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アキレスと亀【スピン・オフ/リブート盛りの訳】

  ◆ついに煮詰まった文化・文明!?◆

■こちらは以下の記事の続きになります

是非お読み下さいませ。

■物語類型が有限である

とすれば、
要するに、間もなく「新しい物語」は底をつきます。

■語るべき物語はなにもない@90`S

いわゆる「構造主義」の立場から『物語類型は有限であり、それら人の語ることの出来る物語は既に語られてしまった。 (新しい物語)などと言うモノはもはや幻想に過ぎず、もし(新しい)と思う(物語)に出会ったとしても、それは自身の無知に起因する錯覚に過ぎない』

と、いうのが「1990年代半ば」の「文学(論)」に於いて共有されていた「大前提」でした。

であれば、いったい(今)「物語」を語るとことにどのような意味合いがあるのだろうか?

といった批評を内包していない「小説」は評価されない、という傾向が確実にありました。

と同時に、当時、「物語をきちんと語られていた」村上春樹さんは「文壇・論壇」から「袋叩き」か「完全無視」という塩梅だったのです。

ザックリ「小説」になんであれ「物語」があると、いろいろと「難癖」をつけられたのです。

あの頃。

ご存じでしたか?
或いは、覚えていらっしゃいますか?

■語るべき物語をそれでもきちんと語る

手前味噌で大変恐縮なのですが、
であれば
であるとしても、
「語るべき物語をきちんと語る」
ことをあえて自覚して書いたのが、
「甘い幸せな生活(1996年)」でした。

「形式」と「意味」つまり「物語」と「語り様」は引き離すことの出来ない一対であることを確信していたからです。

いずれその確信は「あおいのきせき」の知見によって、否定できない「仕組み」「存在のありよう」として「数式化」されるわけです。

いずれにせよ、1996年当時、僕は、

「物語」を失うことは「人の生きる意味」を失うことと同義であり、であれば「意味のある」「物語」を是が非でも語らないとならない、と分かったのでした。

■価値・意味とは「物語」そのものである

「物語」とは「時系列的言語の総体」であり「他者」と「主体」の関係を描くことに主眼を置いたそれ自体で「価値」や「意味」をあぶり出す(非「あぶり出す」も含め)大きな「装置」です。

所謂「意識の流れ」によった小説に於いてあたかも「物語」が廃されたごとくに評されることが多いかと思われますが、もし真に「物語」がないとしたならば、「テクスト」外の「物語」(文脈)にも「読む事」を一切頼ることは無く、つまり、それは「(テクストの)外部」を無視した「テクスト」であり、そんな「小説」はもはや「言語」としての機能を持たず「見ず知らずの宇宙語で書かれた文字」としてしか「小説」として成立しないことは明白であります。(それを「小説」或いは「テクスト」として定義可能か甚だ疑問でありますが)

言うところの「物語」を「テクスト」外に上手に追いやって、「時系列的直線時間」を無視することも叶って、見事に美しい小説しとて成り立つ「世界」は後藤明生さんや、先だって亡くなられた古井由吉さんのお得意なところでありました。

つまり時間は所謂「直線」ではなく「非ユークリッド幾何学」的だったりする、という「実際(意識内体験)」から「物語」がいわゆる「起承転結」的「(時系列に配された)ストーリー」すら超えた物であり得るという見地に立ちますと、例えば「数学」ですら「(数学的規範に則った)物語」であると言い得うるのです。

そこから巻き戻して事態を解釈すれば「アナログ」を「デジタル」に変換する行為(広く言語化≒「科学」或いは「学問」)は全て「物語」である、と分かります。

身近で言いいますと、メニューは料理の「例え」です。

そういえば、この辺りのことは随分以前に「物語論」という試論として組み立てました。

■価値相対主義@80`S

バブルに沸いた1980年代「価値相対主義」や「虚無主義」が「刹那主義」「快楽主義」に至ることを「E.バーク」や「F.ハイエク」や「F.ニーチェ」などを「引用」しながら強烈に批判していたのが西部邁さんでした。

■物語の枯渇は価値相対主義と一対

「物語」が干上がれば「価値」も「意味」も干上がることは、或いは「今の世の中」を見渡して実感するところでしょう。

◆「リブート」するか「隙間を埋めるか」◆

■同じ話を語り直す

「リブート」とはそういうことです。話が尽きたなら同じ話を(話し方を変えて)語る他ないでしょう。

■アキレスと亀

「スピン・オフ」として「物語の語られていない隙間」を「語る」

もし「物語」がほんとうに枯渇してしまっていたとすれば、それだけが、私たちに残された「見知らぬ物語」を「語る道」ということに相なります。

それが或いは何かと似通っていたとしても。です。

◆それでも「新しい物語」がどこかにあるとするならば◆

■「あおいのきせき(の知見)」の先にしかありません

それが何故かにつきましては、こちらに詳細がございます。

■微分思考【現在の『半導体文化』】から脱出しないと

私たちの未来も行き止まりなのは、「スピン・オフ」「リブート」しか残されていないことと、同じ理屈です。

生きるということは、この社会で自身の物語を紡ぐ事に他なりません。

すでに幾度も語られた「凡庸な物語」を知らぬに任せて繰り返しなぞる様な生を生きるにしても限度があります。

有限である「物語」しか持てない社会とは、正に「閉鎖系の場」であり、そうであれば「社会」は「エントロピー増大の法則」に従って確実に「崩壊」へと向かって行くからです。

それを避ける為には「新しい物語」を探す「通路」を「解放」するしかありません。

言い換えますと、

「当たり前(ロゴス思考・例えば排中律とか心身二元論)」をみなおすこと、

つまり「あおいのきせき」の知見によって世界を見直すことが、未来を開いて「世界」の新たな頁を開くことなのです。

比喩的に申しますと、
このまま進めば「収束」も「発散」もせず「人類は(価値や意味の間を)振動」したまま「宇宙のほんとう」から遠く離れて、細分化された同じような物語をなぞる他はないでしょう。

なんとか上手く未来を生き延びることができたとしても、
です。

しかし「存在の方程式(「あおいのきせき」の知見)」無しの未来に待ち受けているのは、「限られた範囲の中で果てしなく細分化(微分)されただけの見せ掛けの多様性」しか持てないない「偽りに満ちて崩壊を待つだけの息苦しい社会」(まるで「今」の様な)です。

そこから抜け出す為の「未来の当たり前(「あおいのきせき」の知見)」につきましては、下のマガジンに詳しくございますので、是非。

そうして、世界はこちらへ向かうのです。

ビョーク「バチェラレット」(1997年)

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