東ナチス日本は、天皇家と米英外資に日本人がホロコーストされてます。

 より

上記文抜粋
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カナダのナチ祝賀がウイルスに感染..ほか1タイトル⚡️ラリー・ジョンソン

ラリー・ジョンソン

Canada's Nazi Celebration Goes Viral - A Son of the New American Revolution

ラリー・ジョンソン著:25/09/2023

死んだ馬を叩くとはよく言ったものだ。それはカナダには当てはまらない。ジャック・アスであって馬ではない。皆さん、どんどん叩いてください。ヨム・キプールの前夜に、ナチスの老人を国会でもてなすことを誰が勧めたのか知りたいものだ。自業自得としか言いようがない。カナダは自分の足を自分で撃ったのではない。こめかみに銃を突きつけ、引き金を引いたのだ。ブーン! ヘッドショット。通常は致命傷になる。しかし、弾丸が架空の頭蓋を撃ち抜いた後、壁に比喩的な脳はなかった。なぜなら、カナダの国会議長は、かかしと同様、脳がないらしいからだ。

誰がこの写真をフォトショップで加工したのか知らないが、笑える。黒塗りのアル・ジョルソン(ちなみに、彼はアメリカに移住する前はユダヤ系リトアニア人だった)を思い出させる。しかし、これはトルドー首相が責任転嫁しているのだ。トルドー首相に忠告しておくが、カナダのユダヤ人は恥ずかしがっているのではなく、ナチス親衛隊に所属することを選んだ老ナチスに拍手を送るカナダの国会議員を見て、恐怖と緊張を感じているのだ。少なくとも、彼はSS-Totenkopfverbändeの一員ではなかった。


ウラジーミル・プーチンと彼の国家安全保障チームは、トルドーと彼の愚かな議会がソーシャルメディア上で受けている打撃にほくそ笑んでいるに違いない。なぜなら、ウクライナでナチスのシンパ集団と戦っているというロシアの長年の主張を裏付けるものだからだ。

裁判官と私は、今日の会話でその話に加わった。


私はまた、RealTruthTalkでフアンとビリー・ボブ(そう、彼の名前だ)と幅広い議論をした:


ゼレンスキーはトルドーに老ナチスを斡旋したのか?

Did Zelensky Scam Trudeau With An Elderly Nazi? - A Son of the New American Revolution

ラリー・ジョンソン著:26/09/2023

98歳の元ナチス親衛隊師団員ヤロスラフ・フンカは、金曜日にカナダ議会に出席した際に広報用の爆弾を爆発させた。信じられない。しかし、これは単にカナダがナチスの殺人者を祝福しているという話ではない。本当のところは、ウクライナのゼレンスキー大統領がこの実現に直接的な役割を果たしたということだろう。なぜか?ウクライナは月曜日、フンカの年老いたマグカップが大きく描かれ、"Heroes Don't Die(英雄は死なず)"というタイトルが添えられた切手を発行したと報じられたからだ。少し考えてみよう。なぜユダヤ人であるゼレンスキーは、彼がカナダに現れる前に、ヴァッフェンSSの退役隊員を "英雄 "として祝う切手の事前製作を命じたのか?これは事前に計画されていたことだ。ゼレンスキーと彼のチームは、これがPRの勝利になると純粋に考えていたのだろう。少年よ!カナダは高齢のSS隊員を歓迎し、ウクライナに軍事援助を送るよう支持を集める代わりに、国内は騒然となり、厳しい質問をし始めている。

もし上の写真の切手が本物なら、これで勝負は明らかだ。ゼレンスキー側の誰かがジャスティン・トルドーと彼のアドバイザーにフンカを議会に招待するよう頼んだ。カナダ側の誰かが、"この男は誰で、なぜ我々が気にかけなければならないのか?"と尋ねなければならなかった。騙されやすく無知なトルドーは、フンカは第二次世界大戦でロシア人と戦ったウクライナの戦士だという、簡単に反証可能な主張を受け入れた。トルドーたちは本当にこんなバカなのだろうか?もし第二次世界大戦で "ロシア人 "と戦ったのなら、あなたはナチスの仲間だ。ナチスの宣伝者の孫娘であるクリスティア・フリーランドが、この件に手を染めていたと知っても驚かない。

次の画像は、この広報の大失敗の真相を捉えている。カナダ議会での元SS兵士の乱暴な歓迎は、ウラジーミル・プーチンがずっと言ってきたことを裏付けた。

ロシアの外交的立場を強化するだけでなく、フンカの登場はウクライナとポーランドの関係をさらに問題化させた。ポーランドは、フンカがゼレンスキーとともにオタワに現れる前に、すでにウクライナからの穀物輸入を停止し、国境を越えて武器を引き渡さないと発表していた。このニュースが流れると、ポーランド政府の閣僚は戦争犯罪の容疑でフンカの身柄引き渡しを求めると発表した。これはポーランドとカナダの間でも問題になりそうだ。

ウクライナに対するポーランドのさらなる怒りの表れとして、ポーランドは昨年2022年11月15日にポーランド領内に着弾したS-300ミサイル(2人が死亡)の調査が終了し、ロシアではなくウクライナが犯人だと発表した。これらを総合すると、ポーランドとウクライナの間に広がる溝がすぐには癒えないことは明らかだ。ポーランドは、ロシアを打ち負かすためにNATOが目指す国のウォーキングポイントであり続けたいのかどうか、考え直す可能性さえある。いずれわかることだ。

カナダはどうだろう?世界のほとんどのまともな国々は、政治的不正行為の最悪のケースのひとつにほくそ笑んでいる。トルドー首相と国会議員たちは、以下のミームに見られるように、無知な偽善者であることを露呈した。

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抜粋終わり

世界は、改めて

「ナチスとは、西欧のセレブとアメリカの財閥と、ヒトラーの共同制作の作品だった」

と知るだろう。

それに「天皇家」が絡んでいるのも間違いない。

ウルズラ・フォン・デア・ライエンのナチス家系」

<記事原文 寺島メソッド翻訳グループ>
Ursula von der Leyen’s Nazi Pedigree
筆者:エヴァン・ライフ (Evan Reif)
出典:INTERNATIONALIST 360°  2023年2月19日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>  2023年9月28日

彼女の父であるエルンスト・アルブレヒトは、1978年から1990年までドイツのニーダーザクセン州の大統領を務め、その間、社会復帰していないナチスを政府に登用し、左派の赤軍派の信頼性を傷つけるために作られた黒旗テロ作戦を実行した。
ロシアとウクライナの戦争の結果、「ヨーロッパの価値観」などの用語が再び主流に浮上してきた。この中で最もその責任を負った人物の一人が、現在メディアにほぼ至る所に登場する欧州委員会の委員長であるウルズラ・フォン・デア・ライエンだ。


 ウルズラによれば、「ヨーロッパの価値観」は、人類の最も高い属性を表しており、自由や、正義、連帯感、そして法の支配など象徴している。

 もちろん、歴史をちょっとでも齧ったことのある人であれば誰でも、これらは婉曲表現以外の何物でもないと言える。つい最近まで、「ヨーロッパの価値観」という言葉は非常に異なるものを意味していた。これらの価値観は、ヨーロッパ人と彼らが征服した者の両方の血の海で、世界の境界を表している。ウルズラのヨーロッパ貴族家族の歴史を見ると、これらの「ヨーロッパの価値観」の真の姿と、支配階級がそれらを世界に押し付けることからどれだけ利益を得たかがわかる。


父の罪

「もし私たちが優れた能力を持つ人々を統治に持って来ることに成功すれば、一党独裁または少数派の支配は、民衆の支配よりも良い秩序を創り出すことができるだろう」 - エルンスト・アルブレヒト

