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私を耕す〜『裏庭』と『秘密の花園』


目次

はじめに
裏庭
秘密の花園へ
再び裏庭へ
母親の言葉の呪い
母娘三代の悲しい業

庭作り
私の庭
最後に


はじめに

怒涛の2020年が過ぎ、怒涛の2021年が幕開けした頃、この新型コロナ騒ぎが始まってから、自分が成長したと思えることや、キャリアにつながるスキルアップや新しい技術の獲得など、何かあっただろうかと、年末に振り返って見ました。

私以外の家族は、もともと興味がある新しい分野の勉強を仕事と両立しながら頑張っていたり、勉強、興味がある分野のリサーチ、趣味の創作など、沢山のチャレンジをしています。
それで、私。
私がかなりスキルアップした事は庭仕事。

喘息持ちの私は、一年に渡るこの期間、ほとんど出かけることなく、一緒に暮らす家族以外の友人を招いて庭でお茶を飲んだり、一緒に散歩に行ったりしたのも、両手で数える程もありませんでした。英国で3度にわたるロックダウンの間、私はリモートワークと家事以外の時間の多くを庭で過ごしました。もちろん、真冬の今は長時間は無理ですが、やはり毎日庭に出ます。そして、私はこの事実を、とてもとても深く受け入れ、大切にしています。

それは梨木香歩著の『裏庭』とフランシス・ホジソン・バーネット著の『秘密の花園』の原書であるThe Secret Gardenという二冊の本を読んで、物語の世界と自分の人生をシンクロさせたことがきっかけでした。

これは、当時の自分が、二冊の本を通して自分の人生を遡り、数ヶ月間考えて来た事を言葉にして記したものです。


裏庭

梨木香歩さんの本は『西の魔女は死んだ』と『春になったら莓を摘みに』に以来でしたが、昨年になり、ブログを通して仲良くさせて頂いている方の読書録で興味を惹かれ、日本から取り寄せて何冊も夢中で読みました。
その中で、かき混ぜられた私の脳内を整理するのに時間がかかった作品が、『裏庭』でした。(梨木さんの世界観や死生観にはとても共感できるものが多く、他の大好きな著作への思いもいつか文章化したいのですが、まずは『裏庭』から)

初読の時、私にとって『裏庭』は、ファンタジー要素より、現実設定の要素に目が行ってしまい、苦しい気持ちになる作品でした。英国で児童文学を勉強されたという著者。そして私自身が海外の、特に英国人作家の絵本や文学に影響を受けての英国留学を経て、現在は英国在住四半世紀以上になる人間なので、庭と鏡が出て来た時点で、「あ、これはバーネットの『秘密の花園』とルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』のオマージュかな」と思いました。でも、読み始めのそんな思いの余裕を削いでいく、物語の中の多くの伏線。

物語の中の祖母、母、娘の三代に渡る母娘の関係性とその業とも言える心の傷。その痛み。

それが気になって、気になって、想像力あふれる異世界のファンタジー部分に集中する事はできず、また当時、精神的に疲れていた私は、そこかしこに自分の過去の痛みを掘り返されてしまいそうな危険が潜むこの物語の大切な部分を、深い考察の手前で自分でも気付かずに脇へ退けてしまっていました。また、私が英国在住ということもあり、物語の中の英国や英国人の登場人物の描写はリアリティーを持って必要以上に際立ってしまい、なんとなく混乱したまま読み終えたのでした。

梨木さん著のおじさん版不思議の国のアリスとも言える『f植物園の巣穴』を読んだ時は、主人公と共に大切な人と繋がる生命の奧底の不思議な世界を旅して帰還した喜びと感動がありました。『家守奇譚』と『冬虫夏草』を読んだ時は、やはり主人公と共に、古い日本家屋に住んだ人間でないとわからない湿度や空気に包まれながら、季節の植物を愛で、日本独特の異界・黄泉の世界と現実の狭間で存在する者たちと交流し、生活を共にしたような、高揚感と満足感に包まれました。

