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【今宵、黒髪の乙女と吉祥寺ハーモニカ横丁で。】〜森見登美彦 夜は短し歩けよ乙女〜

私は目を爛々と輝かせながら、夜色に染まった吉祥寺を歩く。青い火を吹く謎の美女、鳩にエサをやることが生き甲斐のおじさん、キャンドルジュンよりキャンドルジュンしてる耳男・・・。魅力満載の魑魅魍魎たちが闊歩するこの街は、酒に浸った魔境である。
「ヘイ!成生氏どこいくの?」
声をかけてきたのは、この界隈でプロフェッサーと呼ばれている男性だ。彼は長く伸ばした白い髪と髭をを指先でくるくるしながら、ライフガードサワーを飲んでいる。なぜプロフェッサーと呼ばれているのかは本人も知らない。風貌的にはプロフェッサーというよりガンダルフであるが、それは国家的禁句らしい。理由を知ると消される。
ちなみに彼は、井の頭動物園のリスの小径(通称リス場)の見張り員である。
「夜明けのマリアか、松浦泥船商店かな。」
「なるほど!もしかしたら後でマリア行くかも!」
「じゃあもし会えたら~。」
彼は見た目の割にテンションが若い。と言っても年齢は不祥なのだが。我々は手を振って、再び各々の夜に向かい合う。拙作『終わらない恋の果ての地で、あなたに私を殺してほしい』が数冊入ったリュックを揺らし、私はハーモニカ横丁へ突入した。

ハーモニカ横丁は細い路地に店が敷き詰められた、小さな飲み屋街だ。そこでは脈絡のないところから漠然と人が集まって、毎夜毎夜取るに足らないような物語が作られている。涙あり、笑いあり、たまに喧嘩あり。美女から死にそうな老人まで、彩る役者も個性派ぞろい。新宿ゴールデン街のような派手さはないけれど、吉祥寺を愛する民の結束力が眩く光を放っている。
無論、私もその民の一人だ。

夜は短し、躊躇せず飲めアラサー男子。跳ねるように店を転々として、じゃぶじゃぶと酒を浴びてゆく。所狭しと横並びに展開された世界たちは、今宵も私を軽やかにいざなう。芋焼酎山ねこをバケツ飲みできる『白虎っ子』。三年皆勤で通うと芥川賞を取れるという『スリーロジャー』。偽電気ブランの売り上げが全国八十三位の『桃の思い出SAKABA』・・・。
さて今日はどこから攻めよう。

私は夜明けのマリアに足を踏み入れ、強炭酸アセロラレモンサワーを注文した。今日の店番は赤髪モヒカンの斎藤さんだ。ライダースジャケットが良く似合っている。
「成生君が書いた本、めちゃめちゃ良かったよ!」
「ありがとうございます。女性読者の印象はひどいものだったけど。」
「ねちねちしてる感じがリアルで気持ち悪いもんね。あ、いい意味でね。」
斎藤さんは煙草をくわえながら渋い顔を作り、何度もうんうんと頷いた。一見恐い印象の斎藤さんであるが、実際は良心の権化なのである。
「次回作はもう書いてるのかい?」
「黒髪の乙女と恋に落ちたら書こうかなって思ってます。」

黒髪の乙女。それはハーモニカ横丁における、一種の都市伝説的存在だ。
彼女は三国時代の英傑のごとくとんでもない酒豪なのだという。底なしの壺のようにするりと一杯流し込んでは、間髪入れずにまたするりと一杯流し込む。その可憐な飲みっぷりは、艶やかに空を舞う戦場の蝶を彷彿とさせる。彼女が現れると、一気にハーモニカ横丁の空気が変わる。井の頭公園の鴨が凱旋歌を歌い出し、雲は消え去り月が笑う。街中の酒が「ええじゃないか」と躍り始め、酔いどれたちのテンションを上昇させる。その圧倒的カリスマ性はハーモニカ横丁の夜を従え、無数の幸せの泡を飲兵衛たちにもたらすのだ——。

