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【卑弥呼】鬼道と外交で倭国大乱を鎮めた!?親魏倭王と称されたミステリアス女王

どーも、たかしーのです。

今回は、『卑弥呼』について、書いていきたいと思います!
学校の教科書では、前に紹介した相澤忠洋(旧石器時代の存在を発見した人)が、最初に人物名として登場するかと思いますが、

日本史上で最初に登場する人物名が、この「卑弥呼」と呼ばれた女王だったりします。
※教科書によっては「帥升」が最初に登場する場合もあります。その理由はのちほど。


卑弥呼が登場した時代背景

縄文時代から弥生時代へ

今から約2300年ほど前紀元前4世紀ごろ)。この頃、日本では、朝鮮半島からやってきた渡来人によって、稲作が伝えられました。

この稲作の伝来により、それまでの縄文時代を生きた日本人の価値観が劇的に変わることとなりました。これ以降の時代を弥生時代と呼びます。
また、この稲作によって、食料が安定的に供給できるようになり、日本の人口が爆発的に増えることとなります。

なお、どれだけ異なるようになったのかについては、この記事で紹介しています。

ムラからクニへ

そして、時が進むにつれ、稲作の技術は向上し、かつ米は長期保存がきくこともあって、余剰生産分を富として蓄えることができるようになりました。

しかしながら、その副産物として、富を多く持つ者と持たざる者との間で貧富の差が生じ、狩猟採集をしながら、お互い助け合って生きてきた縄文人(※)とは違う概念として、身分の別もおこるようにもなりました。
※この記事では、縄文時代を生きた日本人のことを指します。

これにより、弥生人(※)たちは、不作により収穫ができなかった米を略奪したい、稲作に必要な水源の利権を獲得したい…などといった理由から、別の集落と争うようになります。
※この記事では、弥生時代を生きた日本人のことを指します。

吉野ヶ里遺跡の物見櫓(wikipediaより)
見張り台が用意されていたことから、戦いに備えていた様子が読み取れる

また、このような度重なる争いや大規模な稲作を行うためのニーズによって、首長(リーダー)が登場するようになり、各地で首長を中心とした社会が形成されるようになりました。
※のちにこれら首長が王となって、クニを統率するようになります。

こうした社会変化に伴って、ぽつんぽつんとあった集落は、いつしかムラ(集落)になり、やがてクニ(集落群)へと発展していきました。
※このあと、中国の歴史書では「クニ」のことを「国」として表記され出てくるので、ここからの記載は「」に統一しますが、意味は同じです。

100を超える国に分かれていた倭国

この当時の日本の状況を、お隣の中国の歴史書である『漢書』地理志では、このように記されています。

夫れ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来たり献見すと云ふ。
【現代語訳】楽浪郡(※)の海の向こうに倭人がいた。100以上の国に分かれていた。定期的に漢に朝貢していたという。
※前漢の皇帝(武帝)が朝鮮半島に作った植民地のこと。現在でいうところの平壌(ピョンヤン)あたり。

引用:『漢書』地理志

『漢書』地理志は、中国の前漢の歴史書で、この部分だけではありますが、紀元前1世紀ころの日本についての記録が残っており、紀元前の日本について書かれたほぼ唯一の歴史書とされています。

このころ、中国人から見て、日本人は倭人(わじん)と呼ばれていました。
倭人の由来については、諸説ありますが、実はあまりいい意味ではないようです(顔に入れ墨がある人、背丈の小さい人、といった説あり)。
ただ、当時の中国は日本に比べて、文明化がスーパー進んでいたので、島国からやって来た人たちをそのように呼ぶのは、正直ごく自然な流れなのかもしれません…。

そして、この倭は、100を超える国に分かれていたと記されています。つまりは、紀元前1世紀ごろ、日本にはこれだけの国があったことになります。

最後に、定期的に漢に朝貢していたことが記されています。
朝貢とは、貢物を持って挨拶に行くことを言います。
ちなみに、このような中国が「親分」、周りの国々を「子分」とみなす関係のことを冊封体制(さくほうたいせい)と呼びます。