 ウルズラ・フォン・デア・ライエンは、2つの貴族的なドイツの家族の出身。彼女はウルズラ・アルブレヒトとして生まれ、著名なヨーロッパの官僚であり、CDU党(キリスト教民主同盟)の指導者であり、ニーダーザクセン州の元知事であるエルンスト・アルブレヒトの娘だ。この家族はエルンストがほとんどの人生をEUおよびさまざまな前身の組織で働いていたため、国際的なイメージを慎重に育てた。ウルズラは父親から「Röschen(英語でRosieロージー)」という愛称で呼ばれ、幸せな家族の姿は父親の政治広告でよく取り上げられた。


 アルブレヒト家は、神聖ローマ帝国の税関監督官としての地位を利用して、19世紀のブレーメンの綿市場を支配した。そこを出発点にして、アルブレヒトという名前はドイツの歴史全体において確固たる存在となった。

 アルブレヒト家の歴史は、ブルジョアドイツ人の典型なのだが、1936年から1945年までの間に謎の溝が存在している。彼らの権力や富がどこから来て、それを得るために何をしたのかという不快な質問を避けるために、アルブレヒト家は多くの他の家と同様に、ナチス政権が存在しなかったかのように振る舞うことを甘んじて受け入れている。私たちは永遠に答えを得ることはないだろうから、もしこの空白を取り巻くものに光を当てることができれば、それが投げかける影が、ウルズラの大のお気に入り「ヨーロッパの価値観」の真の姿を示してくれるかもしれない。

 まず、エルンストが政界で最初に就いた仕事は、同じ貴族であるハンス・フォン・デア・グローベンの指揮下にあった欧州石炭鉄鋼委員会であった。

 この時点で、ハンスは既に長い官僚経歴を持っていた。戦争中、彼はリヒャルト・ヴァルター・ダレ(Richard Walther Darré)の指揮下で国家農業省の副官として働いた。ダレは狂信的なナチ党員で、1926年に最初のファシスト宣伝文を執筆し、1930年にナチ党に加入した。

 彼はすぐにSS(親衛隊)に参加し、その忠誠心と献身心のために、ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)によって一本釣りされた。ヒムラーは親衛隊長ダレをSSの人種と移住本部長、そして後に国家農業省の長に任命した。ダレは党の主要な理論家の1人であり、農業と人種の事務所の任務を組み合わせて、「東部総合計画」(Generalplan Ost)の基盤を築いた。これは、スラブ系民族全体を絶滅させて東ヨーロッパを植民地化するナチの計画だった。

 ダレはナチスの「血と土地」農業政策の設計者で、新興の土地所有「アーリア人」貴族を創り出そうとした。彼は農地を相続するために「アーリア人証明書」を義務付ける法律を制定し、特にレーベンスボーン*計画という、ナチスによる優生学の執行計画において、新たな「アーリア人」超人の世代を育て、ドイツの「望ましくない血統」を浄化することを目指した。
*ナチ親衛隊がドイツ民族の人口増加と「純血性」の確保を目的として設立した女性福祉施設。一般的に「生命の泉」または「生命の泉協会」と翻訳されることが多い。ユダヤ人絶滅のための強制収容所と対照をなす、アーリア人増殖のための施設である。(ウィキペディア)


 ダレの最も有望な信奉者の一人は、ヨーゼフ・メンゲレという名前の医師であり、メンゲレはその部門内で「人種的健康」政策を担当した。メンゲレは後に、アウシュヴィッツ強制収容所での産業規模の医学実験によって、史上最も卑劣な罪を犯す悪名高い「死の天使」となった。メンゲレはその犠牲者として特に子供たちを狙い、数か月間彼らを生かしておいたのは、できるだけ多くのデータを収集するためだった。メンゲレは自分がどこから来たのかを決して忘れなかった。彼は常に「人種的衛生」という考え方について、ダレをその着想の源として引用していたのだ。

 戦後、メンゲレは、「ネズミの道」を利用して、アルゼンチンに逃れ、後にブラジルに逃亡した。その「道」はナチスの戦争犯罪を認めなかったラインハルト・ゲーレン(Reinhard Gehlen)―CIA工作員であり、後の西ドイツ情報機関の長にもなった―によって運営されたものだった。彼はCIA長官アレン・ダレス(Allen Dulles)の個人命令のもとに保護され、ダレスはメンゲレをソ連に対する彼の戦争における有用な同盟者と見なしていた。メンゲレは1976年に自由な身で亡くなり、ブラジルのサンパウロにWolfgang Gerhardという名前で埋葬された。

 ダレは自分の仕事を誇りに思っていた。彼はさまざまな出版物で自分の計画を数千ページにわたり詳細に記述し、ナチス・ドイツ内で彼の考えを宣伝する演説を定期的に行なった。

「電撃戦によって……秋が来る前に……我々は二つの大陸の絶対的な支配者となるだろう……新たなドイツの支配者の貴族階級が創造されるだろう……[その]奴隷が割り当てられ、これらの奴隷は彼らの所有物であり、土地を持たず、非ドイツ国籍者から構成される……実際には、中世の奴隷制の現代版を考えており、我々はそれを導入しなければならないし、私たちの大きな使命を達成するためにそれが急務であると確信している。これらの奴隷には、無知の恩恵のみが与えられる。将来、高等教育はヨーロッパのドイツ人のみが保有することになるだろう・・・」  リヒャルト・ダレ


 ハンス・フォン・デア・グローベンと共に、彼らは「飢餓計画」として知られるものを実施し、征服した領土の犠牲にしてライヒ(ドイツ帝国)を養うことを計画した。何百万人もの奴隷が飢餓の食糧割り当てで働き、文字どおり自分たちを抑圧するナチ機械を支えるために、どんな食糧もドイツ帝国に送ることを強制された。1944年までに、1,500万トン以上の食糧がソビエト連邦から徴発され、これにより1,000万人以上が意図的に飢え死にさせられた。ダレの計画によれば、スラブの「下等人間」は皆、不妊手術を受け、餓死させられた後、ダレの唱える新しい「アーリア人」の貴族階級に取って代わられ、この土地をドイツ帝国の便益のために利用されることになっていた。

 戦後、ダレはニュルンベルクで戦争犯罪の罪で逮捕され、裁判にかけられた。彼は有罪判決を受けたが、彼の犯罪の範囲と規模にもかかわらず、わずか7年の刑を言い渡された。彼はそのうちの3年間しか服役せず、1950年に釈放された。彼は1953年に肝臓癌で亡くなった。この判決は驚くほど寛大だったが、これが最悪ではなかった。ハンス(・フォン・デア・グローベン)は法廷の中に足を踏み入れることは一度もなかったのだ。

 こんなことは、戦後、特別なことでも何でもなかった。アメリカの外交政策を担当したアレン・ダレスなどの「自由主義国際主義者」たちにとって、ナチス政権の犯罪などどうでもよかった。実際、ダレスは1940年代初めからナチス・ドイツとの同盟を主張し、1944年にはナチスの情報機関と会談し、ソビエト連邦に対抗する武器としてナチスを利用するために分離した平和取り決め交渉を行なっていた。

 彼らは、最も極悪なナチスに対する裁判のみを求め、それでもなるべく軽い刑罰で済ませた。ナチス体制の一般党員や、ナチ機械を実際に稼働させ、大陸全体を支配し、抹殺する殺人的な仕事をした数多くの人々は、ほとんど罰せられないままだった。

