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教#001|65歳でネットデビューした経緯(たかやんnote)

 SFC(慶応大学藤沢キャンパス)の村井純先生の最終講義の書き起こしnoteを、同僚がコピーして渡してくれました。ネット上にある文章だと思いますが、読み易くて、saku sakuっと、15分くらいで読んでしまいました。その昔、「電車男」が紙ベースになって、出版された時、読みぬくくて、苦労しました。「電車男」は、2ちゃんの書き起こしでした。記号で拵えたヘンなネコが、しょっちゅう出て来て、とにかく書き方のスタイルが特殊で「あっ、オレ、やっぱネット、無理だわ」と、simpleに思ってしまいました。

 65歳の現在まで、ケータイ電話を持たず、ネットとも無縁な日々を過ごして来ました。そこにいきなり、「日本のインターネットの父」と、言われている村井純先生の講義録が、ふって湧いたように、登場したわけです。
「インターネットが、世界をつないだことは完全に善です。インターネットによって、世界は、より一層、発展して行きます。インターネットに国境はありません。このインターネットを若い人たちは、守って行って欲しいです」と云った風な趣旨のことが、書かれていました。ネットの書き起こし文ですが、村井先生の熱が、read beween linesしなくても、伝わって来ました。熱がなければ、相手には伝わりません。熱があれば、イミフでも、伝わります。そこの基本は、私も守って来たつもりです。

 村井先生は、私と同じ歳です。アポロ11号が月に行った時、中学3年生でした。ウッドストックも確か、同じ年。ウッドストックは、翌年、映画で見ましたが、ジョーコッカーが、ビートルズの「With a little help from my freiends」を熱唱した時、みんなが助け合えば、この世界は必ず、良くなって行くと、私も信じていました。ベトナム戦争が終わって、ジョンレノンが、「Imagine」を作った時、世界は間違いなく平和になり、人類は、この先も限りなく進歩して行けると、超オプティミスティックに、単純に思い込んでいました。

 が、ジョンレノンが、暗殺されたあたりで、超オプティミスティックに、陰りが出てしまいました。ジョンレノンが、「Imagine」を作ったのは、世界は、この先も平和ではないから、平和な世界になることを願って、この曲を作ったんじゃないかと、考え直しました。ソ連は崩壊し、ベルリンの壁も崩れましたが、世界が平和になっているとは言えません。地球温暖化問題をはじめ、将来がバラ色だとはとても思えない、ネガティブな材料が目白押しです。が、日本のインターネットの父は、バラ色の未来を信じています。彼自身も仰っていますが、超オプティミスティックな方です。

 私の本業は世界史の教師です。今年は、日本史Aを教えました。日本史Aは、近現代史を教えます。幕末から太平洋戦争終了まで、終わらせて、戦後の民主主義、華やかなりし頃のことを、自分自身の子供時代の記憶も掘り起こしつつ、語ろうと思っていたら、新型コロナウィルスの問題で、いきなり授業がなくなってしまいました。そこは、多少、残念です。日本が起こした戦争は、明らかに侵略戦争です。日本の戦争責任を、教えなければいけません。キメツ(鬼滅の刃)で、マルタの用語が問題になりましたが、教科書には、731部隊が、中国人をマルタと呼んで、人体実験していたと、きちんと書いてあります。あったことを、なかったことにはできません。share しなければいけない歴史的な用語だと思います。日本史を、明るく、ポジティブ、オプティミスティックに、教えることはできませんでした。私の実力不足ってとこもありますが、教科書の書かれ方の違いってとこもあります。世界史の教科書は、最終的には、世界は平和になり、人類は幸せになると云うベクトルで、書かれています。ヘーゲルの世界精神の発展(あっ、このヘンは、ニワカです。突っ込まれても困ります)と云った風な史観で書かれています。

 インターネットは大発展しました。インフラも整いました。もう、これが後戻りすることは、ありません。昔、まだ電話回線につないでいた時(ちなみにネットにつなぐと、電話は使えませんでした)ガガピーピーと、音を立てて、ネットにつないで、立ち上がるのに7、8分かかりました。OSがMS-dosの頃、数学の先生が、ガガピーピーと、ネットを立ち上げているsceneを見たことがあります。動画は、スローモーションのコマ送りのような動きでした。もう、そんな時代ではありません。ネットは、sakuっと、瞬時につながる筈です。