倭の奴国王「金印ゲットだぜ!」

その後、時間は進み、中国の歴史書『後漢書』東夷伝にも、当時の日本の状況が記されるようになりました。

建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自大夫と称す。倭国の極南海なり。光武、賜ふに印綬を以てす。安帝の永初元年、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ。桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐して歴年主なし。
【現在語訳】西暦57年、倭の奴国王が貢物を持って挨拶にきた。その使者は自分の身分を大夫と称した。この奴国は倭の南の果てにある。光武帝は奴国に紐付きのハンコを与えた。西暦107年、倭国王の帥升等らは、奴隷160人を献上し、皇帝にお目にかかりたいと願った。桓帝・霊帝の時代、倭国では平和が乱れ互いに激しく争い、長期間にわたり争いを統一する者がいなかった。

引用:『後漢書』東夷伝

「建武中元二年」は、西暦に直すと57年のことを指します。
この当時、倭の小国として奴国という国がありました。この国の王が朝貢をしたところ、時の後漢の皇帝であった光武帝が紐付きのハンコ(印綬)を与えたと記されています。

このハンコですが、なんと江戸時代になって、福岡県の志賀島(しかのしま)で発見がされました。

漢委奴国王印(wikipediaより)

このハンコには「漢委奴国王 (かんのわのなのこくおう)」という文字が彫られており、「あなた(奴国の王)を王として倭を治めていいよ。漢が認めます。」といった意味を読み取ることができます。

また、こうしたスーパー大国である中国にわざわざ出向いて、自分たちの領地を認めてもらうという行為があったということは、このころもまだまだ国どおしでの争いが絶えず、それゆえ中国に頼らざるを得なかったことが伺えます。

倭国大乱

「安帝の永初元年」は、西暦に直すと107年のことを指します。
この頃、日本では、倭国の王である帥升(すいしょう)が、中国に出向いて、生口(せいこう)という奴隷を160人献上したと記されています。

奴隷が献上品であったことがとても衝撃的ですが、過去これまでも朝貢をしていた日本にとっては、すでにこの年になる前までも、何人もの日本に住む人たちが奴隷として、中国に送られていた(贈られていた?)ことが推察できます。

また、ここでは初めて「帥升」という人物名が登場します。
この人物は、現時点で日本史上、外国史書に初めて名を残した人物であり、教科書によっては「卑弥呼」によりも先に、歴史上の人物名として登場します。

「桓霊の間」は、桓帝・霊帝という2人の皇帝の在位期間である2世紀後半のことを指します。
この頃、日本では「倭国大乱」と記され、統一的な支配者が存在せず、戦が頻発して国が乱れていたことが記録されています。

そんな乱れに乱れた倭国に突如登場し、女王として君臨したのが、卑弥呼になります。

『魏志』倭人伝に書かれた女王・卑弥呼

3世紀ごろの倭国

「卑弥呼」の存在については、3世紀後半に普の陳寿が記した歴史書である『三国志』の「魏書」の一節、通称『魏志』倭人伝に記録されています。

倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。
【現在語訳】倭人は帯方郡の東南の海の中にある山がちな島に小国を形成している。

引用:『魏志』倭人伝

まず、地理的な説明からになりますが、当時は朝鮮半島に帯方郡と呼ばれるエリアがありました。これは『漢書』地理志に登場した楽浪郡の郡南部のことを指し、3世紀ごろに分割され、こう呼ばれるようになりました。現在のソウル付近の地域で、当時は『三国志』でおなじみのが支配していました。

3世紀頃の朝鮮半島(wikipediaより)
紫色エリアが当時の楽浪郡、紫色エリアが当時の帯方郡

なので、倭国つまり、日本がこの辺にあったよ!ということを、この歴史書では帯方郡の位置をベースに記録されているということになります。

旧百余国。漢の時朝見する者あり。今、使訳通ずる所三十国。
【現代語訳】昔は100以上の国があり、漢の時代には、朝貢する者もいた。現在、交流が可能な国は30国である。

