ができて、千姫との政略結婚をして、一大名の地位に豊臣を設定して、知行付与権の行使を江戸幕府ができていれば、もっと早くに豊臣の脅威も無くなったような気もするが、この15年が不思議だ。いかにも長い。偶然といえば偶然の成り行きなのかもしれない。フィクションの中では、治長が豊臣家中を収め、一大名化の指図をしていたと解した。だから、対立は起こらなかったと。

むしろ且元が対立を企図して、その処遇に治長が四苦八苦したように書いた。家康とて万能ではない。事が起こって対処するの繰り返しで、その巡り合わせが、冬の陣、夏の陣になったのだろう。そこに状況的な辻褄を合わせることを、今回は練習してみた。

治長良い人説は、どうやら今回の「どうする家康」でも採用されているようだ。それに影響を受けたわけではなく、桑田忠親、植村清二といった先達の発想を使って、形を作ってみたにすぎない。

植村清二は、直木三十五の実弟で、旧制新潟高校の教諭から、新制新潟大学、國學院大学を歴任。視野の広い歴史観と重厚だが洒脱な講義で記憶に残る先生だったようだ。戦中に帝大を辞めた家永三郎が一時期新潟高校に赴任しており、そこで植村清二と交流をしていたというエピソードでも知られる。その薫陶のせいか、戦後の家永は古代の文化史のみならず、近代までを視野に収めた記述を行っていく。

家永の教科書裁判では、検定委員もやっていた植村は、奇妙な邂逅を遂げる。

同じ非常勤職でも都議会の議員とは違うから、その百分の一の手当でも、別に愚痴はこぼさない。しかし、仕事の実態が知られず、苦労して非難されるのは、何としても、さびしい気持ちがする。語を寄す、戦旗をはためかせて、高らかに凱歌を上げている諸君。その傍には錆びた銃剣を抱いて、誰にも顧みられないで、横たわっている老兵の屍があることを、忘れないでくれたまえ。
幸にも十七日の家永裁判の判決では、教科書の検定は違憲とはいえないが、不当であると宣告された。僕にとっては家永さんとは別の意味で喜ぶべき判決であった。教科書の検定もこれで終わりであろう。もう三十冊の白表紙本を夏休みの間抱え込むこともあるまい。ありがたいことである。

「老いたる教科書検定委員の悩み」

植村は、露伴の良き評価者でもあり、私はその露伴論が好きである。

「いさなとり」の作者として勿論彼は人生の暗黒面も見逃さない鋭い目を持っている。しかしその目が凝視しているのは常にその中に輝いている光明である。そして彼はそれによってこの人生が矛盾と葛藤に満ちているにしても、究極に於いて肯定すべきものと確信している。この人生の肯定は或いは彼の作品から近代的に深刻さを奪っている一つの原因かもしれない。しかしこのフロンタリテエトこそあらゆる近代の作家が露伴に及ばない点である。

「露伴と鴎外と」

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