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【無】の宇宙【有】の世界 - 《iはJ》

■【有】と【無】 = 【物質】と【意識】

お馴染みの絶対に否定不可能な【真理】を元に論考を重ねる事で、間違っていない本来の宇宙の姿、つまり真の【宇宙像】を炙り出すという作業の続きになります。

わたしたちの住んでいる世界は、ほんとうはどのような宇宙なのでしょうか?



■(宇宙の三態)+(エネルギー)中有に【自己】

「存在の方程式(あおいのきせきの知見)」から

【物質】の世界と【非物質】という、互換性のない【宇宙】が

【認識主体(自己)】を「境界」にして在るのが宇宙であり、

更に、

それら三態の宇宙とは非ずの関係にある【ト・ヘン】とか【梵我一如】という言葉で指示されている【界】がある。

【認識主体(自己)】は

【肉体】という【物質】



【心】或いは【精神】という【言葉】や【イメージ】といった「構成要素」を「含んだ」【非物質】である【意識】によって構成されている、

と考えられます。

そして、

【自己】を中心にして(三態の宇宙)を循環している【情報】(またはエネルギー)が、存在する宇宙の界によってカタチ(性質)を変えている、というのが、「存在の方程式」という疑いようのない【真理】から導かれるのが正しい【宇宙像】であると考えられるのです。

■三態の界によって変化するカタチ

この循環する「なにか」は前回記事にも記しましたように「対称性の破れ」を発端にして生まれた

三つの存在(何か)のうちの一つ

の訳ですが「それをそれとしてあらしめる」自己の同一性を担保している「なにか」を【情報】と命名することに致します。

簡単におさらい致しますと、全てが「非ず」の関係性にある全ての存在は、自己同一性(わたしが私であること = 命名)を手に入れた瞬間に、「存在のバランス」を崩してしまいます。

「A」が生まれた(存在する・存在した)ということは、

「A」 の他にも

「非A」 と 「Aと非Aの境界」が同時(期)に発生することを意味する。

存在の方程式で指示された関係性は、しかし、

非A が 例えば B という「個体」となった途端、次は、非B その境界 が生じてしまいますから、三態のバランスは崩れてしまいます。

「(算)数(学)」に喩えて申しますと、

(存在全て)1は3で割り切れません

「空間概念下」では0.3が2つと、0.4と量的表現されうる事態です。

要するに存在は存在するに当たって「バランスを崩せざるをえない」

実際には宇宙は【空間】だけの存在ではありませんから、この「喩え」を現実と理解してしまうと、(バランスを整数だけで表現すると)おかしなことになってしまいます。

一部は「虚数」と化すわけですから。

しかし質的に【宇宙のバランス】は崩れます。(つまり、生き物はみんな違います)

そういえば、スターウォーズは「宇宙のバランスを取り戻すこと」こそがメインテーマでしたね。

宇宙が二対(ジェダイシス或いは正界反界)であればバランスを取ることも可能でしょうが、取った途端に宇宙は止まってしまいますし、実際には増え続ける(或いは消滅し続ける)三対が正解でした。(要はスターウォーズの世界には観客もいた、といった所でしょうか)

割り切れないが故に宇宙は悠久の【運動】を続けることになったのです。「存在」が「存在」することが三態であることでしか許されないが故の宿命です。

【時間】は止まらないし、止まらないのは【時間】が【心】だから、とも言い得ます。

もちろん【運動】する宇宙と【移動】する星々は住むところが違うが故に両立する世界(宇宙)と言い得もします。

■ラプラスの悪魔 vs.人の自由意志

要するに

機械論的世界は、非機械論的世界(生命原理によった世界)とその二者の境界(人の世界 = 自由意志の世界)

で成り立つのです。

どちらが正解というわけではありませんでした。

境界にあるわたしたち人は物理法則的不自由と想像の世界の自由との間で右往左往するのです。

【唯物論】と【唯心論】、【実体論】と【関係論】など対立する世界観はこのようにして片一方だけでは世界を見通すことができない「相補的関係」という事態に相成っておるのです。