しかし、決して嫌いではないファンタジーの『裏庭』を読んでのこの混乱。鏡の向こう側の庭で開かれたアフタヌーンティーに招待されて、リラックスするつもりが、日本や英国の色んな料理を一緒にがっつり出されて、味わいきれずに沢山食べ残し、混乱のままお腹いっぱいになってしまったような気持ちでした。

https://la-mamma-di-lara.cookpad-blog.jp/articles/553249
(ブログから『* バーネットの秘密の花園 * 梨木香歩の裏庭 *』)


秘密の花園へ

実は『裏庭』を読む以前に、同作者による岩波ブックレットの「『秘密の花園』ノート」を読んでいました。元々は、母のために注文し購入して一旦は実家に届いたこの薄い冊子は、他の荷物に紛れて日本から私の元に届いていました。

『裏庭』と『秘密の花園』の「少女の魂の再生」という共通のテーマもありましたが、私はモヤモヤした心をよく知っている物語で落ち着かせたいという気持ちもあり、娘の本棚から原書であるフランシス・ホジソン・バーネットのThe Secret Gardenを引っ張り出して読むことにしました。

私には元々、『小公女』の作者でもあるバーネットに対する特別な思い入れがありました。幼い頃、フランス人形や庭との出会いが、バーネットの作品を通してあったというだけでなく、私の趣味の一つである製本で、19世紀や20世紀初頭の特に児童文学のボロボロの古書を集め修復していて出会ったバーネットのエッセイがきっかけでした。彼女の子供たちに対する温かい眼差しに惹かれ、それが、彼女の人生についての伝記や日本ではあまり知られていない著作を収集するきっかけになったのです。

The Secret Garden を読んでいる最中、私はまさに秋から冬にかけての、次の春に向けた庭仕事が忙しい時期でした。
きっとまだ続くでであろうパンデミック。そして収束の兆しが見えたとしても今まで通りの生活に直ぐ戻ることはないかもしれない。たとえ、その様な状況でも喜びをもって春を迎えたい。そんな思いが強くありました。

球根を植えられる場所を増やすために、林檎の樹の下に新しく花壇を作ったり、やはりフロントガーデンの花壇のスペースを広げたり。
土を掘り起こし石を取り除く。堆肥を入れて土を作る。
そこにロビン(コマドリ)がミミズを狙ってやってくる。
物語の中で主人公のメアリーがロビンと戯れ春に向けて芽を出して来た球根のために雑草を取り除いたり、ディコンと新しい球根を植えている場面とシンクロするように。

球根も暗い寒い時期をしっかり経験させないと花開かないので、室内栽培する時でも必ず室内用の球根を買うか、8週間から10週間、寒くて暗いところで球根に冬を経験させる必要があります。
寒くても、暗くても、必ずやってくる春を待つ楽しみ。
土を耕し、植物と関わることは、未来を信じることです。
未来を信じて待つ訓練と言っても良いかもしれない。

メアリーにとって、そして歩けなかった従兄弟のコリンにとって、「秘密の庭」で過ごす時間が楽しかったということだけではなく、自分たちが蒔いた種や、植えた球根や、手入れをした植物が、二人が徐々に生命力を取り戻し心身ともに健康になっていくように、季節の移り変わりと共に花開き「秘密の庭」が花園へと蘇っていく様子を日々見つめることで起こった魂の蘇生の物語に、私は自身の実感を持って深く共感することができました。

私は以前からアロマセラピーや植物を覆う細菌叢が人間の健康に与える影響や、植物に人間の心を癒し魂を蘇生させるパワーがあることを科学的に捉えようとするフィトセラピーにとても興味がありました。
大人になった今、この「秘密の庭と少女の魂の再生の物語」を再読したことは、私のコロナ禍で感じてきた植物の癒しと蘇生のパワーの体感と相まって、魂の奥深くで私の核の様なものと物語が共鳴する素晴らしい読書体験となりました。

最終章は人生の素晴らしいヒントが美しい言葉で語られています。
私達の思考、心の有り様で、人生が美しくもなり毒に満ちたものにもなること。身近な自然の中の植物たち、そこで暮らす生き物たち、自分を囲む人々のあるがままの姿、その心に潜む優しさに気がつくこと、巡る四季の中に息付く美、そして「楽しいこと」を素直に受け入れること。

