安倍政権が日本の安全保障に残した遺産を考えるLine of Advantage(2022)の紹介
2006年から2007年、2012年から2020年にかけて日本の首相を務めた安倍晋三は、日本の安全保障に関する従来の戦略方針を大きく転換させました。それまで日本政治ではアメリカとの同盟を堅持し、自国の防衛負担を最小に留め、経済の成長に集中する吉田茂の路線が維持されていました。岸信介、あるいは中曽根康弘のように、吉田路線に修正を加えた首相もいますが、その修正は必ずしも抜本的なものではありませんでした。
しかし、2012年に発足した第二次安倍内閣は、アメリカとの同盟を堅持しつつも、自国の防衛力を増強する取り組みを推進するようになり、それまでの吉田路線とは異なる国家戦略を策定しました。ジョージタウン大学のマイケル・グリーン教授は、2022年に安倍政権の国家戦略をテーマにした著作を発表しており、その意義や限界を評価しています。2023年1月現在、まだ邦訳は出ていませんが、この記事ではその要点を紹介してみたいと思います。
Green, M. J. (2022). Line of Advantage: Japan’s Grand Strategy in the Era of Abe Shinzō. Columbia University Press.(邦訳『安倍晋三と日本の大戦略:21世紀の「利益線」構想』上原裕美子訳、日本経済新聞出版、2023年)
本書は序論を除くと7個の章で構成されています。第1章では、日本の地理的環境と歴史的背景を確認し、中国や欧米などとの外交関係がどのように変化してきたのか、日本が国益を追求するために、どのような戦略思想が形成されてきたのかを概観しています。第2章では、日本の安全保障にとって最大の課題となっている中国の問題を取り上げ、経済的相互依存と地政学的対立がどのように絡み合っているのかを考察しています。第3章では中国の現状変更の動きに対して日本が基軸として依拠している日米同盟の変化を考察し、この際に日本が米国の対中政策を積極的に形成するように働きかけたことを述べています。
第4章では、インド太平洋という地域概念を使って日本の国家戦略の特徴が海洋戦略の特徴と同じであると説明しています。第5章では、日本と朝鮮半島との関係に注目し、日韓関係の不安定性が日本にどのような困難を突き付けているのかを示しています。第6章では、日本が安全保障に関する制度改革がどのように進められてきたのかを記述しています。最後の結論では、アジアの安定と繁栄のために日本の戦略が持つ意義を指摘し、日本の指導者の交代、アメリカの衰退、中国の政変などが発生したときに、どのような影響が及ぶかを考察しています。
近年、日本で安全保障に関する政策や戦略の見直しが進められていることは周知の事実ですが、その背景や経緯に関しては、まだ十分に解明されたとはいえない状況です。この著作は、日本政府に国家戦略の転換を促した内外の要因を解明することに取り組んだ先駆的な研究成果であり、安倍政権が国際情勢をどのように認識していたのか、将来の情勢をどのように予想していたのか、どのような意図で方針転換を進めたのかを理解する上で参考になります。
著者の見解によれば、安倍政権の狙いは拡大し続ける中国の勢力に対抗し、東アジアの勢力均衡を保つために、アメリカとの同盟関係を強化するだけでなく、日本がより主体的、積極的な役割を引き受け、独自の戦略を練り上げることにありました。一般論として、脅威を及ぼしてくる国家への対応には、協力的姿勢を示し、その国家の現状変更に便乗するバンドワゴニング、他国との同盟を強化して現状維持を図る対外的バランシング、そして自国の能力を強化して現状維持を図る対内的バランシングの3種類に分けることができます。著者は安倍政権の国家戦略は、日米関係を基軸に据えつつも、より多角的な同盟関係、友好関係を発展させる対外的バランシングであり、それと同時に強力な対内的バランシングを進めるという側面があったと評価しています。
ただし、日本には主体的な戦略と呼べるものはなく、実態はただアメリカの戦略に従順に従っているにすぎないという見方もあります。著者はそのような見方があることを認めていますが、その上で反論を加えています。ここでは、そのすべての内容を紹介できませんが、例えば、日本がすでに没落しつつある大国であり、少子高齢化の問題、過剰に保守的な経営文化の問題によって、日本経済が低迷し、国際政治でも主体的な影響力を発揮できなくなっているという見方があります。この見方に対して著者は客観的に測定可能な要素だけで一国の能力を評価することは国際政治における影響力を判断する上で適切ではないと批判しています。アメリカ経済の生産力の割合が1945年から1970年にかけて50%から25%に下落していますが、アメリカの政治的影響力が直ちに下落したわけではありませんでした。国際政治における影響力を考える上で重要なのは、国家の能力の水準よりも、それを運用する方策であるというのが著者の立場です。