■差分によるエネルギー

■境界を巡る情報たち

【物質】でも【非物質】でも存在が存在すると「非ずの存在」が同時期に発生します。

すると、それら二者の存在の境界に何かが生じます。

それら二者は非ずの関係ですから、必ず言ってみれば「ずれ」が発生します。しかし「近接(距離という意味だけでは無く)」している。

この差分が【力(エネルギー)】の素になります。

例えば、

エネルギー保存の法則で高さと速度は対比可能とされておりますが、それもこの「原理」によっていることがご理解頂けるかと思います。

要するに境界という「差分」それ自体が【(或いは数値化されうるような)情報】でありそれを【愛】と呼んでも【力】と呼んでも相違はありません。

所謂【物理】で指示されているエネルギーの大元は存在そのものが存在するにあたりズレていく運命にあることの対比(比喩として申せば)として生じるという理解が可能であり、その理解から万物を眺め直すことで【(非物理的なモノを含んだ)力】に対しての統一した見解がえられると予感・予想され得ます。

■【時間】の発生 = 【力(フォース)】の発生

「演算」に【時間】の概念は含まれませんが、実際には、「演算」することで【時間】が生じると理解が可能ですし、そのようにして【現実】も【動】き出すのです。(因みに【時間】も【差分】として理解可能です)

私たちは「演算」するのに【時間】が必要、と考えがちですが、正しくは「演算」するから【時間】が生まれると言えるのです。

これを以て【時間】とは【運動】の別義と言い得ますし、【物理】の基本である【力】とは【動】かす「なにか」= 【エネルギー】と言い得うるのです。

要するに【時間】とは【力】そのものと再定義して宇宙(存在)全てを再解釈することで、科学は「進歩」すると考えられます。

【時間】が無ければ【動】かない、そして【時間】は【非空間】≒【精神≒心】であることをもって【シュレディンガーの猫】を無矛盾で解決出来ることは過去記事にも記しました。

■【移動】する為のエネルギーとは

まだ「分かりません」(【時間】を「直線」解釈(所謂現在の科学的理解)した場合の「一等はじめ」について言及する事の出来る(根拠に耐えうる)理解が人知として存在していないことに由来します(ビッグバンによる宇宙膨張説も説に過ぎません。【微積分】を外して宇宙を眺めると、それについての理解は(比較に於いて)正確に近づく、にしてもです)

■【運動】はベクトル表現できません

運動法則について一定の理解を深めるためには私たち人類がもっと謙虚になる必要があるようです。

即ち、「分からない物は分からない」ことを受け入れた上で新しい【人知】を再解釈・再構築していく、という姿勢のことです。

少なくとも

【運動】の為の【エネルギー】と
【力】
この場合【移動】に係わることのあり得ない【エネルギー】とは分けて考える必要があります。

【力】には【力】と【非力】さらに【それらの差分による力】があり、そのありようが複雑だからです。

【一つの方程式で表現可能な力】については沈黙せねばならせない
のかもしれません。

或いは、

【時間】と【空間】を同一場として計算するから全ておかしくなります。宇宙はもっとめちゃくちゃです。

幾度となく繰り返しますが、【虚数】は【空間】表現不可能です。イメージすら出来ません。

なんというか【コスモス】というのはピュタゴラス派の「妄想」の中にある叶わぬ「理想郷」と理解するのが正しいような気が致します。

生命がいない世界は私たちの範疇にはあり得ません。
よね。
在るとしたら何処?

それこそ心の中だけです

まず、この思い込み、つまり現状の【宇宙像】をどかすのが容易ではないことは、理解出来ます。私だってなかなかうまくいきません。

しかし、残酷なようですが私たちが知り得ない空間に対する科学の説明が微積分によった妄想であることは間違いが無いのです。

もちろん過去もです。

勇気をもって知り得るところと、そうで無いところの仕分けが必要です。

■循環する情報(エネルギー)とは何か

だから【愛】です。【i】

それでは説明になりませんから申しますと、三態の存在形態に付随する【差分】そのものが【情報】と命名可な【力】たり得るのです。

【力】そのものはあり得ません。これは非ずの関係において明らかなのですが、非ずも命名した結果【差分】が生じると言い得ることはここまでの弊社の連作記事からご理解賜ってることと思います。と