自分の人生は自分のもの、
でもいったい何でそれを満たすかによって、全てが決まる。


再び裏庭へ

あの頃、私の心はロックダウン中に家庭内で皆が心身共に健康を維持できるよう腐心すること、思春期の娘のケアと同時に家族と身体的な距離やひとりの時間を持たず仕事をすることに疲れていました。最初に『裏庭』を読んだ時は、ちょうど上橋菜穂子さんの『鹿の王』シリーズを読んだ後で、「またファンタジーを読んで現実から離れて気分転換したい!」という期待が強かったので、まさか物語が自分の経験と重なって心の痛みを呼び起こす様な読書体験になるとは思っていませんでした。

The Secret Gardenを読み終えた私は、『裏庭』を再読しました。

再び『裏庭』を手に取り、沢山の胸に響く言葉を、それが悲しみを伴うものでもそのまま受け止め、読み途中で本を閉じ、自分の過去も振り返りながら、考えることを繰り返しました。真夜中にハッと目覚めて、物語と自分の人生を結ぶ何かに気がつくこともありました。

そして、最後に自分が前回は解説を読んでいなかったことに気がついたのです。あまりにも、不覚。でも、初読の後、心理学者・河合隼雄氏の素晴らしい解説を読んでしまっていたら、私はこの「心の庭巡り」とも言える旅をしなかったであろうから、これで良かったのだと思いました。

答えを先に出してもらったら、この物語を自分の物語にすることはできなかったのだから。


母親の言葉の呪い

『裏庭』では、分断された母娘の思いとその葛藤が大きなテーマになっています。
私には娘が一人いますが、私が子育てにおいて、一番気をつけている事は、どんなに腹がたっても、どんなに言う側の私に道理があるとその時は感じても、決して娘の人格や人間性を断定、ましてや否定するような事は言わないという事です。特に、感謝の心がないとか、素直じゃないとか、可愛げがないとか、性格が悪いとか、ひねくれているとか、一緒にいて楽しくないとか、あなたは人から嫌われるとか。
どんなに態度が悪い時でも、その態度を指摘しても、彼女がそういう人間だからと断定はしない。

感謝の心がないと言われても、その時は意味がわからないだけでなく、ただ責められているという印象だけになってしまう。自分は感謝のできない人間だと言う思いだけが残る。素直じゃないと言われれば、素直になれなくなってしまうし、可愛げがない、性格が悪い、ひねくれていると言われれば、自分は本当にそうゆう人間だと思い込んでしまう。

私の言葉が楔となり、逃れられない呪いとなって、娘がそこから動けなくなってしまうかもしれない。言葉は、特に母親から発せられる言葉は、時として人間の人生を左右するような祝福にも、そして呪いにもなると思うのです。その呪いを断ち切り、人生の軌道修正をする事は、非常なエネルギーと大きな痛みを伴います。これは、私が幼い頃から体験してきた事からの実感です。

『裏庭』の主人公・照美の母の「さっちゃん」も、照美の祖母である自分の母親から愛されず嫌われているという思いを抱いて育った人でした。

私は、幼い頃から母から繰り出される辛い苦しい気持ち、辛い思い出、悔しい気持ちの言葉を吸取り紙のように吸い取って育ちました。でも、私は男の子の中で育ち、かなり気が強く口が達者で自分が信じる正義や道理の為には兄弟を言い負かし、父にも歯向かっていく様な子供だったので、「可愛くない、素直じゃない、性格が良くない」と両親から、特に母から言われながら育ちました。そして、大人になるまで両親から褒められることもありませんでした。可愛いと言われたこともありませんでした。だから、何をしてもらっても、何をさせてもらっても、その当時は可愛がられている実感はありませんでした。

そして、心から母に幸せになって欲しいと願っていても、母は私みたいな人間を好きではないし、私は可愛げがないので母のことを幸せな気持ちにする事はできない。それは自分が性格が悪く嫌な人間だからだと思っていました。


母娘三代の悲しい業

私が壊れずに済んだのは、ほぼ妄想に近いような想像力と、父譲りの空気を読めない我が道を行く精神と、幼い頃からの読書、そして、その物語の世界で生きる事で心のバランスを保つことができたからだと思います。また、何より祖母の存在が大きかった。母にとっては、尽くしても「自分は一番可愛がられなかった」と言う思い出と葛藤があった祖母ですが、私にとっては無条件の愛と心からの賛辞、安心や温かみ、その全ての象徴が祖母でした。

