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官能性と自己表現

なんで「官能」で画像検索すると女の人しか出てこないんだろう。他にもモノとかあってもよさそうなのに。

自分はたぶん理性的な人間だと思うのですが、最近思うとことあり。
ファクトベースで物事をみて、問題が起こっているところに理性的な対処をしてきたそんな20年くらい。それはそれで仕方なかったと思うし、それこそ感情的に対応していたら身が、精神が持たなかったと思うから、社会に対する怒り、という感情は時々使いつつも、状況に、現実に感性をあまりのめり込ませずに過ごしてきたことで、どうにかやってきたと思う。
ただ、その間理性的であったことが、もしかしたら常に問題解決の役割を与えられるはめになったせいもあるのかも、と最近思う。
健康も生活も、職歴も、いろんなもの犠牲といえば犠牲にしてきて、おこった回りの出来事(外国人配偶者との生活、親の介護、こどもの不登校など)「解決」はしてきた。
ただそれで幸せだったかといえば、それで相手にとっても正解だったかといえば、そうでもない気がするのです。20年も「解決」に使ったにもかかわらず。
解決せずとも、そのまま解決しないまま、それぞれが問題を持ったまま、感情を優先して「幸せ」を優先した20年でもよかったんじゃないか、と最近は感じていて、このいまの虚無感の根本を考えていて、こちらを読んで感じたのは、理性って結局世界を壊すんじゃないか、ってこと。

世界というか、自然というか、あるべき姿というか。本来なにもしなくても行きつける結果をわざわざ壊すことに理性って行きつくんじゃないかってちょうど思っていたところ。

で、なんで官能とかいうタイトルになるのって話しだが。

ずっと理性を優先しないとならない環境に置かれて生活してきて、そして「経験値」以外なにか残っただろうか、って燃え尽きたあとのいま、なんだか胃腸は元気なのに喉が気持ち悪くてえずく、というのにちょっと前から悩まされていて、スピリチュアル傾倒でもないけれども、内科とか漢方とかいろいろで原因ない、って言われるとそっち調べるしかないなと。

こういうのを調べる前に、人に対して距離を置きたいなと思うことが増え、純度の高い人としか関わりたくない(善悪、ではなく例えば悪いことしてても純粋なひととかも含む)感覚が強くなっていて、うわべの関わりに(ずっと生活のためにしてきてはいることだが)限界が来て、関係を続けたり会話をすることが「いやだ」とストレスを感じるようになっていて。
きっと純度の高いものしか入れたくない、という感覚が研ぎ澄まされてしまっている感じ(過度に)。その延長線上で、「気持ち悪い」「吐き気」の喉の気持ち悪さがあるのではないかなーとちょっと体感的に思っていたら、ここ「純粋」とかいう意味があるらしく。
もう本音とかしか吐きたくないし、本音で関われる人としか関わりたくないんだよ。社会とはそういうものだから、、の我慢はもう20年してきたからいいかなって思ったら体が先に反応している感じ。

で、ここは自己表現、とも関係があるらしい。
理性が優先されている時期って、おしゃれとか楽しみとかどうでもいいんだよ、益がないから、物事の解決には結びつかないから。
でも、やっとその辺内に溜まっているなにかを外に出したくなっている。それが自己表現というのであれば、これからのライフスタイルを考えていたときに、普通に会社員として働くのもありか、と思いつつあったなかで。「それは自分の性質的に無理です」と言われたような感じだ。
自己表現をこれ以上、抑え込まれたくない、壊れてしまう、という感覚があるから、きっと「普通の社会」で生きていく方法は選ばないほういいとからだが教えてくれているんだと思う。
スピリチュアルには傾倒しないが、からだの声、って信頼を置いているので、理性で、言語化で自分が認識する前に「いや、とかすき」を感じ取っていると思うので。
仕事にしても、生き方にしても、その作り出すものが自己表現と直結しているなら(チャクラの知識から言うと)もう言いたいこと言いたいし、やりたいことやりたい。着たいもの着たいし、かといってTPOを破りたいほどとがりたいわけでもない。
ただ、「自分」をそこかしこで、生活のなかで、もう出してもいいんじゃないか、って思ってる。それって、今までのすべてがむだだったのかといえば、それを越えての「今の自分」であるし、むだならムダで、それもまたよし。
その自分の自己表現が、見て見て!!の他者を意識したアピールではなく、内側のなにか抑え込んでいたものを出したい、という上でのものって、きっとある種の官能性だと思うのだ。
承認欲求ではなく、そのひと自身の内側がファッションや仕事や生き方ににじみ出る。外国人と結婚して(離婚したけど)生活して感じたことは、ここが日本人は他者や場を意識することが多いけど(ファッションや仕事など)外国人って「自分」を主にする。それって最初は、協調性がないのかとおもっていたけれど、日本人にセクシーな人が少なくて、外国人に多いのはここなんじゃないかと最近は思う。
そういった官能性をもつ人には男女問わず(性愛に関わらず)魅かれるものだと思うし、それに似た承認欲求による自己表現はある意味、見て見て!という点で露出狂と変わりない部分もあるんでは?と感じてる。
承認欲求による自己表現のSNSや行動や事業が鼻につく、目につくのはこういうところかもしれない。

ってことはさ、LGBT問題も、トイレとか生物学的に分ける必要のあるところは別として、自己表現(アート的な意味だけじゃなくて毎日の生活という点も含む)がジェンダーに縛られずできるかどうか、が問題な気がする。
ジェンダー以外に縛られて、それができない環境もあり、それもまた生きる事に苦しいから。

なんていうか、「自分として」普通の生活をすること=自己表現、であって気取ったアートとか、若作りしたファッション(好きならいいのだけど)が自己表現ではないんだなと、一連のチャクラ情報から思った、という話しでした。

理性をもう解放して、感性的に過ごしていこうと思う(そしたら喉も治るだろーか、という実験でもある)。

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