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チェヴェングールと幸福なモスクワ

 ロシアの伝統として、グノーシス主義的な純粋哲学者たちに混ざり、ドストエフスキーやトルストイといった文豪たちが、哲学者の一部としてそこに堂々と聳え立ってしまっているという厄介な事情があります。アンドレイ・プラトーノフもその系譜に属し、だだっ広いロシアの曠野のように深遠な哲学思想を展開したとされています。
 また、今回紹介する2つの作品において、スターリニズムという時代背景は重要です。鉄のようにカッチカチのイデオロギー支配の下では、ジーンズ穿いてマルボロ吸ってる国みたいにはノビノビした表現ができないからこそ、かえって優れたひねり技の芸術が生まれたりするとかしないとか……。


これはユートピアなのか?

 まず『チェヴェングール』。これは大変長い!
 とはいえ、プラトーノフの長編小説の中では唯一完結したものであり、ドラマ性に満ち、フィナーレもきちんと締まっています。辛抱してページを捲り続ければ必ず桃源郷(チェヴェングール)に辿り着けると信じてくださいな!
 まず、表現面での特徴として、登場人物のセリフが粗野で乱暴、品がないというのがありますね。「〇〇ったれ!」とか。まあ、主人公のサーシャとか、モスクワのインテリであるセルビノフとかいうような例外もありますけどね。
 セリフということで言えば、盟友コピョンキンの「ローザ!」や、チェヴェングールの責任者チェプールヌイ(日本人)の「教えてくださいな!」はちょっと笑いました(「教えてくださいな!」って、やっぱ原文では「スカジチェ・パジャールィスタ!」ですよね?)。

 ストーリー構成は、

●生い立ちが語られる第1部
●共産主義をそれぞれ変てこなやり方で目指す奇妙な村々を冒険する第2部(コメディ要素があり、諷刺小説っぽい?)
●主人公サーシャの義弟(プロコーフィ)が指導する共産主義ユートピアのチェヴェングールに辿り着く第3部

