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シャッフル航法/円城塔

創造力を高めるためのスキル。
そのスキルがちゃんと身についていないまま行う創造的作業は結果に繋がりにくい。

そういうことが往々にして起こってしまうひとつの要因として、創造の道具としての言語の力を僕らが過小評価していることがあるのではないか。
言葉は僕らの考えを縛る。どんな語彙を使えるかで何を考えうるかの範囲は変わってくる。
また、言葉の巧みな組み合わせで、その限界を突破できるかどうかも、言語化のスキルによって随分異なる。

当たり前のことばかりしか考えられないのは、当たり前の語彙と当たり前のそれらの組み合わせしか用いることができない貧相な言語化力のせいだったりしないだろうか?
人それぞれの言語化力の違いが、その人にとっての可能世界の範囲を狭めてしまいもすれば、広げてくれもする。

そんなことをあらためて思ったのは円城塔の短編集『シャッフル航法』を読んだからだ。

この3日ほどの間にサクッと読み終えた、この短編集に収められた作品それぞれで作者は、人間が思考できる範囲がこんなにも広いのか、ということを感じさせてくれた。

記述とプログラミング

言葉によって表される「可能性」と「不可能性」。
その2つの間で読み手である僕らの頭のなかに浮かびあがる、さまざまなイメージを巧みに交差させ、バランスよく動かしながら創造的に描きだした世界は、何とも奇妙な世界だ。

例えば、もとより科学の素養のある著者は、言語による記述とプログラムを重ね合わせた世界を描く。
何かを言語で描写すること、何かしらのプログラミング言語の記述を用いて何かの動きを発生させること。記述が先か、動きが先か。その前後を問わなければ、言語による描写とプログラミング言語による記述はそれほどの違いはない。

「おはよう、マーク」。野実実がそう声をかけ、マークはびくりと身を硬くする。枝から下りて、木を中心とした螺旋を描くように幹の裏側へ回る。ネジの溝を切るように幹をくるくると駆け下りていき、眼前に立ちはだかる壁のように現れた地面にぴよんと跳ね出る。

マークというリスの動きを、野実という飼い主が見たものとして小説的な表現として描くとこのような記述になる。

見つけたブナの実をマークがどうするのか?という想像も同様に、こんな風に描くことができるだろう。

マークはその角張ったブナの実を、きっと地面に埋めるだろう。そうしてそれを埋めたきりで忘れてしまうだろう。何かを忘れたことだけが幽かに記憶に残り続けて、痕跡を頼りに地面を掘ってみることになる。

見たものの描写と想像のイメージの描写も小説的な表現として、どちらも可能だ。

だとしたら、それは何らかの対象にこちらが意図した動きをさせるプログラムの記述と大して変わりはない。

実際、マークと呼ばれるリスはそうしたプログラムによる仮想の世界に生きている。

マークの暮らす森は、見栄えのしない黒く四角い窓の中に1次元的に広がっている。色とりどりの文字が流れるだけの黒い窓だ。文字だけであり、光景はない。その光景は文字だけからできている。愛くるしいマークの姿も、ただの言葉による描写にすぎない。一応試みたことはあるのだが、案の定、CGは野実の手に余った。二次元にせよ三次元にせよ。だから躍動的に走るマークの姿は、「躍動的に走るマーク」という行動を示す文字列が、ランダムに呼び出された結果にすぎない。

この短編のタイトルは「リスを実装する」である。
マークはプログラムによって生み出された仮想のリスだというだけではない。その仮想化はヴィジュアル化という形を取らず、言語化という形でプログラムされている。プログラミング言語がマークをはじめとする、その森に住むリスたちの生活を人間の言語で記述する。

もちろん、ここでの生じる問いは、では、この小説内でマークについての記述をしているのは誰か?ということになる。野実によって書かれたプログラムか、はたまた小説家なのか?

その存在、その行動は誰による記述の結果なのか?

