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戦争の歴史は計量的に研究せよ:歴史学者デルブリュックの『歴史における数』の書評

20世紀ドイツの歴史学者ハンス・デルブリュックは、戦争の歴史に関する研究方法として即事批判を提案した研究者です。即事批判とは、物理的観点あるいは技術的観点から歴史上の出来事の真偽を客観的に評価する方法であり、現在ではデルブリュックに言及するまでもなく、歴史学の研究者に広く受け入れられているものです。

今回は、デルブリュックが1913年にロンドン大学で行った講演の原稿をまとめて出版した著作『歴史における数(Number in History)』を取り上げ、その議論の一部を紹介してみたいと思います。戦争の歴史において計量的アプローチの重要性が主張されています。

兵力を計量的に見積もる重要性

デルブリュックは戦争の歴史を研究する上で重要なことは、過去の出来事を数量的、計量的に把握することであると考えており、「軍隊だけでなく人口に関しても、数はあらゆる歴史的活動とその発展に非常に重要な意味がある」と述べていました。それだけでなく、デルブリュックは「戦争の歴史において最初に注目しなければならないことは、戦士の数である」と述べるなど、兵力の規模を確定することが戦争史の基本的な研究課題であると主張していました。その理由については以下の通りです。

「軍隊の規模を頭の中で想像しなければ、いかなる戦闘行為について判断を下すことは不可能である。1000名の兵士が直ちに行うであろう行動であっても、2万名の兵士にとっては戦略的な行動であり、10万名にとっては極めて困難な行動となり、30万名には実行不可能な行動である」

さらにデルブリュックは軍隊の戦略家にとって、戦場で敵軍に戦闘力で数的に優越することが非常に重要な課題であったと考えており、「最良の戦略とは、戦争の偉大な哲学者であるカール・フォン・クラウゼヴィッツが述べているように、まず戦域全体に、そして決定的地点で常に敵に優勢になることである」とも述べています。

つまり、戦争における軍隊の指揮官の決心を理解するためには、その兵力の規模をできるだけ正確に知っておく必要があるのです。

兵力を正確に特定することの難しさ

戦争の歴史を研究する人々にとって大きな課題は、この兵力を知るために依拠できる史料が乏しいか、あるいは信頼できないことです。デルブリュックの考えによれば、人々は一般的に小さな軍隊が大きな軍隊を打ち負かした物語を好む傾向にあります。そのため、軍隊の兵力を示す数量的な記述は信頼性が低くなります。当事者である将軍も不正確な数字の報告を利用して、自らの軍事的な名声を高めようとすることに利益を見出すかもしれないのです。つまり、味方の兵力が敵の兵力よりも小さかったと書き残したがるのです。

「ナポレオンは、1796年に行った最初のイタリア遠征で、3万名の兵を率い、8万名の兵力を有するオーストリアとサルデーニャを征服したと主張した。しかし、実際にはナポレオンは4万名の兵を率いていたので、4万7000名の敵軍よりも少しだけ劣勢だったにすぎない。フリードリヒ大王の回想録では、その栄光ある作戦行動について、より真実味のある記述を見出すことができるものの、戦闘の記述に関しては兵力を変えずにはいられなかったようであり、損耗の一覧を見ても、自分にとって有利になるように変更されている」

デルブリュックはこのような問題は近代以降の戦争を研究する場合においても生じ得るものの、最も深刻なのは古代から中世の戦争を研究する場合であると論じています。

前近代の戦争史を研究する場合、一つの史料しか利用できない上に、その数字の根拠が信頼できないことがほとんどです。古代ギリシアの歴史家トゥキディデスの『戦史』では、アテネ軍の兵力規模が記されており、また古代ローマの歴史家リウィウスの『ローマ建国史』では、国勢調査の記録が参照されており、これらの数値は信頼に足るものですが、このような数値が得られるのは非常に例外的なことです。したがって、歴史学者は史料に記された兵力の規模が妥当なのかどうかを判断できなければならないのです。

計量的比較に基づく推定の意義

歴史学者は信頼性が乏しい数値を見極めるために必須となるのが計量的比較です。これについてデルブリュックは「すべての数字は相互に比較できる。同じ時代、同じ出来事の数字だけではなく、最も遠い時代の数字もそうである」と述べています。ただ、デルブリュックは漫然と比較すればよいと述べていたわけではありません。物理的、技術的にどのような数値であれば実現性があるのかを知っていることが大事です。例えば、デルブリュックは近代的な軍隊の移動能力について次のように述べています。