 ハンス・フォン・デア・グローベンのような人々の場合、彼らは新しい「非ナチ化」された西ドイツ政府の職を得た。見かけは新ドイツとなったが、名前が変わっただけだった。同じ官僚たちは、どんな手段を使ってでも、ソビエト連邦とその人々の破壊を目指して働いていた。かつて大ゲルマン帝国と呼ばれていた国家機構は、今や北大西洋条約機構(NATO)と呼ばれる新しい構造に単純に吸収されたのだ。

 副職に就いたエルンスト・アルブレヒトは、1940年代に彼の上司が担当していた役割を引き継ぎ、今回は「血と土地」が「ヨーロッパの価値観」に変わった。

 エルンスト・アルブレヒトは自身がナチ党員になるためには年齢が数年足らなかったが、長い政治経歴を通じて、彼は自分が何に共感しているかを一点の曇りもなく明らかにした。エルンストは一般の人々に軽蔑の念を抱き、彼が「洞察力を欠いた」大衆の支配ではなく、ドイツにおいてエリート支配を実現しようとした。彼はどんな時でも第三帝国とその殺人者を称賛していたことから、エルンストがどのような人々をエリートと考えていたのかはまったくもって明確だ。

「人民の支配、特に直接の支配というのは、洞察力のある[エリート]の洞察によって決定されるのではなく、国民の過半数に基づく凡庸な平均レベルによって決まるものであると本質的に言える」。 エルンスト・アルブレヒト 『国家、アイデア、現実:政治哲学の概要』

 ドイツの二大政党の一つであるキリスト教民主同盟(CDU)の指導者として、ドイツのニーダーザクセン州政府の指導者としての任期中、エルンストは新ナチス党であるドイツ帝国党Deutsche Reichspartei(DRP)の党員をCDUの上層部に、まんまと引き入れた。DRPはエソテリック・ヒトラー主義として知られるものを実践した。これはヒトラーがヒンドゥー教の神ヴィシュヌの文字どおりの転生であり、ナチズムの「アーリア人」は古代インドに住んでいた同じアーリア人であると主張する奇怪な新ナチズムの一種だ。

 この思想は、フランス生まれのナチススパイで、1951年にナチスの宣伝を繰り返し広めたためにドイツから追放されたサヴィトリ・デヴィ(Savitri Devi)によって創出された。デヴィの最も親しい友人であるナチスのパイロットであり、南米のファシストの武器商人として活動し、ドイツ政府をナチスの独裁政権に変えるために積極的に陰謀を巡らせていたハンス‐ウルリッヒ・ルーデル(Hans-Ulrich Rudel)を介してサヴィトリ・デヴィはDRPに参加した。

 ルーデルとデヴィは、新しい帝国を築くことに成功した場合、ヒトラーは再びヒンドゥー教の神カルキ(Kalki)として転生し、すべての劣等人種を浄化し、アーリア人を「ハイパーボレア(Hyperborea)」という楽園に導くと信じていた。しかし、このため、アルブレヒトのCDUはDRPをほぼ完全に吸収した。なぜなら、DRPがそのままであれば、彼らの選挙支持基盤を浸食する可能性があると懸念していたからだ。ナチスにおもねる戦略はうまく機能し、アルブレヒトのCDUは1976年から1990年までこの地域を連続して統治した。

 エルンスト権力を握ったとき、彼が統治を任せたエリートの一人は、名前をハンス・プフォーゲルという法学者の司法大臣だった。彼は再び、狂信的なナチス党員を一本釣りしたのだ。プフォーゲルは1934年にナチ党の準軍事組織であるシュトゥルムアバイティルング(Sturmabteilung)(SA)に加入し、1937年までにはドイツ国内のナチ党(NSDAP)の地域指導者となった。プフォーゲルは弁護士としての技術を活かして、ナチスの人種的敵対者の殲滅を正当化するのに協力した。彼の博士論文は、ナチスの「人種問題」を解決する方法として、すべての劣等人種の集団安楽死と不妊手術を認める内容だった。

 1978年に彼(のナチス経歴)が暴露された際、プフォーゲルは自身が「スチールヘルメット」という小さな右翼団体に所属し、その団体はナチ党に吸収されたと主張。自分はナチスの過去を持っていないと嘘をついた。2012年にニーダーザクセン州議会が公開した文書は、彼の言葉が嘘であることを証明した。プフォーゲルは自身の博士論文の内容から距離を置こうともまったくしないで、誰もが知っている限り、彼は熱心なナチス党員として墓に葬られた。一方、エルンスト・アルブレヒトはこれに触れることは一切なかった。第三帝国が存在しなかったかのように振る舞う戦略は、アルブレヒト自身が実質的な影響を何も被らなかったことで、再び上手く行った。

「個人の社会における価値は、その人の人種的な個性によって測られる。社会において存在の権利を持つのは、人種的に価値のある人物だけだ。その人が劣っているために社会に無用であり、あるいは有害である場合、その人は抹消されるべきだ」。 ハンス・プフォーゲル


 エルンストは単にナチスのために働いたり、彼の内閣をナチスで埋め、そしてナチスを彼の党に招き入れただけではない。彼はまた多くの時間をかけ、ナチス支持者を取り込んでいた。エルンストと彼の副大臣たちは、ニーダーザクセン州全域で行われるナチスの退役軍人のイベントに頻繁に出席した。

 アルブレヒトの次官であり、親友であり、ナチスの役人だったウィルフリード・ハッセルマンは、1978年に開催されたナイトクロス協会の晩餐会で基調講演を行ない、ヒトラーの帝国で最も悪質な殺人者たちを勇敢で名誉ある人々として称賛した。そして彼らの勇気は将来の世代にとって「ヨーロッパの価値観」に感銘を与えるものになるだろうと述べた。

 アルブレヒトとプフォーゲルは、セレ・ホール事件として知られる爆弾攻撃にも関与していた。1978年7月25日に、ドイツのセレの刑務所の壁に爆弾がさく裂した。爆弾は望んだ効果が得られず、刑務所に入ろうとした12人の集団は逃げざるを得なかった。犯人たちは逃亡したが、ゴムボートや、逃走用具、ワルサー拳銃、偽造パスポートなどが詰まった1台のメルセデス(車)が見つかり、その中には収監中の左翼過激派シグルド・デブースの写真のついた偽造パスポートもあった。後から、事件全体が赤軍派(RAF)の失敗した脱走計画のように見せかけようとデブースの牢獄に工具が仕掛けられたのだ。

 アルブレヒトは、その攻撃を成功した作戦として賞賛し、それが強盗と殺人を阻止したと主張した(これについての証拠は一切示さずに)。そして、この出来事はデブースや他の収監中のRAFメンバーの待遇を悪化させる正当な理由として使用された。RAFはハンガーストライキで対応し、結局、1981年、それがデブースの死につながった。

 しかし、この話の結末はまったく納得がゆかないものだった。RAFのメンバーは無実を主張し、弁護士や一般市民からの圧力が高まり、最終的に1986年に議会調査が行われ、脱走未遂も強盗も殺人もなかったこと、そしてこの一連の出来事がドイツ連邦警察とニーダーザクセン州警察によって計画され、エルンスト・アルブレヒトの承認を得た偽旗作戦であることが明らかになった。あろうことか、ニーダーザクセン州の警官が爆弾をさく裂させている。しかし、それにもかかわらず、アルブレヒトやその政府には何も起こらなかった。この厄介な出来事はあっと言う間に隠蔽され、デブースの死はアルブレヒト家の利益のために餓死した多くの人々の長いリストの中の1つに過ぎないものとなった。