もちろん、その問いに関しては、小説の記述がマークのみならず、野実に関する記述もあることから、前者の「野実によるプログラム」ではないことがすぐにわかる。

すぐにわかるが、ただ少し気持ち悪さも残る。
こんな記述があったりもするからだ。

マークたちは気づいていないが、実のところ、マークたちがこれまでに地面から掘り出してきた木の実の総数は、マークたちが埋めた木の実の総数よりも大きい。

この数の違いは、野実によるプログラムの問題だろうか。木の実の数の違い管理を行うプログラムが書かれていないだけだろうか。

まあ、そう考えるのが妥当なのだろうが、当の野実がこんなことを考えはじめるから、話がややこしくなる。

目を瞑っている間、自分は宙に浮いているかも知れないし、夢見る時は別の宇宙にいるかも知れない。誰かが死んでいる間にさえも、他の人間たちにとっては、この世の中が存在するいることだってあるわけだから。きっと森には、野実がまだ見かけたことのない生き物がたくさんやってきていて、木の実を埋めては忘れていくのだ。

果たして、この「野実がまだ見かけたことのない生き物がたくさんやってきていて」というのは、いったい誰がそのプログラムの記述を行なったことによって生じるのだろうか? 野実自身がプログラムは行なったが、ただ、その結果を見てはいないというのもおかしい。
野実によるマークのプログラムの記述は、マークが何時に何を行うというルール化がされているので、もし野実自身によるプログラムであるのなら「見かけたことのない生き物」を実際に見たことがなくとも、その生き物が何を行うかもわかっているからだ。

夢を見る、夢を記述する

野実は、夢の中で起こることという連想から、マークに夢を見る機能を実装する。しかも、その新しいプログラムは、「夢を見る」の実行中に、さらに「夢を見る」を実行可能で、夢の中で夢を見ることができるようになっている。

夢の実装となると、大げさに聞こえるかも知れないが、マークC10に付け加えられたのは、dreamという名の1つの変数とそこに格納された整数にすぎず、他には何も変わっていないし、その変数は1人で増減しているだけで、他から参照されることもない。「これは夢だ」という一文が、お話全体を夢にしてしまうのと同じ程度の効力を持つが、その程度の効力しかない。

小説内では「これは夢だ」という記述がなければ、その記述の状況が現実の出来事か、夢の中の出来事かわからない。それはリスのマークが本物のリスか、プログラムによって実装されたリスかがわからないのにも似ている。

そもそも小説とプログラムがとある対象の動きを記述するという点で似てるからでもある。そして、夢もそれらに似ている。
だから、小説のなかの夢は「これは夢だ」という記述がなければわからないし、プログラムの中の夢もおそらく同様だろう。さらに夢の中の夢も同じようにわからないとしたら、夢が夢であるか現実であるかの区別は相当つきにくくなる。それはマークが本物のリスか、プログラムのリスか、夢のなかのリスかが区別がつかないのにも似ている。

"「これは夢だ」という一文が、お話全体を夢にしてしまう"という小説、いや言語の世界において、そこで語られる人物は、マークが本物かプログラムか夢かが判別できない記述であるのと同様に、本物であるかが確定できないのではないだろうか? 長く語り継がれてきたモーセや聖徳太子などの実在が疑われるのと同じくらい、疑わしいし、たとえリアルタイムで語ったように思えてもそれはボットかもしれないのだから。

夢を無限に重ねて

幾重にも重なった夢があったとしたら、その様子を描いた記述からは、夢を見ている本人ならともかく、どこが現実かを客観的に判断することはむずかしいだろう。

1000年後に目覚めたという夢から覚めて100年後にいる。こんなことは海狸(ビーバー)の仕業に決まっているので慌てない。100年前と何も変わらぬ様子の部屋のベッドを下りて対岸の冷蔵庫の扉を開け、内部が円筒形の物体に満たされているのを観察する。ビールの缶と、ビタミンらしきアルファベットの記された缶。

