目醒めー記憶喪失、歩行不能、嚥下障害を経て/SLE(全身性エリテマトーデス)という難病とともに生きる(8)

<2017年11月>

 本章から先は、私の中で薄っすらと残っている記憶と、家族や友人たちから聞いた話、それぞれの会話の記録、画像、動画、その前後の処方せん、領収書、その他病院関係の書類から、情報を整理して、つなぎ合わせたものが、しばらく続く事となります。

 クリニックでウィルス性胃腸炎などの薬をもらって、週末を近くにある妻の実家で寝て過ごした。後の記録から思い起こされた事だが、私はこの間に、もらってきたばかりの薬が無い無いと言って、薬局に探しに戻ったりした結果、家にきちんと置いてあったという、ひと騒動を起こしていた。

 月曜の夜中の事だった。私は、自分の身体に異変を感じて起きた。舌が膨張している感覚になり、息苦しく感じたのだ。台所に行ってコップに水を注いでいると、義母が気づいて起きてきた。

 私は義母に、舌が膨張して気道が狭まっている気がすること、ベーっと出すと、勝手に四方に動いてしまうことを伝えた。義母は、そうまで酷いとは思わないが、舌がすごく荒れていると教えてくれた。義母が、寝ている妻を起こしに行き、妻にも同じ様に見てもらったが、私の感じている様な状態ではない様だった。
 とにかく私は、舌の異常に不気味さを覚え、すぐに医者に診てもらう必要がある気がして、かかりつけの病院に連絡をした。受付の担当に大まかな説明をすると、内科に繋げてくれた。自分のかかっているリウマチ科の主治医に、緊急で連絡を取れないかと懇願したが、それは叶わないという事で、とにかく朝になったら、すぐに外来に来るようにと諭された。

 私は、自分がある意味、身の危険を感じていることを必死で伝えたにも関わらず、何も手助けをもらえない事に、当然の事とは分かっていながらも、病院、そして、あくまでも職業での医者といち患者という、何とも頼りない希薄な関係を痛感し、ひどく落胆した。

 横で心配そうな眼で見つめる妻に、私はこう言った。

「このまま寝たら死ぬかもしれない」

「朝まで見てくれない?」

 翌朝、少しは眠ってしまっていたようだが、自分が息をしていて、妻の顔を眺められていることに安堵した。

 朝一番の診察に間に合うように、病院に向かった。通常通り、診察を待つ間に採血をしたが、その時、私の手が真っ赤な風船の様に膨張して見えたので、私はかなり動揺して、担当している方に、「手が真っ赤に腫れ上がってませんか?」と伝えた。

だが、「これぐらい普通ですよ」と、向こうも寧ろ私の言葉に驚く様な回答が返ってきただけだった。

 診察の番が来て、私は一連の悪化の経緯を説明した。主治医の担当している曜日ではなかったので、別の医師が診てくれたのだが、勝手が違い、どうも上手くコミュニケーションが取れなかった。その中で、私は、二ヶ月程前に処方されていた免疫抑制剤のアザニン50mgを、クリニックで貰った風邪薬などが効かないと思い込んだか何かで、自己判断で中止していた事を伝えた。すると、医師の表情は一変し、明らかに怒りの感情を抱いている様だった。同時に、私のこれまでの何年もの経緯を説明させられたのだが、それはカルテを見てくれれば分かったのではないかと、今でも少し疑問に思う。ふるえも出ていて瀕死の状態の患者に、まともな質疑応答を普通期待するだろうかと。
 ともかく、私の良からぬ行動に不快感を示しながらも、医師は一通りの診察を終えて、私に入院となることを伝えた。私たちは元々そのつもりで、多少の入院用の手荷物を既に持ってきていた。

 私の中で、これまでの努力が潰えるような虚しさと、やっと何もせずに、治療に専念できる安心感との入り混じった、妙な気持ちが渦巻いた。

*おくすり手帳を振り返って、改めて認識した私の体調の悪化
・2017年2月 プレドニンゾロン5mg(ステロイド)
・同年3月 プレドニンゾロン20mg 
この時は確か熱が高くなり、まずいと思って、自己判断で20mgに増量してから病院に行ったのだが、その事を当時の担当医は評価してくれたのだった。
・同年4月 プレドニンゾロン13mg(以降継続)
・同年8月 サリグレンカプセル30mg(シェーグレンなどの口腔乾燥用)
・同年9月 アザニン50mg(免疫抑制剤)
・同年10月 フロリードゲル(口腔カンジタ用、街の皮膚科)
・同年10月 アロビックス(脱毛予防、街の皮膚科)
・同年10月 サリベートエアゾール(人工唾液、街の皮膚科)
・同年10月 抗生物質、解熱剤類(街の内科クリニック)
・同年10月末 プレドニン23mg
・同年11月頭 抗生物質(街の内科クリニック)

〜次章〜押し寄せる不安の波


ありがとうございます!この様な情報を真に必要とされている方に届けて頂ければ幸いです。