すると【差分】は永遠に消えません。その「消えない」何かは「運動そのもの」と解釈可能であり、もしそれに名前をつけるとしたら【情報】が一番ニュートラル(色がつかない)と思うのです。

この【情報】は「場」によって

(【物質】界においては力(エネルギー)・【非物質】界(要するに【心】においては【愛】とか【心的暴力】を指示し、その【境界】に於いては私たち自身の存在するためのジュール(熱量)、というごとくに)

姿を変えるのです。怪人二十面相のごとく。

勿論【言葉】にも「変質」いたします。

【心】こそあらゆる存在の変幻自在である摩訶不思議な【宇宙】であることは、みなご承知の筈ですが、これらの「真実に存在する」ということの「意義・意味」が「存在の方程式」の登場を以ってはじめて理解出来るようになりました。

即ち実存在であれば【物質】世界のいわゆる【物理学】など「自然法則」と接続した説明が可能になるからです。

【心理学】や【精神医学】とはまったく別の角度でです。

或いは ドンファンの教えのリアルに正しかったという一面が顔をのぞかせるやもしれません。

それも【物の理屈】すなわち【物理】としてです。

この角度から神仏まじないの正しい理解がされる、というお話もこちらの note で幾度もさせて頂いておりますこともご承知かと思います。

科学から主観を省くことは【微積分】のマトリックスでしか通用しないことはも過去記事に記しました。

これからは主観を含めませんと、あららしい【宇宙像】は手に入らないこともご理解賜ったことと存じます。

■【自己】を「境界」にした不兌換の二つの【宇宙】

■【有】vs.【無】

【存在論】としては【物質】と【非物質】の世界が【自己】を境界にして「存在」するということですが、この正確な【宇宙像】から【有】と【無】の問題も無矛盾で解決を求められることになります。

【物質】の世界とは五感で感知できる世界です。わたしたちはこの世界を基準に【有】る【無】しを考えることになれています。

【無】とは何か?
【無】は【有】るのか?

【非物質】の世界は【物質】に有らざる世界です。つまり【物質】の世界には【無】い。ありません。

いい方を変えても事態は無矛盾で説明可能です。

【非物質】が【有】るのは【非物質】の世界です。
【物質】の世界からすると【非物質】は【無】です。

【物質】とは即ち【有】を指示し、【非物質】とは【無】を指示すると定義すれば、いわゆる【有】【無】の問題も解決済みであることは、過去記事に記しましたが、改めてご検証ください。

【有】は【無】の世界にはあり得ませんし、【無】も【有】の世界にはありえません。

私たち【認識主体(自己)】は【有】と【無】の世界(宇宙)の「境」におりますから「どちらも」在ることが「分かります」

【無】という【非物質】は【意識】の個に限定された【心】として「知覚」できます。これは「五感」とは別の感覚(?)によって分かります。

「おなかが痛いとき【意識(心)】は痛くない」とは池田晶子さんの名言でした。

【精神(心)】という【非物質】にモノ【物質】は有り得ませんし、
モノ【物質】の世界に【(心)】は「見えません」

■【時間】と【空間】

【時間】と【空間】という考えは一つの見方であってそれ自体実存在ではないということを忘れてはいけません。あくまで【物質】界と【非物質】界という実存在を理解・解釈するための「思考の補助線」が【時間】と奥行きのある【空間】という概念です。そうそれらはあくまでそれ自体は存在しない一つの「概念」であります。

それを踏まえた上で、申し上げます。

【時間】と【空間】が互いに【非空間】と【非時間】という非ずの関係であるということは、【空間】認識をもって【時間】を喩えることが出来ない、ということを意味しています。

【微積分】のトリックとは

時間を止めて連続すればモノの動きの図示(空間表現)が可能になり、それ即ち時間を空間表現したことと見なす

ですが、これがおかしな話であることを示したのが「アキレスと亀」というパラドクスです。

【微分積分】からの解放こそ現代文明の陥っている幻覚世界から人々を目覚めさせる唯一抜本的手段であることを、【金利】という【未来予測】や【ブラックホール】は【脳】のことであるといった話と絡めて訴えてきました。