 エルンスト・アルブレヒトが自国に対してこのテロ攻撃を実行した理由は未だ明確ではない;が、彼がナチスへの共感を示していたことへの報復として、RAF(赤軍派)が彼の愛娘ウルズラを誘拐しようとしているという根強い噂と関連があるかもしれない。ウルズラがロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに入学する際、彼女は自分の正体を隠すために「ローズ・ラドソン」という仮名を使った。その名前は無作為に選ばれたのではない。それは、むしろアルブレヒト家の「ヨーロッパの価値観」が世界に押し付けられた別の時代へつながる。


ディクシー・ローズ(アメリカ南部のバラ)

 「数年にわたり、黒人の宗教的および道徳的な指導は私にとって非常に興味深いテーマとなっており、私たちの彼らへの尽力(まだまだ多くのことが残っているが)が海外で誤解されているばかりでなく、正しく評価されていないと確信している。黒人を向上させることは、多くの人々(彼らを教育した経験がない人々)が認識している以上にはるかに骨の折れる課題だ。彼らは生来鈍感で、知力が低いのだが、一般的には優れた記憶力を持っている。そして、この慈善的な作業に従事してきた人々は、自分たちが頑張って与えようとした指示が、覚えてはくれるのだが、曲解され、あらぬ方向に向かってしまうことを嘆かざるを得なくなるのだ」。-ジェイムズ・H・ラドソン*( James H. Ladson), 『黒人への宗教的指導』
*1795年–1868年。サウスカロライナ州チャールストン出身のアメリカの農園主および実業家。彼はジェームズ・H・ラドソン&カンパニー(James H. Ladson & Co.)の所有者で、この主要なチャールストンの企業は米や綿の取引に従事し、200人以上の奴隷を所有していた。(ウィキペディア)

 ウルズラは、彼女の名前をサウスカロライナ州のラドソン家という彼女の家系の別の枝から選んだ。ラドソン家は奴隷商人、農園主、および分離主義者の家族だった。ラドソン家はアルブレヒトやフォン・デア・ライエンのような貴族の称号を持ってはいないものの、ヨーロッパの貴族階級と同様の特徴を備えていた。アルブレヒトの綿のビジネスは、アルブレヒト家をラドソン家と密接に接触させ、その関係は成長し、1902年にメアリー・ラドソン=ロバートソンがカール・アルブレヒトと結婚し、血縁によって2つの家族が結ばれた。

 アルブレヒト家の植民地とのつながりは、彼らがナチスと何の違和感も持たないことの説明になるかもしれない。ナチスとアメリカ奴隷制度の明白な類似点:①人種全体を奴隷化して経済的に搾取する、②大陸の植民地化、③人種の階層性、そして④産業規模での大量殺人。こういった類似点がある他、ナチスはアメリカの植民地制度を熱烈に賞賛していた。ナチスの人種制度は、具体的にアメリカ南部の人種制度が模範にすらなっていた。

 ラドソン家は、17世紀半ばにイングランドから移住してバルバドスで悪名高い道を歩み始めた。1679年、ジョン・ラドソンは新しいカロライナ植民地の最初の入植者の一人となり、チャールストンの外側にプランテーションを購入した。チャールストン市はそれ以来プランテーションを囲むように発展した。当時、バルバドスは奴隷貿易の主要な中継地であり、ここでラドソン家は初めて血と金(かね)のうま味を味わった。

 バルバドスは最初のイギリス植民地奴隷社会だった。この美しいカリブの島は、1630年からイギリスの支配下に入り、その天然資源を容赦なく搾取された。以前のスペインによる頻繁な奴隷襲撃、疫病、および集団虐殺政策により、先住民のアラワク族は絶滅し、島は奴隷が移り住むのに最適な場所になっていた。その温暖な気候と肥沃な土壌は、タバコとサトウキビを栽培するのにぴったりで、それらは後に蒸留してラム酒にされ、世界中で販売された。

 1636年までに、アフリカから島に連れてこられたすべてのアフリカ人とその子孫が、解放の手段がない永遠の動産とされる法律が実施された。1661年には奴隷法が強化され、すべての奴隷が不動産とみなされ、所有者の利益を生み出す唯一の目的のために生かされる存在とされた。奴隷は、第一に財産として考えられた。第二に人間として考えられたが、第一(財産)との間には千里の径庭があった。これらの規則は、奴隷の生命や尊厳を保護するためではなく、彼らを財産としての価値を守るために存在した。

 1630年から1807年までの期間に、約38万人のアフリカ人が自分の家から誘拐され、鎖に繋がれ、バルバドスに送られ、死ぬまで働かされた。そのうち数千人はラドソン家によって西半球中のプランテーションに売却され、その死と苦しみがラドソン家をとてつもなく裕福にした。

 バルバドスの奴隷たちは、ラドソン家のような奴隷所有者の手によって想像を絶する残忍な扱いを受けた。1705年から1735年までの間に、バルバドスに輸入された奴隷の数、そしてそこで生まれた奴隷を合わせて、おおよそ85,000人だった。しかし、島内の極端な死亡率のため、総人口はわずか4,000人しか増えなかった。

 奴隷の反乱や、キリスト教を受け入れないこと、または奴隷からの反抗行為は、他の奴隷たちに対する見せしめとして、有無を言わさぬ最大限の暴力で鎮圧された。この拷問と殺戮はあまりに普通のことだったので、ほとんどの場合は記録に残されなかった。しかし、残忍さについての直接証言の事例もある。その1つは、1654年のフランスの神父で伝道者であるアントワーヌ・ビエ神父の日記だ。

「彼らは自分の黒人奴隷に対して非常に厳しい仕打ちをする。日曜日にプランテーションの境界を越える者がいれば、棍棒で50回打たれる。これらの打撲傷はしばしば彼らをひどく傷つける。もし彼らが他の何らかのやや深刻な違反を犯すなら、際限なく打たれ、時には全身に火を当てられることもあり、それによって彼らは絶望の叫び声を上げる。私は、可哀想な黒人女性(おそらく35歳から40歳くらい)を見た。彼女の体は傷だらけで、それは彼女の主人が彼女に火を当てたことによるものだと彼女が言っていた。身の毛もよだつ話だった。これらのかわいそうな不幸な者たちは、与えられる食事が非常にひどかったので、時折、夜間に数人が脱走し、近隣の農園から豚などを盗みに行く。しかし、もし見つかってしまったら、許されることは絶対ない。ある日、私はアイルランド人を訪ねた。彼は豚を盗んだ哀れな黒人の一人を牢屋に入れていた。毎日、両手を鉄の枷で縛られたまま、監督は彼が血だらけになるまで他の黒人たちに鞭打たせた。監督は7、8日間このように扱った後、片方の耳を切り落とし、焼いてそれを本人に食べさせた」。

 それにもかかわらず、奴隷たちは抵抗した。抵抗行為は、個人的な場所で母国語を話すことから、労働中止、破壊行為、そして組織的な反乱に至るまでさまざまだった。残念ながら、イギリス当局は大規模で武装した警察力を維持し、バルバドスの森林はすべてサトウキビ畑のために伐採されていたため、反乱した奴隷たちはどこにも隠れ場所がなかった。反乱は常に鎮圧され、バルバドスの奴隷たちが解放されたのは1834年になってからのことだった。最初に「ヨーロッパの価値観」と接触してからほぼ200年経っていた。

 サウスカロライナ州で、ラドソン家は富と権力を集約し、最終的には州内で最も影響力のある家の一つとなった。金融や、政治、そして奴隷制などに深いつながりを持っていた。ヨーロッパの貴族と同様に、ラドソン家は他のエリート一家との婚姻関係を結ぶことで自分の一家を強化した。その多くは奴隷貿易に関与していた一家だった。彼らの祖先には、ジェームズ・ムーアという人物もいた。彼はカロライナ州の前知事で、4,000人以上の先住民アパラチー族を虐殺的な襲撃によって奴隷とし、その地位を獲得。最終的にはその部族を完全に絶滅させた。