 の3部仕立て。

 はじまりからどこか暗澹として辛いですが、終盤もなかなかしんどい展開。泣かせにくるオーラスもググッ。
 これ、付録の小冊子が気が利いていて良いですね。主要な登場人物一覧や、舞台となるヴォロネジ県のマップも付いていたりして。ヴォロネジは、日本でいえば北海道ぐらいはありそうで、少なくとも九州より広い。
 1つ気になったのが、付録に掲載されているイタリア人映画監督=ピエル・パオロ・パゾリーニによる書評の一部分。彼によれば、第1部はロシア文学屈指の美しさを誇るが、それ以降は単なる「巨大な備忘録」にして残り物だそう。え、そうですかね? 私はむしろ、第1部はやや冗長に感じられました(とはいえ、後の第2部と第3部の橋脚となるべきエレメンタリーな部分がここで語られるので痛し痒し)。ドン・キホーテさながらのコピョンキンと行く痛快な冒険譚の第2部、それから次第に壮絶な展開に向かう第3部、これらこそこの作品の本質的な部分だと思いましたがね。特に、物語の節々にあった枝葉が合流する第3部こそ圧巻かと……。うーん……。
 閑話休題。登場人物としては、やはり主人公サーシャの優しさと弱さに心惹かれます。決して怒らないのですね、彼。不遇の人生なのですが。生命を持たないモノにさえも同情したり、思いを馳せたりしますからね(実はその気持ち結構分かるんだけど)。キリストかと見紛うばかりの自己犠牲の精神も持ち合わせています。後で述べる『幸福なモスクワ』のサルトリウスのように「他者が自分の中にいつでも入ってこられるように」と、自分の中のエゴを空洞化することまで試みるのですね。これは、翻訳の難しい観念とされる「タスカー(空無)」とも結びつくわけですが。
 それと、サーシャの胸の中に現れる無意識の番人のような「魂の臣官」。彼に語り掛けることなくじっと彼を見つめる役割を果たしたり、また、彼が女性と交わる時にそれは泣いてしまったりするんですよね。「わたし」の一部でありながら「わたし」ではない。フロイトにこじつけるなら「自我」でも「意識」でもない領野。
 そして、少々難しい部分として「自然」と「作為」の対立が出てきます。これは、『チェヴェングール』の舞台である革命~ネップ期のソ連と結び付けて論じなければならないのですが、「自然」は文字通りの自然を意味するとともに、人間の様々な営みも、ボリシェヴィキ(共産党)の指導なくばそのまま「自然」ということになります。対して「作為」は、人間の人工的なものも表すと同時に、ボリシェヴィキのしかるべき力を加えて人間の歴史を共産主義社会に向かわせることをも表象します。普通の「自然」と「人工」の対立軸は分かりやすいとして、共産主義イデオロギーが介入する部分は少々分かりにくいですかね。
 以前、評論家の宮崎哲弥氏が、マルクス主義に対し「そもそも資本主義の崩壊と社会主義への移行が歴史的必然であるとすれば、なぜ人々が革命運動に邁進しなければならないのか。マルクスの理屈にしたがえば、ブルジョワが悪徳に浸っていようが、プロレタリアートが蒙昧の中で惰眠を貪っていようが、史的必然性によって体制は移行するんでしょう」という旨のことを仰っていました。もし本当に歴史法則により必然的に資本主義は打倒され、社会主義、さらに共産主義に移行するのであれば、どこまでが「自然」的で、どこまでが「作為」的なのか。なかなか難しいところ。
 マルクス主義に基づく革命の理論は「歴史的な必然性を、意図をもって加速させる」というようなことなのですかね。最近では、資本主義をあえて無理やり加速させ、来たるべき未来の歴史段階を早く迎えようとする哲学者ニック・ランドの「加速主義」なんてのもあります。これはあまり共産主義的な思想ではないのですがね。
 ほかにもニコライ・フョードロフやアンドレイ・ボクダーノフといった近現代ロシアの思想家からの影響もあったりして、語るべき部分は多いのですが、だいぶ長くなりそうなので、それらにつきましてはまた別の機会に。
 ということで、この小説についてまとめさせていただきますと、難読にして長大ですが、読み切ってしまえば高山を登り切ったような達成感があると言えます。何より、プラトーノフ唯一の完結した長編なのですから、読みにくい表現にめげずにぜひ頑張ってほしいです。ただし、比喩表現で暗に共産主義を批判/揶揄しているような箇所もあったりして、思わず素通りしてしまいそうなトラップが仕掛けられているので、一度読んだだけでは零れ落ちてしまう箇所も多いかと。レッツ二度読み、三度読み(←自分に言い聞かせる人)。

