「生徒らしく」なって「人間らしさ」を失う日本人。


より

上記文抜粋
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日本で「いじめ」がなくならない「本当の理由」…子どもから自由を奪う「学校」という病

いま日本はどんな国なのか、私たちはどんな時代を生きているのか。

日本という国や日本人の謎や難題に迫る新書『日本の死角』が7刷とヒット中、普段本を読まない人も「意外と知らなかった日本の論点・視点」を知るべく、読みはじめている。

「学校」という病
最近、また「いじめ」が大きなニュースとなっている。なぜいまだに根本的な解決にいたっていないのだろうか。
話題書『日本の死角』では、「日本の学校から『いじめ』が絶対なくならないシンプルな理由」という論考でそのテーマを深く掘り下げている。一部を紹介したい。

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最も根幹的な問題は、「学校とはなにか」ということであり、そこからいじめの蔓延とエスカレートも生じる。

わたしたちが「あたりまえ」に受け入れてきた学校とはなんだろうか。いじめは、学校という独特の生活環境のなかで、どこまでも、どこまでもエスカレートする。

先ほど例にあげた横浜のいじめが、数年間も「あたりまえ」に続いたのも、学校が外の市民社会とは別の特別な場所だからだ。社会であたりまえでないことが学校で「あたりまえ」になる。

学校とはどのようなところか。

日本の学校は、あらゆる生活(人が生きることすべて)を囲いこんで学校のものにしようとする。学校は水も漏らさぬ細かさで集団生活を押しつけて、人間という素材から「生徒らしい生徒」をつくりだそうとする。

これは、常軌を逸したといってもよいほど、しつこい。生徒が「生徒らしく」なければ、「学校らしい」学校がこわれてしまうからだ。

たとえば、生徒の髪が長い、スカートが短い、化粧をしている、色のついた靴下をはいているといったありさまを目にすると、センセイたちは被害感でいっぱいになる。

「わたしたちの学校らしい学校がこわされる」

「おまえが思いどおりにならないおかげで、わたしたちの世界がこわれてしまうではないか。どうしてくれるんだ」

というわけだ。

そして、生徒を立たせて頭のてっぺんからつま先までジロジロ監視し、スカートを引っ張ってものさしで測り、いやがらせで相手を意のままに「生徒らしく」するといった、激烈な指導反応が引き起こされる。

この「わたしたちの世界」を守ることにくらべて、一人ひとりの人間は重要ではない。人間は日々「生徒らしい」生徒にされることで、「学校らしい」学校を明らかにする素材にすぎない。

多くのセンセイたちは、身だしなみ指導や挨拶運動、学校行事や部活動など、人を「生徒」に変えて「学校らしさ」を明徴するためであれば、長時間労働をいとわない。

その同じ熱心なセンセイたちが、いじめ(センセイが加害者の場合も含む)で生徒が苦しんでいても面倒くさがり、しぶしぶ応対し、ときに見て見ぬふりをする。私たちはそれをよく目にする。

ある中学校では、目の前で生徒がいじめられているのを見て見ぬふりしていたセンセイたちが、学校の廊下に小さな飴の包み紙が落ちているのを発見したら、大事件発生とばかりに学年集会を開いたという(見て見ぬふりをされた本人〈現在大学生〉の回想より)。こういったことが、典型的に日本の学校らしいできごとだ。

こういった集団生活のなかで起きていることを深く、深く、どこまでも深く掘りさげる必要がある。

学校では自由が許されない

さらにそれが日本社会に及ぼす影響を考える必要がある。学校の分析を手がかりにして、人類がある条件のもとでそうなってしまう、群れたバッタのようなありかたについて考える必要がある。

学校で集団生活をしていると、まるで群れたバッタが、別の色、体のかたちになって飛び回るように、生きている根本気分が変わる。何があたりまえであるかも変わる。こうして若い市民が兵隊のように「生徒らしく」なり、学習支援サービスを提供する営業所が「学校らしい」特別の場所になる。

この「生徒らしさ」「学校らしさ」は、私たちにとって、あまりにもあたりまえのことになっている。だから、人をがらりと変えながら、社会の中に別の残酷な小社会をつくりだすしくみに、私たちはなかなか気づくことができない。

しかし学校を、外の広い社会と比較して考えてみると、数え切れないほどの「おかしい」、「よく考えてみたらひどいことではないか?」という箇所が見えてくる。

市民の社会では自由なことが、学校では許されないことが多い。

たとえば、どんな服を着るかの自由がない。制服を着なければならないだけでなく、靴下や下着やアクセサリー、鞄、スカートの長さや髪のかたちまで、細かく強制される。どこでだれと何を、どのようなしぐさで食べるかということも、細かく強制される(給食指導)。社会であたりまえに許されることが、学校ではあたりまえに許されない。

逆に社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用する。センセイや学校組織が行う場合、それらは教育である、指導であるとして正当化される。

正当化するのがちょっと苦しい場合は、「教育熱心」のあまりの「いきすぎた指導」として責任からのがれることができる。生徒が加害者の場合、犯罪であっても「いじめ」という名前をつけて教育の問題にする。

こうして、社会であたりまえに許されないことが、学校ではあたりまえに許されるようになる。

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抜粋終わり

>逆に社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用する。センセイや学校組織が行う場合、それらは教育である、指導であるとして正当化される。

これって、本当に深刻な問題。

なのに、それを許してきた。いや「強要し洗脳」してきた。

そりゃ、社会が学校のように、名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、軍隊のまねごとが横行して、法治も破壊され、社会がやくざのシマになるのですは。

当然に、日本が滅ぶのです。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みの富む社会になりますように。

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