 1790年代に、ラドソン家はワラッグ家との結婚を通じて奴隷貿易の最高層での地位を確立することができた。ジョセフ・ワラッグは最も多くの奴隷を取り引きする奴隷商人の一人であり、アメリカ大陸で最も裕福な人物の一人だった。彼は奴隷船の船長として出発し、十分なお金を稼いで、チャールストン近くの奴隷市場とプランテーションを購入することができた。1717年から1747年の間に、少なくとも1万人の人々がその住んでいた家から誘拐され、鎖につながれ、「ギニア人」と呼ばれた奴隷船の暗く、過密な船倉に押し込められた。そしてワラッグバラ(サウスカロライナ)にあるワラッグ埠頭でジョセフ・ワラッグ会社によって彼らは動産として売却された。

 イギリスからアフリカへ、アメリカへ、そしてイギリスへと戻る三角貿易として知られる過程で、推定200万人の奴隷が命を落とした。奴隷はまず財産とみなされており、たとえ殺すことになっても、利益を最大化するため、何でもやってのけた。空間を最大限効率的に活用するため、奴隷はできる限り密集して詰め込まれ、しばしば恐ろしい病気の発生や窒息につながることもあった。

私が目にした驚愕の光景を口にし、こんな船は人間を運ぶものじゃない、と非難したが、アフリカの海岸で長い時を過ごし、多くの船を訪れたことのある友人たちは、これが、彼らが見た中ではいちばん真っ当な船の一つだと教えてくれた。デッキ間の高さは時々わずか18インチしかなく、不幸な人々は回転したり、横になったりすることができず、その高さは彼らの肩幅よりも小さいのだ。そして、ここでは通常、首と足が鎖でデッキに繋がれている。このような場所では、苦しみ感と窒息感が強くなりすぎ、黒人奴隷たちはカルカッタのブラックホール*でのイギリス人のように狂乱に陥る。彼らはある時、ボニー川で奴隷船を捕まえた。奴隷たちはデッキ間の狭い空間に詰め込まれ、鎖でつながれていた。彼らは恐ろしい騒音と騒動を聞いて、それが何の原因から生じたのか想像することができなかった。彼らはハッチを開け、奴隷たちをデッキに上げた。彼らは2人、3人と手錠をかけられていた。彼らの多くは口から泡を吹き、最後の苦しみを味わっていた。生きている人が引きずり上げられ、その仲間が死体になっていることもあった。同じ鎖につながれた3人のうち、1人が瀕死の状態で、もう1人が死んでいることもあった。彼らが聞いた騒動は、息も絶え絶えの惨めな者たちが、怒りと絶望の最終段階で、なんとか脱出しようともがく狂乱の声だった。全員が引きずり上げられたとき、19人が回復不能なまま死んでいた。息をする場所を確保しようと、多くの者が互いに殺しあった。男たちは隣の者の首を絞め、女たちは互いの脳に釘を打ち込んだ。多くの不幸な人間たちが初めて手にした機会で船から飛び降り、その耐え難い人生から解放されるケースもあった。
*フォートウィリアム(カルカッタ)の地下牢で、1756年6月20日の夜、ベンガルのナワーブ、シラージュッダウラの兵士たちがイギリスの戦争捕虜を収容した場所で、その寸法は14フィート×18フィート(約4.3メートル×5.5メートル)しかなかった。(ウィキペディア)

1828年および1829年のブラジルに関するロバート・ウォルシュ師の通知文



 ラドソン家はまた、その被害者に対して「ヨーロッパの価値観」を押し付けることにも積極的だった。特に、ジェームズ・H・ラドソン(この家族には複数のジェームズ・ヘンリー・ラドソンがいたが、区別するための接尾辞がだれにも与えられていなかった。ここでは明確にするためにこの人物をジェームズ・H・ラドソンと呼ぶ)は、自身のプランテーションの一つに巨大な礼拝堂を建て、強制的な改宗を通じて奴隷たちに「ヨーロッパの価値観」を押し付けることで知られていた。これは南部に特有のもので、彼らの白人優越主義は家族的な性格を持っていた。奴隷所有者たちは自分たちを、金儲けのために苛酷に扱っているだけなのに、野蛮な黒人に「文明」をもたらす高潔で慈悲深い人間だと考えた。文明とは、「血と土」と「ヨーロッパの価値観」と同様に、単なる血なまぐさい婉曲表現に過ぎなかったのだ。

 実際、地元の新聞は彼を「古いカロライナの紳士の優れた例で、性格が純粋で、りっぱな取引を行ない、長年にわたりジェームズ・H・ラドソン&Co.の長であり、現在はW.C. Bee&Co.の代表である」と評した。「この会社は米と綿の仲介業務を幅広くかつ利益の上がるものとして行なっていた。彼はまた銀行の取締役でもあり、彼の生涯の大部分で、私たちの都市のセント・マイケルズ・エピスコパル教会の主要なメンバーで、キリスト教の美徳と積極的な慈善事業において抜きん出た人物だった」。

 この南部の立派な紳士は、「州の権利」の大義の猛烈な信者でもあった。「州の権利」とは、別の血生臭い婉曲表現でもある。この大義のためには、ラドソン家は人殺しも辞さなかった。実際の「州の権利」の真実は、ラドソン自身の行動によって明らかにされた:彼は南部連邦の大義のために骨身惜しまず働いた。そしてそれは自分の経済的利益を守るためであることは火を見るよりも明らかだった。

 総じて、ジェームズ・H・ラドソンの経済的利益のために、彼自身の息子を含む62万人の人々が死亡し、さらに100万人が負傷し、その多くが生涯不具となった。それに対して、彼は何の影響も受けることなく、奴隷と兵士の血と苦しみによって得たすべての富と名誉を保持し続けた。


どんなバラにも棘がある

「彼女はヨーロッパの深淵な文化を持っており、ブリュッセルで生まれ、ブリュッセルの官僚の娘ですので、彼女には(ヨーロッパ)連合のDNAがあると言えます」 - エマニュエル・マクロン


 ウルズラ・フォン・デア・ライエンの家族の財産と権力がどこから来たのか、そしてそれを得るために彼らが何をしたのかを尋ねることは何ら不当ではない。特に、ウルズラ自身が家族の富とその社会的関係を大いに利用して自身の立身出世を成し遂げていったことを考えればそうだ。彼女の経歴だけを見ても、汚職や、深刻な醜聞、無能、そしておそらくは完全な裏切りの例として独立して成り立つ可能性がある。彼女が政治家として振舞った時期だけを見ても、ウルズラのリンゴがアルブレヒト家の木からさほど遠く離れたところから落ちたわけではないことを示している。(訳注:ウルズラ・フォン・デア・ライエンのいろいろな政治的思惑は、アルブレヒト家がその背景にある、との意)

 ウルズラは2003年に政界入りした。この年、彼女はハノーファー地域選挙予備選でCDUの重要メンバーであるルッツ・フォン・デア・ハイデに技術的な理由で敗北した。これはウルズラの父であるエルンストにとって許容できないことであり、彼は以前の副官であるヴィルフリート・ハッセルマンと共に全面的攻撃を仕掛けた。ハッセルマンはかつてヴェアマハト(ナチス・ドイツの軍隊)の砲兵将校でもあった。

 二人は、ウルズラの選挙運動を行ない、同時に彼女の対抗候補を中傷した。当時、ウルズラは極右タブロイド紙「Bild」に長らく連載を持っていた。これは元ナチ党宣伝担当者でCIAのスパイだったアクセル・シュプリンガーによって設立された新聞で、ドイツ法に違反したとして何度も制裁を受けたことがある。このことを通じて、彼女はフォン・デア・ハイデに対する攻撃を効果的に広めることができた。やがて、ドイツ全土が小さな地方選挙の予備選に関する最新の醜聞について読むようになった。