都会の幸福

 次に『幸福なモスクワ』。ちなみに、『都会の幸福』という曽野綾子の本もありましたね。
 こちらは、ヴォロネジ県というカントリーサイドで繰り広げられる『チェヴェングール』とは対照的に、モスクワという大都市のなせる業か、登場人物のセリフに品があり、比較的自然な会話が多いです(翻訳も関係ある?)。『チェヴェングール』は、どことなく劇画調のセリフだったということですかね。
 『幸福なモスクワ』のほうは、激しい展開がない分、なだらかなストーリーが比較的淡々と進んでいくということでもあるのですけれども。都会のドラマという感じです。
 さてさて、唐突ですが音楽の話。
 ミュージック・マガジン誌の2024年2月号はZAZEN BOYSの特集で、向井秀徳のインタヴューが掲載されていました。私の周囲では、NUMBER GIRLや向井秀徳のファンってちらほらいたんですけれども、私自身は特にファンというわけでもなかったです。勿論、気になる存在ではありました。
 ということで、ZAZEN BOYSとして12年ぶりに新譜をリリースするという彼のそのインタヴューを読んでみました。久しぶりに見る向井氏は、白髪も目立ち始めていましたが、相変わらず俺イズム全開の通常運転。しかし、彼の「東京に対峙するアティテュード」に、私、少し共鳴するところがあったのです。
 別に何てことのない、大したことない話なのですが、彼は、電動自転車で杉並区や練馬区をぷらぷらするのが好きなのだそうです。それも、銭湯へ行くのが目的で(笑)。で、少し行くと、同じ住宅街でも何か微妙に空気が変わる。そういうのを独り、身体に風を受けながら味わうのが好きであると。東京に限った話ではないのですが、ただの住宅街をススーッと抜けて行くのはとても脳を刺激するというか、過去の思い出と突然リンクしたりするんですよね。個人的経験からいっても、杉並区や練馬区の辺りって、自転車でぶらーっとすると、都会の果ての生活感を胸の中にそのまま感じられるような、不思議な空無の味わいがある気がするんですよね。向井氏が言うように夕暮れ時も勿論いいですし、夜もまたしかり。
 で、向井氏は、見ようによってはありきたりかもしれませんけれども「東京における孤独」を吐き出すんです。自分に関係なく通り過ぎて行く幾多の雑踏たち。そこに埋もれる自分。でも同時に彼は「孤独上等!」と言ってそれに対峙するんです。この半ば開き直りともいえるアティテュード、いかにも向井氏らしいですが、彼のドローイングする冷凍都市での諸行無常な日々における、ある種の錨とでもいえるべきものなのではないでしょうか。
 小説に戻りまして、モスクワは、ロシア革命後の1918年にサンクトペテルブルクから首都機能が移転され、物語の舞台となった1930年代の人口は400万人程度、現在は東京23区を超える1200万人ほどを数えます。
 社会主義時代に「新しい人間像/新しい都市像」とともに開発が進み、特に、あの悪名高いスターリニズムのもとではありますが、未来への期待を背負いつつ近現代化が一気呵成に成し遂げられます。西欧に比して近代化が遅れたゆえの、大急ぎでのアーバナイズ。『幸福なモスクワ』においても、幾何学者にして市の土地開発技師であるボシュコが進める都市計画に加え、主人公のモスクワ(都市名のみならず女性主人公の名前でもあるのです)自らが後々従事する地下鉄工事も描かれます。ほかにも、街灯、水道管、下水道管、家々の灯り、高層住宅、公園、路面電車、自動車といった、新しい時代の都市としての発展を印象づけるものたちによって街は逐次彩られていきます。
 そして、この新しい都市の姿と不思議なミッシングリンクをとり結ぶ、主人公モスクワの移ろいやすくふらふらとした性向。魅力的なモスクワは、男性にすぐに気に入られながらも、身が定まらずに気まぐれに動き、共産主義への情熱に駆られたこの都市にサッと消えたりします。
 まず、17歳~18歳頃に結婚した夫の元を無言で立ち去り、その後に色々ありつつ、若きエンジニアのサルトリウスと相思相愛になりながら、ここでも彼女は「あたしは何かが残念なの……どれだけあたしが生きても、あたしの生活は自分が望むようには決してならない」「愛は共産主義にはなれない。あたしは考えて、考えて、わかったんだ、なれないって……愛することは多分しなきゃいけないし、あたしはそれをするでしょう、それは食べ物を食べるのと同じこと、──でもそれは、ただの必要性なのであって、一番大事な生活というわけではない」と去っていきます(その後、また一度だけサルトリウスと再会はするのですが)。
 共産主義とはつまり、モスクワにとって都市生活における至上のものでありながら、愛しても愛されてもそれへの欲求は満たされず、決して辿り着けないものということなのでしょう。
 『幸福なモスクワ』では、其処此処で「都会の孤独」(と、それを引き立てるものとしての都会での雑踏や諸活動)が描かれます。モスクワ中心部の高層住宅の7階では、30歳のボシュコが孤独に苛まれつつ、主人公のモスクワの愛を得られないことを嘆き、泣いたりもします。一方、モスクワは、新しい建物の5階に住まいを移った後、孤独の中、それを半ばエンジョイするかのように、窓から街を見つめ、水道ポンプや杭打機、モーター、機関車、そういった機械たちに思いを馳せ、まるで『チェヴェングール』のサーシャになったかのような空無を胸に抱えて幾夜を過ごします。
 それから、物語の終盤、若きエンジニアのサルトリウスは、モスクワともう結ばれることはないことを悟った後、「僕ひとりが何だというのだ?! モスクワの街のようになろう」と言って、都会の雑踏の中にまみれ、結果、別人として人生をリスタートします。まさに向井秀徳の「孤独上等!」ですね。なんだかんだ言って、向井氏、結構、東京のこと好きなんですよね。サルトリウスが「モスクワ」を愛したように。
 