私たちのいるこの「世界」がどのようなものか正しい理解なしに、望ましい未来が手に入らないのは自明です。

そうして【微積分】で解釈した結果を【宇宙像】とすればそれが過てることも根拠を持って理解出来ます。

即ち

【時間】と【空間】を【微積分】で繋いだ【時空間】に【人】が住んでいる

という理解は過ちで

【時間】と【空間】は【脳】の働きによって【時空間】として認識されている。

と正しく理解すれば【観測問題】も【量子のパラドクス】も解決しますし、【観測可能な宇宙】についての正確な記述も可能たらしめることになるのです。

これらのことは過去記事で詳細にご説明致しましたので、補足記事をこちらでは書きます。

■そもそも【時間】は【虚数】

ホーキング博士によって採用された宇宙の始まりは【虚数時間】という発想は【微積分】の嘘(無の無限近似値は無)を採用したまま現象のきわみまで演算した結果たどり着いた「ほんとう」でありますが、【微積分】の嘘さえ見破ってしまえば、なに、【時間】は【空間】表現不可能であるという意味に於いてそもそも【虚数】としてでしか表現できないとわかります。

わたしたちの「リアリティ」はいかんせん【物質】世界(空間概念)に引っ張られますから、【非物質】である【時間】を【空間】存在として理解して、間違った問いを立て、解決できない、と悩むのです。

つまり【時間】を「直線軸」として捉え、「始まり」と「終わり」について悩みます。【始まり】も【終わり】という【空間概念】では【時間】が捉えられないのはわかりきっています。

■【時間】そのものは存在しない

【有】と【無】のところでお話いたしましたのと同じように、【空間】に【時間】は存在し得ません。

いいえ【空間】すら【実存在】としては存在していません。

【時間】も【空間】も【計算】するのに必要なだけの仮想現実世界にしか無いモノで、これこそマトリックスであるという記事を書かせていただきました。

上の映画にも出てきます「我々は奇妙なループの中にいる」ですとか

反復記号【𝄇】ですとか

「同じ日を繰り返す」

といった「物語」が流行っているようですが、要するに【時間】という【心】を【微分】することの「例え話」でしょう。

【極限「無」】とは、【有】である存在の世界を【非有】の世界へ行くこと無く、永遠に行ったり来たりする世界のことですが【微積分】的世界を物語り表現するとまったくもって上のような物語を語るほかありません。

それともあえて【心】の世界と【現実】を混ぜこぜにした解釈をすることで、わたしたちをめくるめく幻想の世界に閉じ込めようとしている、、、なんてことはございませんよね。

それなら、だから【微分】は間違いです。と繰り返しましょう。

過去記事 アキレスと亀【スピン・オフ/リブート盛りの訳】でもふれましたが「次世代の物語」を紡ぐには【微積分】の幻覚から目覚める他はないのです。

ようするに架空の【時空間】を忘れるのです。

 尾崎は【実存の物理】を歌っていたと、その角度から聞けば、分かります。ほんとうに偉大な芸術家って、答えが「分かって」しまうんですよね。そりゃ「Mr.スミス」に追われます。

「カタチの裏側」って何?
「カタチ」のあり得るのは【空間】だけでから「非空間」という【心】です

「間違いが君を孤独な世界に」するのは「【微積分】という間違い」のせいで【君(の心)】が【宇宙】から省かれてしまったからだし、【時間】を「正確に時を刻むもの」に盗まれてしまったから「心安らぐ君のリズムはかみあいはしない」んです。

するとだから「大切なモノ(「【i】= 【心】)をどこかにわすれた気がする」んです。

本物の「アイ」はもちろん無くすはずもなく「心の中」にあるのでした。

そう。

Power と Love は of で結ぶのでは無く、

Powers Are Lovesと記したほうがより正確になるのでした。

アインシュタイン博士はもう少しで正解に届きそうだったようです。

虚数表現可能な心を愛そのものと言い換えても、語義矛盾は生じなさそうです。ベクトルの話も可笑しいと分かります。心の向きは比喩表現ならわかり得ますが、現実にベクトルでは可視化できません。