父方の祖父母をしっかり看取った母のお陰で父の理解を得て、東京で私達と暮らす事になった母方の祖父母。特に祖母の存在が私の魂の救済になりました。
ただ、炬燵で祖母の側に座り一緒に蜜柑を食べたり、昔の話を聴くだけで安心する。祖母は何も言わなくても、私のことを好きでいてくれる事がじんわりと伝わってくる。祖母は私にとって、『裏庭』の主人公・照美にとっての友人の綾子のおじいちゃんのような存在でした。

でも母も、私の母に対するそれと同じ様な思いや屈託を祖母に対して抱えていました。人間と人間との間に起こる化学反応は組み合わせ次第で全く別のものになります。それでも、家族・一族に対する母の献身によって、私は祖母と暮らすことができたのです。人間やその人生がどんなに多面的で、たくさんのものが絡み合い重なり合って構成されていることか。
幼い頃の私と母の関係だけを切り取って語れば、まるで毒母の様に聞こえますが、母は親切で純粋でお人好しで、多くの人から慈母と謳われる様な女性なのです。
ですから、正直、「毒親」という言葉を人生が滅茶苦茶になるような精神的/肉体的虐待を受けていない人が気軽に使うことには抵抗を感じます。その人の感じた苦しみや辛さを否定したいのではなく、言葉は私たちの脳に楔となって打ち込まれ影響を与え続ける力があると思うからです。苦しみのリアルタイムのインパクトが、同じ言葉を使い続けることにより、その後の人生に継続する恐れがある。
そして、毒は少量なら薬になる場合もあります。
告白による癒しは痛みを手放し前進するためのものであると思うし、辛い経験により他者と共感し人生が豊かになる事もあります。
これはあくまで主観であり、真の恐怖体験をした方に決して気軽にいう類のことではないのですが。

留学により海外に出た事で、私と両親との関係は大きく変わりはじめました。精神科医の名越康文氏が「距離が癒しになる」と言うことをおっしゃられていましたが、物理的に長大な距離を持った事により、「両親に褒められたい、認めて欲しい」と言う束縛から自分を強制的に解き放つことができました。いくつかの挫折の後の23歳での留学でした。

幼い頃から海外留学が夢でしたが10代後半になって喘息がひどくなってしまい、父がずっと留学に猛反対だったのを、母が私の描いていた作品を見て応援してくれました。母が私の絵を言葉に出して褒めてくれた事は、物心ついてからは一度もありませんでした。きっと幼児の時は、そんなこともあったのでしょうが、思春期以降の自分の人生の中のネガティブなものに対する私自身の固執がそれを打ち消してしまったのかもしれません。
そして、遠く離れたことで、私の心にも「ただ、認められたい」だけではない、真の意味での感謝の心が生まれました。そばに居ないからこそ、心を尽くして、感謝や自分の気持ちを伝える努力が始まったのです。

また、英国で友人の助けもあって、私は自分のインナーチャイルドと向き合うことができました。幼い頃、「私に愛を見せてくれなかった母」とその「母からの拒絶」自体への自分の執着から決別し、一人の女性としての母をその傷もひっくるめて受け入れる。母が私を抱きしめてくれなくても私が母を抱きしめてあげれば良い。
物理的に近くにいなかったからこそできたことで、全て私の心の中で起きたことでした。簡単なことではありませんでした。私はずっと、自分がどんなに悲しくて寂しかったか、辛かったかを両親に思い知らせて、親を罰したいという思いも心の奥に隠し持っていたのですから。実際には、母が可哀想でできなかっただけで。
でも、最後に心の中で、私を抱きしめてくれなかった母を私が抱きしめることができた時、小さな時からずっと身体中に食い込んでいたネジが一気に緩んだ体感の様なものがあり、その場で号泣しました。生まれて初めて心と体が楽になりました。

『裏庭』の主人公・照美が鏡の向こうの異世界の「裏庭」で行った作業を、私は母と遠く離れた英国で行ったのです。根の国で餓鬼を慈悲の心で受け止めた照美。それは、私の心の中で、絶望という地獄の苦しみの表情で私を拒絶する母を私が抱きしめたことと重なりました。