 選挙戦は決定的で、投票の第2局面でウルズラは2/3の多数票で勝利した。それは無風区だったため、ウルズラはCDUの新しい候補として簡単に選出された。これを考えると、ウルズラ・フォン・デア・ライエンと彼女の父の遺産(的影響力)を分けることは不可能だ。

 2年後、ほとんど政治経験がないにもかかわらず、アンゲラ・メルケルによって労働と家族の事務大臣として一本釣りされた。この役割で、彼女は主に視覚障害者向けの社会サービスを削減し、ヘビーメタルのアルバムを禁止しようとしたことで知られている。こんな経歴を積み上げてもさらなる昇進を正当化するとも思われない。

 それにもかかわらず、彼女は2013年に国防大臣に昇進し、これは野党を驚かせる動きだった。ここで、ウルズラ・フォン・デア・ライエンの「ヨーロッパの価値観」が再び形を現し始めた。

 ウルズラの使命は、ドイツ連邦軍(Bundeswehr)の拡大と戦闘態勢の向上であり、彼女はその仕事に熱意をもって取り組んだ。彼女は戦争を声高に主張し続け、ドイツ軍は、彼女がその日に思いついた新たな敵に対抗するには小さすぎて準備が不足しているとの意見を述べた。アフガニスタンや、イラン、中国、ロシア、シリアなど、どの国であっても、ウルズラは一貫してより多くの武器、より多くの戦争、そしてより多くの資金を提唱した。ウルズラはさらに、ドイツ連邦軍の隊列を強化するためにドイツ外人部隊を提案したこともあったが、この提案はあらゆる陣営から恐怖心と非難を持って受け止められた。

 あれよ、あれよという間に、彼女は国防省が外部の支援を必要としていると語り、新自由主義政治クラスのお気に入りで、最も犯罪的なコンサルタント会社のひとつ、CIAとつながりのあるマッキンゼー社を雇った。かつてはスーザン・ライス(Susan Rice)や、チェルシー・クリントン(Chelsea Clinton)、ピート・ブティジェッジ(Pete Buttigieg)といった華々しい人物、そして、疑わしい性格を持った政治家や実業界の重鎮たちが在籍していた会社だ。マッキンゼー社の触手は、世界中の政府や企業にまで伸び、政府、情報機関、大手企業の間の「回転扉」の代表的なものとなっている。

 マッキンゼー社は単なるコンサルティング以上のものだった:マッキンゼー社は国防省を直接的に支配し、コンサルタントのカトリン・ズーダー(Katrin Suder) は国防省内で新たな職位を授与され、武器部門の「改革」を担当した。ウルズラはマッキンゼー社やその他の企業に「コンサルティング」サービスとして約5億ユーロを投入したが、その見返りは完全にゼロだった。選挙で選ばれたわけでもないズーダーは、ウルズラの隣に頻繁にいたため、野党は彼女がウルズラの新しいボディーガードであると冗談を言った。

 この厚かましい汚職事件は「コンサルタント事件」として知られ、その重大さから、左派、右派両方の野党からの質問要求につながり、ウルズラ・フォン・デア・ライエンに対する圧力が高まった。ウルズラは主に質問に答えず、情報提供を拒否することで対応し、最終的には議会に呼び出される前に彼女の不正行為の証拠を隠滅した。証拠がなかったため、調査は失敗に終わった。この事件で、カトリン・ズーダーはウルズラ・フォン・デア・ライエンから連邦軍十字章を授与された。

 このスキャンダルは非常に深刻で、あまりにも厚かましく、不可解極まりないものだった。そこで野党の社会民主党は、ウルズラ・フォン・デア・ライエンを反逆罪で公然と告発し、ドイツの利益ではなくアメリカ政府の利益に従事していると非難した。

フォン・デア・ライエンは連邦国防大臣として、アメリカ大統領の要望に従い、軍事支出の増加を求めた。軍縮ではなく、軍事予算のますます増額と軍備のますますの増強だった。そして、この大臣はコンサルティング企業への高額支出やさまざまな人事決定によりトラブルに巻き込まれ、模範とは程遠い存在だったが、彼女はEU委員会の委員長に就任した。EU委員長は要となる役職であり、アメリカにとっても重要なのだ。
 フォン・デア・ライエンの任命は静かに幕裏で行われた。良識ある人であれば、だれ一人、なぜ彼女にこの重要な役職が与えられたのか説明できない。一部の説明として、彼女は東欧の重要な国々の支持を受けていたということが挙げられる。アメリカ合衆国はこれらの国々に大きな影響力を持っているのだ。

最初の重要な危機的な場面で、フォン・デア・ライエンは、即座かつ明確に、イランそのものが中東での対立とイラン将軍の処刑に責任があるというアメリカの立場を表明した。彼女と共に、アメリカが他の出来事についても権利を主張でき、EU内部構造を形成する際に鍵となる役割を果たすことがたぶんできる、ということなのだろう。

―アルブレヒト・ミューラー(Albrecht Müller)、ドイツ社会民主党(SPD)議員。 2021年1月2日


 ウルズラのドイツ連邦軍は、寄生的なコンサルタント階級のための資金調達策謀に過ぎなかったわけではなかった。それはまた、彼女の父が一生をかけて促進した同じ邪悪なイデオロギーの温床でもあったのだ。フォン・デア・ライエン指揮下、ドイツ連邦軍の幹部クラスで極右派やネオナチの共鳴者が急増した。

 ドイツ連邦軍内外からの繰り返しの警告にもかかわらず、フォン・デア・ライエンは実質的に何も行なわなかった。彼女が雇用したマッキンゼー社コンサルタントは軍隊向けの感受性トレーニングコースを作成し、ウルズラは軍の基地を常時公開したが、問題はますます悪化し続けた。最終的に、2018年には、エリートの「特殊戦団」Kommando Spezialkräfte(KSK)特殊部隊から、ドイツの政治家を暗殺し、ドイツ政府を転覆させるための陰謀が発覚した。

 さらなる調査(2019年)により、この特殊部隊はネオナチ公然組織にまとわりつかれているだけでなく、少なくとも3年以上にわたりドイツ政府を転覆しようと積極的に計画していたことが明らかになった。さらに、繰り返し警告を受けながらも、ウルズラ・フォン・デア・ライエンと彼女の雇用したコンサルタント団は、最良の場合何もしなかったか、最悪の場合問題を積極的に悪化させていた可能性がある。

 ある強制捜索で兵器、爆発物、およびナチ記念品の隠し場所がわかった。さらなる監査により、4.8万発の弾薬と約135ポンドのプラスチック爆薬が責任の所在が不明であることが明らかになった。多くのドイツの政治家たちは、どれだけのテロリスト組織がドイツ連邦軍内に存在するのか疑問に思ったままだった。失われた弾薬と爆発物は今も見つかっておらず、結局、国防省はKSKを完全に解散せざるを得なかった。

 それにもかかわらず、ウルズラはNATOの事務総長としてヤンズ・ストルテンベルクの後任としての有力候補と見なされた。ナチスとの同盟の歴史を考えると、彼女の極右とのつながりが無視されたか、それを彼女の利点として数えられたこと―こちらの可能性の方が高いが―は驚きでも何でもないだろう。

 ウルズラが(NATO委員長として)選ばれなかった理由は、彼女が再び昇進の機会を逃したことと、欧州委員会の委員長に選ばれていたことだ。彼女は、自身の政党と野党の両方からほぼ一斉に非難されたにもかかわらず、欧州委員会の委員長に接戦で選出された。フォン・デア・ライエンの上司であり親友でもあるアンゲラ・メルケルは、ウルズラを候補にすらしないドイツ議会の拒否により投票を棄権しなければならなかった。

