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生きてるだけで偉いのか

お疲れさまです、きなりです🍥

小さい頃から言動が忙しなく、勉強がままならなかったわたしですが、今になって独学に励み、この1年で5つの資格を取ることができました!

そんな取り組みの中で気付いたのは、資格を取得するということは、単なる知識の獲得や合格の喜びだけではなく、自信の獲得という情緒的な面にも作用し、自己肯定感の充足にもつながったことです。そういった旨の記事を前回投稿しました。

自己肯定感を高める方法は多々ありますが、なるべくたくさんの人に、そういった営みを積極的に実行してくれたらいいのに、などと個人的に考えています。(これまで投稿してきた「資格勉強」に関する記事・マガジンの連載は、実は、そういった思いが根底にあったのです。)

では、なぜわたしがそのような思いを持っているかを、これからお話しします。これをもって、先週から始めた連載「落ち着かないわたしの集中法」を一旦区切りとします。

ここまでお付き合いくださり、ほんとうにありがとうございました🍥

SNS、動画、漫画のセリフ、知人との会話…。さまざまな場所で「生きてるだけで偉い」というフレーズを見聞きするようになりました。わたしはその度にちょっと戦慄します。

一応、言いたいことは分かってるつもりです。生きていることを全肯定する応援の意味ですよね。他者を思いやる気持ちそのものは、とても尊敬しています。

ただ、生きていることをいちいち応援・肯定したり、されたりするのは一体どういう状況なのでしょう。「生きる」のは大前提としてある上で、何かを達成したり、継続したり、克服したり、挫折したり……という出来事を経て、初めて「偉い」のでは?

しかし、実際のところ、誉められなきゃやってらんない世の中になっているんだと思います。突然現れたコロナにより強いられた不自由な生活。物価・光熱費の高騰により呻吟する日々。性別、思想、出身国の違いによる意見の食い違い。ネットの向こうにいる見ず知らずの人間に誹謗中傷を浴びせては鬱憤を晴らす人たち。いつまでも不信感の残る政治の動向。

何もかもが暗澹たる現代において、みんな今を生きることであっぷあっぷで、だからこそ偉い。「生きているだけで偉い」というのは、ある種の限界を迎えつつある日本社会の世相を表わしているのかもしれません。

同時に「死なない選択をして偉かったね」というメッセージ性が暗に示されているようにも思えます。「自死」という選択がちらちらと見え隠れするようで、やっぱりわたしはこのフレーズが怖いのです。

うがった解釈をしているのでしょうか。でも、年々増える自殺者の数を踏まえると、あながち間違いではないと考えています。

※突然ですが、ここでお断りを入れます。
わたしは、誠に勝手ながら、すべての人に生きていてほしいと祈っています。なので、ここからは生を全肯定し、自死に対してどちらかというと否定的な立場で発言を続けます。(ただし、わたしが生きることを選択しその通りに実行しているように、その反対を望む人の選択も尊重されるべきだと思っておりますので、その旨もここに書き添えておきます。)

生きる者の特権は、この体を筐体に、世界を味わえることです。おいしいものを食べること、きれいな音を聴くこと、感動的な場面に立ち会うこと。そして、未知の分野に挑戦すること。できなかったことができるようになること。自分の限界に近づくこと。何もしないでのんびりと過ごすこと。

しかし現代において、そういった生き方を選ぶのは困難です。時間の確保や、コロナ禍という世情もありますし、わたしが特に心配しているのは「余裕のない人」の存在です

最近、贅沢だとか、幻想だとか、身分不相応だとか、ずるいとかで他人の生き方を疎んで、後ろ指を指し、挙句の果てに”暴露”だ”制裁”だと謎の正義感を振りかざし、平然と他人の人生をめちゃくちゃにする輩も現れ、そういった悶着が話題として”バズる"ようになりました。

そんな「余裕のない人」の存在が増えたと感じるのはわたしだけでしょうか? 今の世の中、他人の人生を受け入れる余裕のない人がちょっとずつ増えてきたんじゃないかなと感じています。

そんな中で、唯一自分の生き方を認めてあげられる存在として、頼れるのが自分自身です。ヒトは、言わずもがな他人と支え合って生きているので、自分ひとりで生きるというのは傲慢で寂しい考え方なのかもしれません。でも結局は、自分自身を時に慰め、褒めたたえ、いたわり、ご機嫌を取り、生きることを選択するのは自分、という意味で、ヒトはひとりで生きていかないといけないのです。誰かの優しさを期待してはいけない。誰も余裕がないのだから。むしろ慰められたい立場にいるのだろうから。だからこそ自己肯定感を高める活動は、個人で進んで取り組んでいかないといけないと思います。じゃなきゃ心が病む。

わたしが資格取得を目指したのは単にスキルアップや転職の為です。そこに自己肯定感を高めるためという目的はなかったのですが、合格という結果を頂いたとき、こみ上げるものがありました。

個人的な話をすると、試験に向けた勉強期間は、ただ勉強するだけの期間じゃなかったのです。スキルアップや転職を志したそもそものきっかけは、様々な「余裕のない人」の存在がありました。小さいころから今日まで「落ち着かない」という自分に貼られたレッテルに葛藤したり、過去の大きな失敗を思い出したり、勤めていた会社で一部の同僚にわたしの成果を水泡に帰されてしまう日々の中で、そういったものを全部清算して、「できないなりにもがんばった」とせめて自分だけでも納得が行く結果が欲しかったのです。

自分のために学び続けたいという気持ち。スキルアップしたいという気持ち。そういった前向きな原動力があってこそ、先に挙げたような悲しみも怒りも悔しさも押しのけて頑張ることができました。……いや、まだ完全に振り切れてはいないのかもしれません。気を緩めたら、またネガティブな感情が自分のそばに忍び寄ってきます。だから絶えず向上心を燃やしつづけないといけない。これから襲い掛かってくるかもしれない負の出来事にも立ち向かわないといけない。「自己肯定感」はその為の盾になる。

だから、資格を取得するという目的は果たし終えても、わたしの勉強はこれからも続きます。この熱意の火種として、資格取得という経験が役に立ちました。

同じように生きることに苦しみを感じている方にも、ぜひ”自衛”としての自己肯定感を獲得していただきたいです。個人的には、着手する手軽さと仕事や生活につながる「資格取得」を推しますが、自分がやってて前向きな気持ちになる方法なら何でもいいと思います。生き方なんて人の数だけあるのですから。

以上が、わたしが資格勉強の中で得たもの、かつ、このnoteを読んでいるあなたに届いてほしい個人的な願いなのでした。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました!
これにて「落ち着かないわたしの集中法」の連載は終わります!2週間ちょっとの連載でしたが、お付き合いくださりありがとうございました♪

明日以降はちょっとした日記や、その日考えたことを気まぐれにつらつらと更新していこうと思います🍥 まだまだ引き続きお付き合いいただけますと嬉しいです!

ではまたあした!
共に現世をたくましく生き抜きましょう💪

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