引用:『魏志』倭人伝

「旧百余国。…」というのは、『漢書』地理志ですでに書かれていた昔の倭国のことを指します。これが時が過ぎ、倭国大乱などを経て、現在は30国ほどに分かれているということが書かれています。

つまりは、国どおしが争いあった結果、おそらく併合などがさかんに行われ、国の数が100→30になったことが予想されます。また、負けた国の人たちは、おそらく殺されたか、奴隷にされたはずなので、もしかしたら、この争いで獲得した奴隷を中国に送って、朝貢していたのでは?ということも想像されます。

この30もの国ですが、これがかの有名な邪馬台国とされていて、それぞれの国どおしが同盟を結び、連合国家として成立していたとされています。

このあとの『魏志』倭人伝の記載には、なんと帯方郡から邪馬台国までのルートが記載されているのですが、この点については、また別の記事で書いていきたいと思います。

↓ 「帯方郡から邪馬台国までのルート」については、こちらをどうぞ。

卑弥呼、登場!

『魏志』倭人伝には、続けてこう書かれています。

其の国、本亦男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼と曰ふ。
【現在語訳】その国は元は男子を王としていたが、居住して七、八十年で、倭国は乱れ、互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。

引用:『魏志』倭人伝

はい、ついに中国の歴史書に「卑弥呼」という名前が登場しました。
と、同時に、男子が王では邪馬台国を治めることができなかったので、女子が王として即位したと書かれています。

この内乱のさなか、おそらくは多くの人に推され、連合国家の王になったのが、卑弥呼だというのです。

特技は鬼道です

鬼道を事とし、能衆を惑はす。年已に長大なるも、夫壻無なく、男弟有あり、佐けて国を治む。
【現在語訳】鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。

引用:『魏志』倭人伝

ここでいう「鬼道」とは、呪術や占いのことで、卑弥呼はシャーマン的存在であったと考えられています。

また、すでに高齢でありながら、夫はなく、表立った政治は弟に任せていたとあります。

このあとの記載では、卑弥呼は王になってからは、宮殿の奥深くから姿を現さず、1,000人もの侍女(女の召使い)を従え、卑弥呼の言葉は、政治を補佐する弟を介して、伝えられたと書かれています。

こうした内容から、卑弥呼が狙って、自分を神格化するよう、意図的に環境を構築していることがわかると同時に、こうした神の力でもってして、邪馬台国が治められたことも、推察できます。

卑弥呼「金印ゲットだぜ!」

そんな卑弥呼ですが、鬼道や自身の神格化によって国を治めるだけでなく、昔の国の王が行っていた中国との外交も、しっかりと行っています。

景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等らを遣はし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。…其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、…今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。
【現在語訳】239年6月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。….その年の12月、詔書が倭の女王に報いて、こう言う。…今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を与え、装い、封をして帯方太守に付託することで仮りに授けておく。

引用:『魏志』倭人伝

「景初二年」は238年のことですが、他の歴史書から考察して「景初三年」のことをされています。よって、この出来事は239年6月に起きたことであるとされています。

この当時、卑弥呼には難升米(なしめ)という大夫がいました。
大夫というのは、身分のことであり、他の記載から見ても、邪馬台国には厳しい身分制度があったとされています。こうしたことから、邪馬台国は当時としては、かなり先進的な支配体制が敷かれていたと考えられています。
※昔の歴史書の記載と比べて、王がじきじきに出向いていないことから見ても、なんとなく推察できる…。

そんな難升米たちのがんばりもあって、239年12月、卑弥呼は魏から親魏倭王(しんぎわおう)の称号を与えられることとなります。つまり、「あなた(卑弥呼)を王として倭の国を治めていいよ。魏が認めます。」ということになります。

また「金印紫綬」と記されている通り、金印には紫の紐がついており、帯方郡の役人を通じて与えられたとされています。

ただし、この金印ですが、現在でも発見できておらず、現物での存在がまだ確認できていません。邪馬台国があった場所も、いまだに畿内説と九州説で分かれているため、もしこの金印が見つかれば、場所によっては、実際どのあたりに邪馬台国があったのか?が判明するかもしれません。