「1870年の戦争で巨大な軍隊を一つの場所から指揮し、前線に沿って展開し、戦闘で組織的に行動させた(プロイセン陸軍の参謀総長)モルトケが、偉大な技能と天才的能力を発揮したことは誰もが認める事実である。モルトケがその職務を遂行できたのは、集結した部隊が非常に広い前線に展開していたこと、その展開のために9本以上の鉄道線路を利用することができたためである。また、何本もの石畳の道路が部隊の行進、特に荷馬車の行進を容易にしていた」

19世紀のモルトケの作戦計画は、近代的なインフラストラクチャーに依存しており、それがなければ40万名を超える兵力を一斉に移動させることは技術的に困難でした。このような技術的な制約を踏まえるならば、昔のアッシリア、ペルシア、ガリア、フン族、ゲルマン族の軍隊がそれを上回る大軍であったと見積もることは現実的ではありません。

5世紀にフン族を率いる指導者アッティラが70万名の兵を率いてライン川を渡河し、現在のフランスを侵略できたとは考えられます。アッティラは19世紀よりもはるかに粗末な経路を移動したことは間違いなく、70万名と伝えられる兵力は実際にはもっと小規模だったと推測されます。

兵力の計量的な比較は、移動だけでなく、給養の観点からも行うことができます。1870年、フランスのメスを攻囲するため、プロイセン軍は20万名の兵力を10週間にわたって留めました。当時の国境からさほど離れていないにもかかわらず、この20万名の攻囲軍を維持するために、プロイセン軍は膨大なパン、ラスク、ベーコン、食肉、干し草などを輸送しなければなりませんでした。

この輸送でプロイセン軍は鉄道を利用しましたが、後方地域から出発する貨車の数が多すぎたために線路が占有されて立往生になり、ようやく物資が駅に到着しても、それを下すための人手が現地で不足していたことが報告されています。さらに荷馬車は道路で交通渋滞を起こし、駅舎から攻囲軍に物資が届かない状況が長く続いたのです。

デルブリュックは、このような給養の技術的な難しさを知っていれば、戦争史における軍隊の兵力を推計する際に非常に参考になると論じています。紀元前5世紀のペルシア戦争でペルシア軍が数十万を超える大兵力を送り込んだというヘロドトスの記述は、軍隊の後方支援を考えれば真実味がありません。ペルシアからギリシアまでの距離を考えるだけでもそれは実現性が乏しいことだと言わなければならないのです。

ヘロドトスは戦闘が行われた場所や行軍の経路に関して正確な記述をしたと考えられますが、ギリシア半島に侵攻したペルシア軍の兵力は実際には2万5000名程度だった可能性があるとデルブリュックは推定しています。紀元前480年にペルシア軍は敵軍を撃破し、アテナイを占領することに成功しましたが、目の前にあるメガラに進軍することもなく、2週間もそこにとどまった意味を考えなければなりません。

それはペルシア軍の兵力が二か所の都市を同時に占領できるだけの規模ではなかったと推測されます。2万名程度の兵力しか有していなったのであれば、ペルシア軍がメガラの占領を避けた理由は軍事的に説明できます。

まとめ

計量的比較に基づく推定はデルブリュックの即事批判を支える重要な方法であり、戦争史の研究だけでなく、不確かな数字の妥当性を判断する際にも有効です。ただし、この方法を駆使するためには、推定の根拠となるような重要な数値を参照できることが必要です

デルブリュックは移動と給養という二つの要素に注目して歴史における計量的比較の意義を説明しましたが、発想を広げれば、兵力比に対する消耗比の割合、戦死者に対する負傷者の割合、戦闘が持続した期間、さらに戦場の広さなど、さまざまな数値を使って考察することが可能です。

今では特に目新しい方法というわけでもなくなっていますが、デルブリュックの研究は歴史学の発展において重要な貢献を果たしたことは間違いありません。また、計量政治学のような分野で研究する人にとっても興味深い議論ではないかと思います。

参考文献

Hans Delbrück, Numbers in History, University of London, 1913.
小堤盾、戦略研究学会編著『戦略論体系12 デルブリュック』芙蓉書房出版、2008年

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