 インターネットやITが築き上げる未来を、信じて生きるか、or notかと云う二択の問題だと思います。私のような年寄りは、時々、植物公園に出向いて、今でしたら早咲きの桃の花を眺めたり、午前10時のクラシック映画を見に行ったり、教え子が勤めているチョコレート屋に突然顔を出して家族にお土産の安いチョコを買ったり、女房に頼まれて、チラシ持参で、業務用スーパーに野菜を買いに行ったり、などなど、いろいろやることがあるので、そうそう悩んでいる時間もありません。インターネットを信じるか、信じないか。どうせ、この先の人生、そう長いわけでもないので、もう失うものは何もありません。村井先生の最終講義を読んで、私はインターネットを信じる決断をしました。このノートをプレゼントしてくれた同僚には感謝しています。人生は、ころっと、冗談から駒が出るように、いきなり変わったりするものです。

 が、いきなり小学生の人気No1のユーチューバーになるとかって、飛躍しすぎだろうって気もしなくもないです。村井先生のnoteだけが、ユーチューバーデビューの要因と云うわけではありません。4年前に卒業した、Tくんが、学校に電話をかけて来てくれて

「先生、いよいよ最後なんですね。在学中は、お世話になりました。どうか、これからもお元気で、お過ごし下さい」

と、言ってくれました。C大の軽音サークルで幹部になっているT子ちゃんが

「ニシモリ先生も、いなくなるんだ。寂しくなるよね」

と、ツィッターで呟いているのを、先日喋りに来てくれたスタジオアドバイザーのAさんが教えてくれました。2月28日、早退して帰ろうとすると、全く知らない生徒に

「先生、帰るんですか。今まで、お世話になりました。ありがとうございます」

と、感謝の言葉を述べてくれました。私は、自分を必要としている人間は、何処に行っても、必ずいると、固く信じ込んで(まあこれは宗教のような思い込みです)これまで仕事をして来ました。生徒に感謝されたりすると、あっ、本当に必要とされてたんだと、納得できる瞬間があったりします。

 去年の12月21日の午後2時頃、旧校舎の地学室が解体されるのを見ていました。地学室は、11年間、私にとって、私の部活の生徒達にとって、地学室で熱いライブを見せてくれた他校のバンドのみなさんにとっても、聖地とも言うべき空間でした。島忠の駐輪場の出口あたりで、watchingしていました。クレーンの先にドリルをつけて、そのドリルが、コンクリートの壁を突き崩して行きます。地学室の最後の壁が、崩れた瞬間、何とも言えない気持ちになりました。ドアーズの「The End」の曲が流れて来たような気がしました。

 自分の居場所がなくなって、新たな居場所を求めたんだと思います。インターネットを信じれば、ネットも居場所になる筈です(今、攻殻機動隊の草薙が最後の方で、死んでもネットの世界で生きて行くからと云った名セリフが脳裏に浮かびました)。あと、「The End」が流れて、ひとつの世界が終わったわけですから、新たにまた始まるべきだと云う気もします。終わりがあるからこそ、始まりがあります。1月15日の最後のエンディング曲は、ジョージハリソンの「All things must pass」の1枚目のA面の2曲目(あっ、これはレコード風の言い回しです)の「My Sweet Road」を流しました。人それぞれの、my stweet roadを模索して欲しいと云う気持ちを込めて、選曲しました。無論、私自身がmy sweet roadを歩み出すと云う気持ちも込めています。地学室の消滅、The Endの曲、教え子たちからの激励の言葉、そして村井先生の講義ノート、いろいろなパーツが組み合わされて、化学変化が起こり、ユーチューバーデビューしたわけです。下北のライブハウスで、月イチくらいで歌っている女の子が「あたしアイドルやってます」と、堂々と胸を張って言ってるように、私も、月イチのアップでも、自信満々で、「オレ、ユーチューバーだから」と自慢しますが、残された人生は、そう長くもないわけですし、もっと、巻き巻きで、upして行きます。応援お願いしまぁーすと、アイドルだったら言うと思いますが、まあ、濃いユーチューブ画像と、こんなgdgdの文章が許せるなら、気楽に楽しんで貰えばいいです。

(令和2年 弥生7日)

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