「おつ!」
松浦泥船商店のカウンターから豪快に手を振る女性は、幼少期に赤穂浪士の行列を生で見たという、通称、湯婆婆。その横には、アゴでピスタチオの殻を割るのを得意とする蟹ヶ原くんが座っている。
「あんた、本は売れてるかい?」
「いいや、全然。リュックは重いまま。」
「ずいぶんと梯子したようだね。ほら、蟹ヶ原の横に座り。」
営業終盤の気だるい雰囲気が店を漂っていて、すでに空はほんのりとブルーに染まっていた。あと一時間ほどでハーモニカ横丁の夜が明ける。
「その様子だと、黒髪の乙女にも遭遇出来なかったみたいだな。」
うっすらと髭の生え始めた蟹ヶ原くんが呟いた。アルコールの分解が限界に近いのだろうか、顔色が真っ青である。
私は焼酎がグラスの半分まで注がれた緑茶ハイをごくんごくんと流し込んだ。喉をえぐるグリッとした感覚が心地良い。湯婆婆にすすめられたアジアゾウの肝煮を口に入れると、酒の旨味がじんわりと深まった。
「森見登美彦の物語から出てきたみたいな女の子だし、是非とも一度会ってみたいじゃない。」
「本とか読まないからよく分からないけど、とりあえず可愛いんだろうね。俺も会ってみたいなー。」
湯婆婆が阿呆な男二人を見て紫色のため息をついた。ため息は柔らかな粘土細工のように形を変えて小さな龍となり、ぴゅーと勢いよく外へ飛び出していった。
「やっぱりその技すごいっすよ。テレビ出たほうがいい。」
「嫌だよ、面倒くさい。」
とは言いつつも、まんざらでもない顔を浮かべている湯婆婆。松浦泥船商店の常連はもう見慣れているので、誰もこの妙技に注目しない。
「すみません、入れますか?」
突如、照明を一段階明るくするような声が店に響いた。御年百一歳の店主のサムズアップに惹かれるようにして、水玉模様の赤いワンピースが私の隣にひらりと飛んでくる。
「こんばんは。お隣失礼します。あ、生ビールください。」
初めて見る顔だが、爽やかな瑞々しい笑顔はすぐに私の心をほどいた。黒髪のショートボブがふわっと揺れる。・・・可愛い。
「どうもこんばんは。って言っても、もうすぐおはようございますになっちゃうけれど。」
私はつまらない軽口を叩いて、外の景色に目をやった。どういうわけか、空を纏うブルーが入店時より濃くなっている気がした。
「そんな。朝が来るにはまだ早いわ。私、全然飲み足りていないのですから。」
私たちは儀式的というより感情的に乾杯を交わした。生ビールジョッキを豪快に口へ運ぶ彼女。細く端正な喉ぼとけが上下し、その美しさに目が釘付けになる。
「おお!いい飲みっぷりだねえ!」
華やいだ彼女の空気感は、魔法のような力を持っていた。いつの間にか筋骨隆々の青年に若返っていた店主は、激しく手を叩いて彼女の存在を祝福した。それにつられるように湯婆婆や他の客にも活気が戻り始める。彼女が笑うとみんな笑い、彼女が歌うとみんな歌う。あれよあれよと店は賑やかな彩りに満ちていく。
「元気があってよろしい!」
「俺も若返った気がするぜ!」
「このお嬢さんに一杯!」
気だるそうだった全体の雰囲気は一変し、次々とグラスが空になっていった。健康的な色を取り戻した蟹ヶ原くんは、アゴをガクガクさせながら高速でピスタチオを割りまくっていた。
・・・もしや!?
私は勢いよく外に飛び出し、空を見上げた。そこに広がっていたのは、街灯が星のように煌めく陽気な暗闇だった。
「ほら、夜は短し歩けよ乙女って言うじゃないですか。」
いたずらぽい黒髪の乙女の囁きに、私のハートがころりと落ちる。
奇奇怪怪なハーモニカ横丁の夜は、どうやらまだ終わらないようだ。

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