これは別の短編「Beaver Weaver」の冒頭からの引用。
主人公は1000年後に目覚めたという夢から覚めて100年後の世界にいるというのだが、「これは夢だ」という記述がないので、その状況が夢かどうかも判断できない。
いや、その意味では、この主人公自身、リスのマークのようなプログラミングによる記述によって生じた存在だという可能性だってある。

もちろん、ここで夢なのか、プログラムなのかを問うことに意味があるのは、夢であるかプログラムであるかという2つの違いに意味がある場合だ。
かつ、それが小説の登場人物との間に違いがあるとすればの話だが。

とにかく、夢の中か、プログラム上なのか、はたまた小説の中でなのか、わからないが、その主人公の「僕」は「海狸だ。海狸がやってきたんだ」と叫ぶ。

僕はそんな種類の叫びではなく、せめて循環を望んでおきたい。明日の朝陽が、人の叫びと関係なく今日と同じようにと願っている。海狸が今も熱心に歯を立てるのは、そんな種類の願望だから。これが夢の中の夢の中の夢の中の夢であるような樹状構造に噛みついて、伐り倒して集めてダムを作る。堰き止められる論理構造。そこへと溜まる僕らの夢。積み重なって重なり合った多重の夢。束の間、人を乗せた舞台の形をとった記述劇場。海狸たちは、無限を超えた無限の無限の無限の無限を齧り倒しては、こうしてここへ平たく並べる。成長しすぎた僕らの無限退行や無限進行を伐り倒して野晒しとする。

そう。主人公の「僕」は自分がもはや、どの夢の中にいるかも、自分が見ているものが夢か現かもわからない。
それはdreamを実装されたマークも同じだし、そのマークに夢を見る機能を実装した野実でさえ同じかもしれない。

冒頭書いたように、そもそも言葉によって思考可能な世界を限定されている僕ら自身、彼らと同じように夢やプログラムの中に閉じ込められているのと同様だし、彼らのようにそのプログラムや夢や言語化された表現に介入していく力がない分、よっぽど狭い世界に閉じ込められているようなものだ。

記述済みの世界

あらかじめ用意された言葉、ありきたりの夢、そして、あらゆる動きを計画的に発動するよう自動化プログラムによって、僕らは誰かが仕掛けた想像の範囲内を超え出ることはないのかもしれない。

野実はこんな風に考えた。

妻との別れは自然現象だった。あらゆることがそうであるように。息子との別れもそうだ。自然の内で起こった出来事であり、自動的に進行してしまったことだ。自動化に追いつかれたせいでそうなったのだと、野実はなかば真剣に考えている。息子には父が、ルーチンワークに囚われた面白みのない人物に見えていたのではないかと思う。言葉がただの音になり、生き生きとした表情がピクセルに塗りつぶされていき、量産品と何も変わるところがなくなる。会話が定型文の組み合わせに陥り、新しい単語は現れなくなる。

会話が定型文になってしまうこと、それはボットになることと変わらない。

ボットのような自動化が高度になり、それに追いつかれたら、僕らはみんな「ボットみたいだね」と言われるのだろうか。それとも、ボットと僕らは区別がつかなくなって、ボットみたいであることはもはや悪口でさえなくなるのだろうか。

妻や息子に会えなくなった野実は、こんな風にも思っていた。

マークには自分に似たところがあると思う。しかし、マークは妻にも息子にも似ていない。

マークに似てしまった自分と、マークに似ていない妻と息子。そこに両者を隔てる壁が生まれた。
夢やプログラム、小説が何だかんだ言っても区別がつくのは、そこに越えられない壁があるからだろう。

しかし、問題は、夢やプログラムや小説などの記述の壁を乗り越えるような創造的な記述力がなければ、マークや野実のような側に閉じ込められ、壁を越えてこちら側には来れないということだろう。

言葉という創造のツールを使いこなせるようにならないと、すぐに自動化された世界に閉じ込められてしまうことなる。いや、もう閉じ込められているかもしらないけど。


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