『幸福なモスクワ』は、未完の作品とはいえ主人公モスクワの物語としては完結しており、サルトリウスの人生がリスタートして、しばらく経ったところで筆が置かれたままとなっています。
 全体的に、『チェヴェングール』に比べればかなり読みやすいです。特に、前半ぐらいまではかなり軽快に読み進めることができます。未完の作品とされるだけに、模糊とした結末にやや消化不良の感はありますが、まあ、そういう終わり方なのだと納得してしまえばさほど気になりません。

いま振り返る社会主義

 以上のように、両小説それぞれかなり毛色の異なる作品となっているのですが、両小説の解題に当たって欠くことのできないキー概念は「社会主義」です。ソ連崩壊から30年以上が経ち、いま社会主義あるいは共産主義について考察を行う意義は何でしょうか。言い換えれば、両小説を強固に貫くバックボーンとなっている「ロシア革命」とは一体何だったのでしょうか。
 今となっては、資本主義以外の社会生活を私たちが送ることを想像しづらいぐらい、資本主義は私たちにとってなくてはならないものとなっています。それは、人々の尽きない欲望をエンジンとして、日々止まることのない回転をし続けます。止めてしまえば、自転車で真横にズッコケるように、私たちの社会がすぐ立ち行かなくなるであろうことは容易に想像し得ます。
 とはいえ、私たちは、ひたすら経済が成長し続けることに疑いを挟むことなく(実際にひとりひとりがそれを意識しているか否かはともかく、少なくとも、形式的にはそのようなイデオロギーです)、日夜労働を続けていますが、本当に経済は成長し続けなければいけないのか。そもそも、限りあるリソースの中で、資本主義経済は一体どこまで成長することができるのか。近年では、「人新世」という新しい切り口からのアップデートを経由して、マルクス再評価の動きも活発となっています。
 確かに、ロシア革命に端を発する社会主義の物語はド派手にスッ転び、21世紀を待たずして呆気なく閉幕を迎えました。大雑把に言ってしまえば、もはや誰もあの頃には戻りたくないでしょう。しかし、この壮大な失敗は、今の超強力な資本主義社会に生きる私たちの立ち位置を様々な場面で照射し、必要な批判的視座を確保してくれるのではないでしょうか。
 
「見えざる手」により広がり過ぎる格差、理論上際限なく増殖し続けるマネー──これらの過熱に対する冷却剤ないしブレーキとしての有効性は失われていないのではないでしょうか。革命を起こすとかそういうことではなく。
 ロシア革命自体は、当時の旧態依然とした帝政ロシアに対する刷新の運動の結晶でありました。今回紹介した両小説において、ロシア革命から内戦期を経たイデオロギー支配の時代は、民衆たちにとって希望と不安と、時として恐怖も入り混じりながら、しかしながら全体的に共産主義への情熱が注がれたものとして描かれています。
 これらは、歴史上の過ちとして単にバッサリとうち捨てられるべきものなのか否か。少なくとも、ロシア革命及びそれに続く一連の国家的社会実験が目指したものは、結果として招かれた悲惨な社会主義陣営の末路とは決して同じではなかったでしょう。
 サーシャやモスクワたちの生きた世界から約100年。プラトーノフが彼らに託して紡ぎあげた、ダイヤの原石のような言葉たちに感じられる息づかいに耳を傾けるならば、私たちは決して小さくないヒントをきっと得られるはずです。

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