ちなみに、卑弥呼が与えられた9年前には、すでに大月氏(遊牧民族)である王調波(ヴァースデーヴァ1世/インドのクシャーナ朝の王)へ魏から金印が与えられており、このことから、卑弥呼は当時のインドの王と同等の高い地位で見られていたことが伺えます。

また、このような金印を与えた背景として、当時の魏が、呉や蜀、高句麗とも対立をしていたため、倭国を重んじたとも考えられています。

ライバル・狗奴国(くなこく)

そんな魏から倭国の王として認められた卑弥呼ですが、彼女が治めていた邪馬台国にもライバルとなる倭人の国がありました。それが狗奴国(くなこく)です。

その八年、…。倭女王卑弥呼は狗奴国男王、卑弥弓呼素と和せず、倭載斯烏越等を遣はし、郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史、張政等を遣はし、因って、詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為りてこれを告諭す。
【現代語訳】247年、…。倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみくこ) とは平素から不仲であった。それゆえ倭国は載斯烏越(さしあえ)らを帯方郡に派遣して、狗奴国との戦闘状況を報告させた。これに対し(魏の朝廷は) 塞曹掾史の張政らを派遣した。邪馬台国に赴いた張政らは詔書と黄幢を難升米に授け、檄文を作って諭した。

引用:『魏志』倭人伝

247年、邪馬台国の使いとして、載斯烏越(さしあえ)らが帯方郡に派遣され、狗奴国と紛争状態であることが報告されています。

で、その狗奴国の王ですが、なんと、名前が卑弥弓呼(ひみくこ)。卑弥呼より一文字多くてわかりづらいですが、こちらは男の王です。

この報告に対し、魏は帯方郡の武官(軍人の官職)であった張政らを派遣。
直接、邪馬台国へと赴き、詔書と黄幢(黄色い旗さし)を難升米に授けて、檄を飛ばしたと記されています。

このように、魏はわざわざ役人を送るなどして、邪馬台国と狗奴国の和平をサポートしていたことが読み取れますし、これまでの卑弥呼による魏との外交政策がしっかりと効いていることもわかります。

卑弥呼、死す…

ですが、狗奴国との紛争のさなか、卑弥呼は亡くなってしまいます。

卑弥呼、以って死す。冢を大きく作る。径は百余歩なり。徇葬者は奴婢、百余人なり。
【現代語訳】卑弥呼が死んだので大きな墓を作った、径は100余歩である、殉葬された奴婢は100余人である。

引用:『魏志』倭人伝

卑弥呼の死因は、諸説あり、単純に高齢だったため、寿命か病で亡くなった説、この「以って死す」という書き方から、狗奴国との紛争によって亡くなった(殺された)という説などがあります。
没年は、『魏志』倭人伝の記載から、248年ごろと推定されていますが、根拠がなく、よくわかっていません。※なので、卑弥呼は生没年不詳です。

卑弥呼が亡くなったあとは、直径100数メートル(100余歩)の円形と思われる巨大な墓が作られ、奴婢、つまり奴隷100人以上と一緒に葬られたと記されています。

ちなみに、これが古墳時代になると、生きた人間ではなく、埴輪にとって代わられることになります。

おそらくは、古墳をつくるための労働力として、人間が必要になったからでは?と思われます。※お墓を作るたびに人間が減っては困るよね…。

おわりに

邪馬台国の女王・卑弥呼が亡くなったあとについても、魏志倭人伝にはまだ記載がありますが、この続きに関しては、また別の記事に書いていきたいと思います。

卑弥呼自身が謎多き人物であり、かつ文字としての記録が中国の歴史書にしか残っていないので、正直なところ、わからない部分は想像力で埋めるしかないのですが、この時代、長年内乱が絶えなかった倭国が男王でなく女王によって治まった武力ではなく呪力によって治まったというのは、とても興味深いなと思いました。

また、巫女としての印象が強い卑弥呼ですが、意外と中国との外交はしっかりと行っており、今回学び直してみて、ちょっとイメージが変わりました。

他にも、この歴史上の人物神話などをベースに、記事を書いていく予定ですので、是非フォローなどしてもらえるとありがたいです!

それでは!

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