 しかし、この動きはエマニュエル・マクロンなどの外国の政治家からは歓迎された。彼は笑止千万の声明を出した。「私は、彼女のすぐれた問題処理能力と、特定の利益に囚われない公正な能力を見させていただいた」と述べたのだ。ウルズラは数か月前に外国の特定の利益に完全に従属していると非難されたばかりだった。また、ブルームバーグ紙は、彼女が自分の友人たちのために新しい内閣職をほぼ5年間作り続け、第二の「ミュンヘン一揆」を積極的に起こすことはないにせよ、よく言ってもそれに気づかないふりをしていたこの女性を、「頑強で見通しを持った改革者」と呼んだ。

 ウルズラはこの職を務めた最初の女性であり、ナチスと何らかの関りがある2人目の人物となった:かつてのヴェーアマハト(国防軍)の砲兵士官であり、ナチス法の教授だったヴァルター・ハルシュタインは、若い頃からニュルンベルク人種法の美点を主張して政治の道を歩み始め、「ヨーロッパの価値観」に生涯にわたって関りを持った。

 ブリュッセルでの新しい活動の場から、ウルズラ・フォン・デア・ライエンの「ヨーロッパの価値観」が世界中に広まった。ウクライナでの戦争勃発後、ウルズラは、より多くの戦争、より多くの制裁、そしてより多くの武器を支持する最も力強く、不動の提唱者としてニュースを席巻した。

 ウルズラはウクライナにまで足を運び、最近奪還されたブチャでの有名なシャッターチャンス撮影をした。そこで虐殺の犠牲者たちにワニの涙を流したのだ。その虐殺はロシア軍が自分たちの陣地を砲撃して起こされたと信じさせようとしているが、実際はおそらくウクライナ軍砲兵によって引き起こされたものだった。

 実際には、ウルズラにはこの地域にも家族のつながりがある。ウクライナに最後に「フォン・デア・ライエン」の名前が登場したのは、ウルズラの遠い親戚であるヨアヒムがナチス・ガリシアのゴーティエ*として「ヨーロッパの価値観」をウクライナにもたらしたときだった。ナチスが「ラインハルト作戦」と呼んだこの地域は、ウクライナの民族主義者たちがナチス政権の処刑者として奉仕し、その後アメリカとNATOの努力によって罰せられることなく逃れることができたため、「ユダヤ人がいない」地域となった。
*レオン・ゴーティエは1915年2月1日にブールジュで生まれた。彼は古典を学び、歴史の教授になった。ゴーティエはWaffen-SSでUntersturmführerの階級でドイツのために戦った。彼は1944年秋に東部戦線でフランスの部隊を指揮し、ガリシアで重傷を負った。彼は1946年に強制労働刑にされ、1948年6月2日に釈放され、最終的には広告代理店のHavasで働いた。(ウィキペディア)

 今度は、ヨアヒムの子孫が再び国粋主義者たちと共に立ち、ウクライナと世界の人々に死と破壊をもたらしている。ウルズラ・フォン・デア・ライエンの「ヨーロッパの価値観」のために、まだどれだけ多くの人が犠牲にならなければならないのだろうか?

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エヴァン・ライフは、南ダコタ州西部の小さな鉱山町で、鉱夫と司書の子として生まれました。彼の父親が労働組合の組織者としての苦労や、コミュニティが産業の衰退と闘う姿は、エヴァンの左派政治への深い興味を育みました。これに加えて、彼の歴史への愛情が、彼を堅固な反ファシストとして育てました。執筆や研究、仕事以外の時間には、エヴァンは釣り、射撃、中国料理を楽しんでいます。エヴァンにはwharghoul@gmail.comで連絡が取れます。

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抜粋終わり

ヨーロッパ文明は基本的に海賊文明。

近代日本は、「脱アジア・欧州嫌悪・入プロイセン」ってことで、ナチス化するのは、必然だった。

てナチスの元ネタは天皇かもしれんな・・・

で、その天皇=東ナチスに、在来日本人は、絶賛虐殺されてます、放射能汚染・不景気・殺人ワクチンと・・・・

より

上記文抜粋
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OVID-19問題の核心はウイルスでなく「ワクチン」と称される遺伝子操作薬

 厚生労働省は9月26日、7月分の「人口動態統計速報」を発表した。それによると死亡者数は12万0524人。「COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)ワクチン」の接種が始まる前に比べるて大幅に増えている状況に変化はない。



 9月26日にはアメリカ下院コロナウイルス委員会のブラッド・ウェンストラップ委員長が保健福祉省の監察総監へ書簡を提出しているが、その中で、​昨年12月までNIAID(国立アレルギー感染症研究所)の所長を務めていたアンソニー・ファウチがCIA本部へ出向き、同局の分析に参加した指摘​している。その際、入局の事実は記録されなかったという。

 COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)を引き起こすとされるSARS-CoV-2(重症急性呼吸器症候群コロナウイルス2)に関する分析を行ったのだろうが、この問題では早い段階から中国湖北省のWIV(武漢病毒研究所)が注目されていた。SARS(重症急性呼吸器症候群)と似た重症の肺炎患者が2019年12月の終わりに発見された場所の近いことがその一因だ。

 中国のアカデミーやビジネス界はアメリカ支配層の影響下にあり、​中国科学院のWIVへはNIAIDがコロナウイルスの研究費として2014年からエコヘルス連合を介してピーター・ダスザクの「エコヘルス連合」へ数百万ドルを提供、その一部は武漢病毒研究所の石正麗へ渡っていると伝えられている。​NIAIDの上部機関であるNIH(国立衛生研究所)からWIVの石正麗へ研究費として370万ドルが提供されていたとも伝えられた。ちなみに、エコヘルス連合はWHO(世界保健機関)にアドバイスする立場にもある。

 ​石正麗はノースカロライナ大学のラフル・バリックと共同で2015年11月にSARSウイルスのスパイク・タンパク質をコウモリのウイルス(SHC014-CoV)のものと取り替え、新しいウイルスを作り出すことに成功している​。コウモリのコロナウイルスを操作してほかの種を攻撃させる方法をバリックは石に教えたともいう。その後石正麗はWIVへ戻った。

 WIVで石正麗を中心とするチームはSARSに似たコロナウイルスのスパイク・タンパク質が人間などの細胞のACE2(アンジオテンシン変換酵素2)と結びつくメカニズムを研究している。

 WIVと同じように注目されている武漢大学動物実験センターはアメリカのデューク大学を関係が深く、両大学は2013年に昆山杜克大学を創設した。デューク大学はアメリカ国防総省の「DARPA(国防高等研究計画局)」と協力関係にあり、そのDARPAは2018年からコウモリからヒトへコロナウイルスを伝染させる研究を開始、中国との国境近くに研究施設を建設している。

 2019年12月に武漢で発見された肺炎患者と同様、翌年の2月4日には横浜港から出港しようとしていたクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」で現れた患者の症状もSARSと似ていたようだ。非常に危険な伝染病が出現したような印象を持った人は少なくないだろう。そしてWHO(世界保健機関)は2020年3月11日に病原体が特定されないままパンデミックを宣言、騒動が始まる。

 しかし、世界規模で武漢やクルーズ船のような患者が出てくるようなことはなかった。例えば、ドイツではSARS-CoV-2の危険性は通常のレベルを超えていないと指摘し、戒厳令的な政策を推進したことは間違いだとする内務省の報告書がリークされた。シュピーゲル誌によると、​内務省はこの文書についてステファン・コーンという内務省の官僚が個人的に書いたものにすぎないと弁明しているが、実際は同省のKM4というチームが作成したともの​だという。