■【時間】と【空間】が実存在ではないとすれば、どう【宇宙】を理解すべきか

■【微分】のしていることを正確に

数式の上では

∞ = 0

として可視化されていますが、実存在に限りなく則すれば

∞ = i

です。

ここまで記してきましたように

実存在に於いて言語指示をするなら

【有】において【無】とは【虚】として在ると指示されるからです。

しかしながら、数式でそう示せたとして、現実にコンピュータが何かを「思いつく」(虚から有を生む)かと申せば、そうはなりません。

よろしいでしょうか。

現実の【宇宙】は計算の比喩として存在してはいないからです。

何処まで行っても「計算」は「現実世界」の「例えば」に過ぎません。

「例えば」を現実にするのが所謂【科学技術】ですが、計算は【科学】表現の一形態として存在しているだけで、例えば文学に勝るものでもないのです。

「あおいのきせき」本編をお読み頂ければ「身を以て」ご理解賜って頂ける事は間違いありません。

そう

「身をもつ」ことがロボットには(いまのところ=おそくはこの先も)できないのです。

(知っていることしか知り得ない = 未来予測とは知っていることの確率統計としか理解出来ない)学ぶロボットができないのは「内挿」以外に参考にする「なにか」を持てないから、と言い換えてもいいでしょう。

しかし、すると「規格外」という「外挿」を学ぶロボットとは試行錯誤を続けざるを得ず、そのようなロボットをあえて作る必要がどこにあるでしょうか?

それなら人を教育した方が早くて間違いはありません。

もし「規格内」の失敗をしないロボットを望むので在れば、すなわち「未知」を与えないことと同義ですから、「未来予測」を放棄したと同義で在ります。すると、やはりロボットは同一行為の反復作業以外を望むモノでは無いのです。

誠実なコンピュータエンジニア諸兄には痛いほどご理解頂けるポイントであると思われますが、そうで無いように降るまう事こそ「お為ごかし」というものです。

そう言わないと、仕事がなくなりかねませんものね。

いまの機械学習ムーブメントそのものがそう言えるでしょう。

要するににパターンマッチングだけが人の言語活動のパラグラムなわけありません。

よね。

この問題の根本は、LLMが【微積分】でしかないのと同義です。

ニューラルネットワークというシナプスを模した物だとしても、結局の所【微積分】を使っている限り「なんにもなりません」

折角人類はポストモダニズムという人知を回遊したのですから、一度サイバーパンク的にコンピュータにとっての他者について徹底した研究をしたほうが良いと思いますので、是非、投資目的の方は弊社小生までご連絡頂きたく存じます

■言葉が巡る

Aと言う。非Aと非Aとの境界が生じます。

一つは【言葉】
もう一つは【物質】
もう一つは【非物質】

おかしいですよね。言葉が生まれるとどうして【物質】や【非物質】が発生するのでしょうか。

その答えは過去記事にありますように、

【脳】こそ所謂【ブラックホール】で、あるので、

【脳】を中心にして【意識】という【非物質】へ作用すると同時に遠く星々(太陽たち)では【素粒子】などを発生させる、

と同時に

【言葉】が【心】に届く。【ト・ヘン】から届いた【言葉】が【心】にある状態を【精神】と呼ぶことに致しますと「事態」はすっきり致します。

【言葉】は言うんです。思うだけでは上の機序は働きません。

思う言葉がどこから来るかと言えば、上の機序で発生した【素粒子】が宇宙線として【脳】に届くのです。

受け入れがたいですか?

では、ここまでのロジックの何処に問題があるのか検討してみてください。

ロジックとしておかしな所は、【微積分】以上にはないでしょう?

□「あおいのきせき」の知見からの【宇宙像】を巡っての考察は、そのアイディアの多くを(おそらくは「何故か」正解をご存じであろうとしか思えない)IISIAの原田武夫先生の各分析(レポート)によるところが大きいです。

ありがとうございます。原田先生。

しかし、その回答は、どのようにして秘匿された人知となったのでしょう?

多数決を是とする民主主義は、もし、それが少数の切り捨て、と同義であるとするならば、それこそが【微分】思考の最たる物であると気づきました。

「見えない物は、存在しない」或いはごく少数であれば、無いのとおんなじである、という思想に於いて同一であります。

無論、独裁は我の他は無という思想でありますから、言うに及ばずでしょう。

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