祖母も幼くして生母と死に別れ、継母から徹底的に虐められた過去を持っていました。そして、曽祖父の不可思議な平等思想により、家にお金があっても、勉強嫌いで成績が悪かった異母妹にとって不平等になるからと、祖母は上の学校に行かせてもらえなかったそうです。とても、頭が良くて、好奇心旺盛で、勉強ができた人なのに。
そして、結婚後、苦労していた祖母の心を明るくすることができたのは、一生懸命お手伝いをする母ではなく、明るく自由奔放な姉妹だったのです。そのことが、母の人生の数々の悲しみのスタートになってしまいました。

英国で修士号を取り終えて、祖母の危篤の知らせで帰国していた時のこと。祖母の危篤により、心の奥底にしまいこまれていた葛藤(それは祖母の老いとともに実は少しずつ母の内側から外側に鎌首をもたげて現れてきたものだったようですが)が深くなってしまった母と祖母の間に入り、母の心と直に向き合いました。私自身が幼い時から抱えてきたものを母を責めるのではなく淡々と伝え、その上で、私が祖母を介護しました。
その時間は、私にとっては一生涯の宝物になりました。
でも、祖母が回復したのち、私は英国に戻ることを選びました。

私が責任を持って、この「母娘の悲しみの連鎖」を断ち切る役割を引き受けようと決めた時、私は連綿と続いてきた「母娘の業」に苦しめられるしかなかった人間から、それを転換することのできる主体者になったのでした。私は、大きな深い傷とその苦しみを自己犠牲的に引き受けたのではなく、結局は全てを引き受けることによって、自分をその苦しみから解放したのです。

自分の人生を生きる。
それに伴う喜びも苦しみも、離れることで生じる悲しみも寂しさも、全て引き受けて。
別れることは辛かったけれど、私は私の人生を生きても良いと心から思えたのです。それは、物語の終わりに、照美が「私はもう誰の役にも立たなくても良い」、「親と自分は別個の人間である」という事に気がつき、自分を解放する場面と私の体験が重なった部分でした。

現在の私と母は愛情深い良好な関係を続けています。
そこには我慢も自己犠牲も過去への否定もない、ただお互いとその過去・現在・未来を素直に思いやり、労わり合う関係です。


『裏庭』の作中で「傷」というのは一つの大きなテーマになっています。

河合隼雄氏は解説の中で、傷について以下のように言及しています。

 体の傷も、浅いものは自然に治ってしまう。しかし、深い傷はなかなか治らない。これと、同様に心の傷も深い傷は簡単には治らない。体の傷にしても、人間の身体全体の自然な作用によって治ってゆくわけだが、心の傷も癒されるためには、人間の存在自体のはたらきがなければならない。それは、外部からの操作によって効果があるようなものではない。従って、照美および、彼女の家族の癒しのためには、彼女が体験したような凄まじい旅が必要だったのだ。

新潮社 梨木香歩著『裏庭』巻末 解説 河合隼雄より

そして、物語の中の鏡の向こうの「裏庭」で、照美が「庭師」の仕事を継承し、その仕事をする過程で、彼女と彼女の引き受けた祖母と母の傷の癒しと回復の体験を重ねて、最終的に照美が現実世界に戻ってくる様子を丁寧に説明されています。

私の傷だって決して消え去ってしまったわけではなく、私の大切な一部になっています。そして、その傷は、やはり心が弱っている時など、何かをきっかけに疼くのです。

何より、現在は私自身が娘を持つ母親になりました。
娘が生まれて以来彼女を育て、その成長をサポートすることは、私自身の育て直しであり、大きな癒しを私にもたらしたのと同時に、常に過去現在の自分と向き合い、娘の未来に影響を与えてしまう可能性のある私自身の言動に責任を持つ挑戦でもありました。
娘は私と母の幼い頃の関係性を知りません。
それでも、成長途中の娘は、本能のままに私の昔の傷跡に直球で石の礫を投げてくることもあります。その時に傷跡から魔物を出さずに、心と体で獲得してきた智慧と、未来を信じる心と、娘に、そして幼かった頃の自分にも向けた愛情で、エイっと乗り越える。
時々は、絶望的に腹が立つことも悔しいこともあります。