 イギリス政府もSARS-CoV-2に過剰反応するべきでないと考え、3月19日にCOVID-19をHCID(重大感染症)から外している。エボラ出血熱のようなウイルス性出血熱やペスト、天然痘などとは違うと宣言したわけである。

 WHOやアメリカのCDC(疾病予防管理センター)はパンデミック宣言を正当化するため、2020年4月、医学的な矛盾がなく明白な別の死因がないならば、あるいは適度な確かさがあるならば、COVID-19を死因としてかまわないと通達した。

 また、パンデミックを演出するため、PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)検査も利用された。これは特定の遺伝子型を試験管の中で増幅する分析のための技術だが、増幅できる遺伝子の長さはウイルス全体の数百分の1程度にすぎず、ウイルス自体を見つけることはできない。

 増幅の回数(Ct値)を増やしていけば医学的に意味のないほど微量の遺伝子が存在しても陽性になり、偽陽性も増える。偽陽性を排除するためにはCt値を17以下にしなければならず、35を超すと偽陽性の比率は97%になるとも報告されている。

 ちなみに、2020年3月19日に国立感染症研究所が出した「病原体検出マニュアル」のCt値は40。Ct値をこうした数値に設定したならPCR検査は無意味だが、結果だけは出るので人びとを騙す材料には使える。この検査技術を開発、1993年にノーベル化学賞を受賞したキャリー・マリスもPCRをウイルスの検査に使ってはならないと語っていた。

 実は、PCRを診断に使う危険性をアメリカの有力紙も指摘している。例えばニューヨーク・タイムズ紙は2007年1月に掲載した記事で、​PCRのような高感度の簡易検査は、伝染病が蔓延していると誤って判断させる原因になりうると警鐘​を鳴らしている。

 「パンデミック」と聞き、黒死病のように人びとが次々と死んでいく光景を連想する人もいたかもしれないが、そうした事態にはなっていなかった。パンデミックを宣言できたのは「新型インフルエンザ(豚インフルエンザ)」が流行(2009年1月から10年8月にかけての時期に)する直前に定義の変更があったからだ。「病気の重大さ」、つまり死者数が多いという条件が削られていたのだ。

 パンデミック騒動を利用し、少なからぬ国が監禁政策(ロックダウン)をとり、社会の収容所化が進んだ。生産活動や商業活動は麻痺、個人経営の店や中小企業を中心にして経営状態が悪化し、倒産に追い込まれるケースも少なくない。サプライ・チェーンはダメージを受けた。

 また個人を監視、管理する仕組みの導入も図られている。その核になるシステムはデジタルID。欧州委員会は2019年に公表した指針の中でEU市民向けの「ワクチン・カード/パスポート」を2022年に導入する計画を立てている。

 こうした騒動を利用してWEF(世界経済フォーラム)は資本主義の「大々的なリセット」を主張している。その​WEFを率いるクラウス・シュワブは2016年1月にスイスのテレビ番組に出演、そこでマイクロチップ化されたデジタル・パスポートについて話している​。まずチップを服に取り付けるところから始め、次に皮膚や脳へ埋め込み、最終的にはコンピュータ・システムと人間を融合するというのだ。一人ひとりの感情を監視するだけでなく、思想や記憶の管理も考えている。

 しかし最大の問題は、COVID-19を口実にして人びとが接種させられた「COVID-19ワクチン」にほかならない。

 医薬品業界で研究開発に関わってきたサーシャ・ラティポワの分析によると、「COVID-19ワクチン」の接種計画はオバマ政権の時代にアメリカの国防総省が始めている。

 この「ワクチン」計画は、2015年9月に国連で採択された「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」と関係している。「SDGs(持続可能な開発目標)」を実現するため、個人を特定するためのシステムに記録されていない人びとを管理する必要があるとされ、デジタルIDの導入が進められることになった。

 「将来の『疾病X』の発生は避けられない」と「予測」し、将来のウイルス侵入に対する永遠の警戒を呼びかけているCEPI(感染症流行対策イノベーション連合)は今後、「ワクチン」計画で中心的な役割を演じると考えられている。

 この団体はWEF、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団、ウェルカム・トラストなどによって設立された。ウェルカム・トラストの理事長だったジェレミー・ファラーは現在、WHOの主任科学者だ。

 ウェルカム・トラストは2020年5月、ウェルカム・リープなる会社を創設しているが、そのCEOに選ばれたレジーナ・デューガンはアメリカ国防総省のDARPA(国防高等研究計画局)で長官を務めていた人物である。

 ​ジョー・バイデン政権は今年7月21日、生物学的脅威や病原体に対する備えと対応を指揮するというOPPR(パンデミック対策対応室)の発足とポール・フリードリックス退役少将のOPPR初代室長就任を発表​している。これもCOVID-19とアメリカ国防総省との関係を示していると言えるだろう。


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抜粋終わり

未だに「天皇=殺人鬼」を崇拝している日本人=学校等で脳が破壊されて偽ニホンザル化している~を殺すなど、殺人・略奪が稼業の欧米セレブにとっては、赤子の手をひねるよりも容易である。
さらに「天皇」も、日本人殺戮の尖兵だしな。



より

上記文抜粋
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「福田村事件」100年前の関東大震災直後に起こった自警団による暴行・虐殺事件を取り上げた関西のメディア 〜 過去の日本の加害の歴史から目を逸らさず、次の100年に生かす


 100年前の1923年、関東大震災直後に起こった「福田村事件」に関する情報をいただきました。Wikiによると「関東大震災後の混乱および流言蜚語が生み出した社会不安の中で、香川県からの薬の行商団(配置薬販売業者)15名が千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀で地元の福田村および田中村(現柏市)それぞれの自警団に暴行され、9名が殺害された事件」とあります。当時は日本統治下の朝鮮で独立運動が起こり、日本軍が数千人の朝鮮人を弾圧、虐殺した背景がありました。それらが新聞の歪曲報道を経て日本国内に伝わり、さらに警察が意図的に「朝鮮人に気をつけよ」「夜襲がある」などと偏見と危機感をあおり、朝鮮人を「不逞の輩」として差別した時代でした。そうした空気の中で、日本人が朝鮮人だと見なされて殺された事件も多数発生したそうです。当時のメディアである新聞がデマによるパニックを煽りました。
 関西のメディアが、この福田村事件を取り上げた番組を作りました。根拠のないデマによる朝鮮人殺害の本質は、民族的な差別意識による犯罪、いわゆるヘイトクライムだと指摘しています。福田村事件を史実の映画作品にした森達也監督は"「日本人の負の歴史」から目を背けることなく、過去の失敗から学ぶためにテーマにした"と語っています。当地で事件を伝える活動をされている方は「(辛い加害の歴史を)隠そうとしたら、また何もなかったことにしたら話(事件)は続いていきますよ。」と懸念されていました。当時、被害者となった韓国、朝鮮の人々は今も形を変えて迫害され、生活・尊厳を脅かされる恐怖をずっと持ち続けていると番組は伝えました。
 小池百合子東京都知事は、過去の都知事がずっと行ってきた朝鮮人犠牲者の追悼式典への追悼文送付を拒み続けています。これは日本人にとっても不幸なことです。番組では「人間誰しもが間違いを犯すし、問題点・課題にしっかり向き合い、気づける社会になってほしい。」次の100年をどのような時代にするかは、今、私たちが過去の加害の歴史にどう向き合うかにかかっている、と訴えていました。

(まのじ)

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抜粋終わり


天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みの富む社会になりますように。


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