こうした著者の立場を妥当なものと見なすかどうかで、この著作全体に対する読者の評価は大きく分かれるでしょう。なぜなら、著者は安倍政権が策定した国家戦略によって、アメリカの対中政策を日本にとって有利な方向へと変化させたと主張しているためです。ここでは、具体的な例を示すために日米同盟に注目した第3章の内容を取り上げてみます。
安倍政権はアメリカが無条件に信頼できる同盟国であるとは決して考えていませんでした。2014年、バラク・オバマ大統領は東京を訪れたとき、日本の尖閣諸島が日米安全保障条約の第5条が適用される対象であり、つまりアメリカは防衛の義務を負っていると表明しました。しかし、安倍政権にとってオバマ政権が中国がアメリカに対して2013年に提唱した米中の「新型大国関係」を受け入れていたことは大きな気がかりでした。「新型大国関係」とは、アメリカと中国が対等な関係であり、両国の「核心的利益」を相互に尊重しなければならないという考え方でした。
中国がアメリカの対外政策に強い影響力を行使するようになる可能性を懸念した安倍政権は、対米外交で巻き返しを図る必要があると考え、2016年のアメリカ大統領選挙では選挙結果が定まっていない9月のうちに民主党のヒラリー・クリントン候補と会談を持ちました。しかし、11月に共和党のドナルド・トランプ候補が当選したため、安倍政権はすぐに会談の場を持つことにしました。著者は、安倍首相による首脳外交の努力があったからこそ、日本の立場に沿う形でアメリカの政策、戦略の考え方に影響力を及ぼすことができたと考えています。
もちろん、著者はトランプ大統領が安倍首相の言いなりになっていたなどと主張しているわけではありません。トランプ政権は安倍政権と北朝鮮をめぐる対応で立場が分かれることがありました。安倍政権はトランプ政権を批判することを慎重に避け、その外交関係の安定化を優先していたとも著者は指摘しています。アメリカの政策過程において日本に重要な影響力を持っていたという議論は興味深いところですが、日本の影響力を過大評価している可能性もあり、また客観的な評価尺度を設定することが難しい論点でもあるので、慎重な読み方が必要だと思います。
安倍政権の国家戦略そのものに関する議論に視点を移すと、先の引用文でも触れられている通り、日本がインド太平洋を中心に海洋国家の経済連携を構築してきたことが多面的に検討されています。アメリカが参考にした「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」は、安倍政権が2016年に提唱した構想であり、法の支配や自由貿易、航行の自由を保証するための国際的協力を推進するものであり、経済的繁栄と平和維持も重要な目標とされました。これは海洋国家として自由貿易を基礎とした開放的な地域経済を構築する戦略と理解することができますが、戦前に中国大陸で勢力を拡大するため、武力攻撃を繰り返し、排他的なブロック経済の構築を追求した過去の日本の戦略と極めて対照的であると著者は指摘しています。
この戦略が成功するかどうかは、「主要な海洋国家の地政学的連携と、中国の影響下に置かれる恐れがある中小国への直接的な関与を、いかに巧みに結合させるのか、それによって、中小国に覇権的な支配を及ぼそうとすることなく、地域統合に加わるように中国を促す新しい均衡を形成できるかどうかにかかっている」とも分析しており、これは安倍政権の戦略構想の難しさを上手く指摘していると思います(Ibid.: 106)。
国家戦略は、直ちに効果が出るものではないため、歴代政権が継続的に実施することが不可欠です。そのため、安倍政権が退陣してからは、次第に影響力が減退するという見方もあります。この論点に関して著者は冷戦構造がすでに消滅して久しいこと、かつての高成長のモデルが機能しなくなっていること、中国が台頭してきたことによって、もはや吉田路線は有効性を失っており、元の国家戦略に回帰することは難しくなっていると主張しています。安倍政権の国家戦略の特徴は、その内容を安全保障文書、演説、法令の中で具体化、制度化したことであり、それによって持続性を高めていることです。今後、再び戦略の方向を見直すとしても、安倍政権の国家戦略をどのように見直すべきかが議論の出発点となるとも予想されています。
この著作が日本語で読めるようになるのは時間の問題だろうと思います。日本では依然として安倍政権の業績に対する評価については多くの議論が続いていますが、これは外交、防衛の分野での業績をどのように評価すべきかを論じる際に広く参照される研究になるでしょう。
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