でも、私の持つ傷の鮮烈な痛みの記憶が、私の感情からの支配を押し留めてくれるのです。


庭作り

巻末の解説で河合隼雄氏は、「すべての少女は、心の中に『庭』を持っている」と語っています。河合氏は、まさに日本に心理療法の一つである箱庭療法を導入された方でもあります。氏は解説の最後を、

人間にとって、「庭」はおそらく完成することはないであろう。死ぬまで ー いや、死んでからも ー 庭師の仕事は続くのであろう。

新潮社 梨木香歩著『裏庭』巻末 解説 河合隼雄より

と結ばれています。

私の母はガーデニングが大好きな人で、食事の支度をしなくても本当は庭仕事だけをしたいという様な人です。母のガーデニングは今でこそ色とりどりの薔薇やその他の草花を庭に植え、明るく華やかな庭作りをしていますが、私の子供の頃は全く別のものでした。
西洋風の住宅に建て替える前の実家は古い日本家屋の平屋で、庭もどちらかというと日本的で、枝垂桜や金木犀、ボケなどが植えられ、大きな庭石が配置してある様な庭でした。今でも、石垣の階段を上がった生垣の前に沢山の菊が植えられていて、秋になるとその香りで満ちていたことを思い出します。

そして、その頃の母の庭仕事というのは、その重たい庭石の配置をゴロゴロ転がしてやたら変えるというものでした。体の弱い母が、まるで自分のことを痛めつけるかの様に、重たい庭石を一人で具合が悪くなるまで転がしている様子は常軌を逸していました。家族がどんなに止めてもやめようとしない苦行のようでした。

でも、時が経つの連れ、それが徐々に変わっていったのです。
母にとって、あの時は、あの作業が必要だったのでしょう。母の庭作りは、最初から、ただ綺麗な花を庭に入れることでは済まないものだったのです。母の庭作りは大地との格闘から始めねばならぬものだったのです。
それほどの傷を抱えて生きて来たのだから。

私の庭はずっと心の中にありました。
子供の頃に読んだ『秘密の花園』が私に植え付けた薔薇の花咲く庭への強い憧れ、そして小学校高学年の時初めておこずかいで買った、やはり英国生まれのジル・バークレムによる絵本『野ばらの村の物語』シリーズが、私にとっての庭やそこにあるべき草花の原型となりました。

でも現実の世界では、庭仕事は母の領域で、私は憧れはあっても得意ではないとずっと思って大人になりました。英国で結婚し、南イングランドの小さな田舎町の外れの、庭のある現在の我が家で生活を始めた後も、大きな木がいくつかあって日陰も多い個性的な我が家の庭は、誰かに助けてもらわなければ維持することはできないと思っていました。
もちろん、毎週ガーデナーの方に来ていただくほどの経済力はないので、季節ごとの手入れだけ年に数回手伝っていただく事になります。そうすると、きめ細かな手入れがされていない庭は、ところどころが荒れて中途半端なものになっていました。

寝ないで絵を描いたり、物を作ったり、料理をすることは好きでも、庭作りを長期間かけてする忍耐力は、私にはないと思っていたのです。


私の庭

庭仕事に対して苦手意識を持っていた私は、子育てをしていくうちに、「信じて子供の成長を待つ」「生物は個体それぞれに必要な時間をかけて成長する必要がある」ことを学び、自分自身もどうやら庭仕事ができる人間に少しずつ成長していきました。
数年前に娘の文通相手の少女がパリから来てホームステイすることになり、花が好きだというその少女のために、娘から「庭に花を増やして欲しい」とせがまれて、庭の一切手をつけていなかった場所にダリアの花壇を、私は一から一人で作ったのです。石がゴロゴロ入った石灰質の土を50センチ以上掘り起こし土作りから始めました。
娘への愛情、そして自分の工夫と想像力で、労力さえ惜しまなければ、生活環境をどんな風にも素敵にしていけることを娘に伝えたいという思いが、私の原動力でした。

春から始めた庭仕事が実を結び、夏にたくさんの美しい花を咲かせた時の喜びは例えようのないものでした。そして、植物を育てることで思春期の娘と関わる新たな忍耐力も培われたように思います。そこから少しずつ、庭仕事を身体で覚える作業が始まって現在に至るのです。

こうして、二つの物語を読み、河合隼雄氏の解説を読んで、私自身の人生の振り返りを庭巡りと共に行って、私が両親と暮らしていた若い頃にも、庭作りで何か象徴的なことがあったのでは、と考えました。
そして、タイトルに掲載した水彩画が思い当たりました。私は英国留学を目指し、でも両親からの理解や応援がまだ得られず苦しんでいた時に、沢山の水彩画、特に森や庭の絵を描いていたのです。

私の憧れだった、児童文学や絵本の世界の美しい庭。

そこに生きる草花の一つ一つの葉や花弁まで細い筆で丁寧に描き込んでいく。実家のダイニングテーブルであの作業をしている時、私は私の庭作りをしていたのです。
私はあの小さな紙の上で自由でした。
だって、あの絵は誰かに褒められる為でも、美大の試験の為でもない、私だけの為に描いたものだったから。

その庭は、はるか英国まで続いていました。
なぜなら、あの絵を見て、母は私の夢を応援してくれたのです。
そして草花や動物たちを愛した祖母も、私の絵を見て「とても綺麗だ」としみじみと喜んでくれました。

ああ、私の原点だったんだ。
あの、小さな紙の上のイングリッシュガーデンが。

私は、自分でも言葉にできなかった混乱と向き合い、『裏庭』を再読し、自分自身の人生を見つめたことによって、私自身の原点の庭という大きな宝物を見つけました。


最後に

人生の折り返し地点を迎えた私にとって、コロナ禍のロックダウン期間は、「立ち止まり」、「手放し」、「土を作り」、ただひたすら「待つ」という事を学び直した時間になりました。
自分の内生と言う土をただひたすら耕すような年でした。

出てくるのは石ころばかりだったけれど、
ただひたすら耕して、新しい季節、新しい時代の到来を信じて待つ。
来たる春に、そして、私の新たな半世紀にワクワクしています。

今までは土作りの時だったんだ。
何にも無駄になっていない。
私の人生の庭が花を咲かせるのはこれからなんだ。
その景色をゆっくり見つめて慈しんでゆこう。
大切に手入れをしてゆこう。

実感はしているのに言語化できなかった私は、「裏庭」と「秘密の花園」を巡り歩く旅をして、梨木さんとバーネットの言葉を拾いながら私の人生を振り返り、自分の庭に立つことができました。

最後に、私が何とか語ろうと長々と綴ってきた内容を、短く美しく語った梨木さんの言葉を引用します。

 読み手が百人いるとすれば、百の主人公を持つ、百の庭がある。
 自分自身という屋敷の奥に、今では顔も知らない先祖から、脈々と伝えられて来た「秘密の庭」があります。同じくその先祖たちから、十全に使われないまま繰り返されてきた正負さまざまな「遺産」もあります。それらと対峙せざるをえない状況に陥るうち、主人公の世界に、どこからか光が呼び込まれてきます。
(中略)
 足を踏み入れたときの、「本当の故郷」に帰ったような気持ち!でもそこは冬の様相を呈しており、入った瞬間、あらかじめ決まっていたかのように、主人公は、自分の「なすべき仕事」を悟ります。それは自分の意思でもあり、同時に自分を通してついに何かを実現しようとする、多くの人々の意志なのかもしれません。少なくとも主人公は、おそらく生涯続く、「秘密の庭」との長い長い「関わり」を ー 手持ちの「遺産」を使いながら ー
スタートさせることになるのです。

「自分だけの庭」を育てるために。
それを、秘密の、花園とするために。

岩波ブックレットNo.773 梨木香歩著『秘密の花園』ノートより


梨木香歩さん、河合隼雄先生、そしてフランシス・ホジソン・バーネットに感謝を込めて。


舞台衣装製作の勉強のため1990年代に渡英。noteで国際結婚、海外で娘を3ヶ国語で育ててきた経験エッセイと共に、絵本などを発表してゆきたいです。画像イメージは全て私自身の撮影です。画像使用等についてはプロフィールをご参照くださいね。