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普通にできることのレベルを上げる

フォロワー数が30000人を超えた。

10000人を超えるまで8ヶ月、次の20000人までは6ヶ月だったが、今回は5ケ月で30000人に到達。ペースが上がってるのは、noteそのもののユーザーが増えているからなのだろう。

とても万人向けとは言えない内容のこのnoteに、その3倍の3万人のフォロワーがいるのはいつも不思議に思いつつも、現にそれだけの方が気にしてくれているのだと思うと、何ともありがたい気持ちになる。

とはいえ、フォロワー数が30000人を超えたとて、僕の書くことに何か変わりがあるわけではない。
これまで通りの感じでそこそこのペースで更新を続けたい。

コンフォートゾーンの外に

さて、前回「大人の学び」ということについて書いた。

若い頃は多くの人が学ぶが、大人になると学ぶ努力が極端に減ってしまう人が多いということについて。
言うなれば、それは積極的に自分を変えようとしないということだと感じている。
一度身につけた専門領域からなかなか外に出ようとしないということだ。
大人になって何か1つできることができると、自分自身のコンフォートゾーンに留まって、未知の領域に積極的に乗り出そうという努力をしなくなってしまう。進歩から遠ざかってしまう。

自分のできる領域から外に出ること。
決して快適ではない、いろんな苦労が待っている外側へ踏み出してみること。
なんなら転職してでも自分のあり方を変えてみるなんてことも1つの手だと思う。それは極端だし、そうそう頻繁に使えることではないから、学びの頻度を高めるという意味では効果は薄いのでおすすめの方法ではぜんぜんないが、かといって、内に留まったままで自分自身で自分を変える努力がなかなかできない人も多いだろう。

その意味では、転職を極端な例として、何かしら自分のコンフォートゾーンから外に出るというリスクを少なからず採ることが必要で、そうでなくては学べない。
学びの対象はいつでも自分の外側にある
自分を学ぶなんてことはないのだから、その対象が外側にあるというのは当然のことだろう。

どんな学びだろうと知らないことを知るためには大なり小なり負荷がかかる。
筋トレと同じで、負荷があってこそ身につけるのが学びだ。
コンフォートゾーンから出ないというのは、結局この負荷のかかるつらさを避けたいという意味で、トレーニングや運動をサボったりするのと同じことだ。ダイエットをすぐに投げだしてしまうのとも変わらない。

ルーティン化して継続する

結局は、自分が変わりたいという意識が低く、どう変わろうとしているか、そのことで自分の毎日がどう違うものになるのかというイメージが希薄なのだろう。

目的が明確でないから、余計にちょっとつらいだけでやめてしまう。
負荷のかかるルーティンを継続することができないのだろう。
結局は、想像力の足りなさが根本にある。
こうしたらああなる思考の欠如だ。

冒頭にも書いたとおり、僕はこのnoteを8ヶ月+6ヶ月+5ヶ月の計17ヶ月くらい書き続けている。
これが239本目の記事である。
僕自身にとっては、フォロワー数の30000以上に、この239という数字の方に意味がある。
これだけ書けば、それだけただの情報を自分の知識に変換できるからだ。

僕の場合、何を書くというルーティンワークから得ているか? 

書くということは、自分で情報を使える状態にするということである。
僕の場合であれば本などで得た仕事とは関係のない情報を、自分の仕事と関係づけて考えてみたりすることで知識に変換するということをしている。
外の知識に対する理解が深まるし、仕事の方の考え方も更新される。
外の多様な視点が入ると、仕事をする上でもいろんな視点での工夫が可能になる。
書くことがちゃんと自分の身になっている。

当然、ここではちょっと頭を使う。
頭を使うからこそ、単なる情報が知識になる。
最低でも2.1日1回これが起こる。17ヶ月が大体510日くらい(月30日想定)だとすると、2.1日くらいに1本書いている計算になるからだ。
ルーティン化して継続していることで、外部の情報の知識化と仕事の考え方の更新がそういう頻度で起こすことができているのだと思う。

普通にできることのレベルを上げる

短い記事でも2000文字は軽く超え、長いものだと6000字近くになる。
読むのも大変な僕のnoteをこんな数の人がフォローしてくれるのは不思議だということは繰り返して記述しておくが、もちろん、その文字数の記事をこのペースで書くことが僕自身にとってもまったく負担でないわけではない。

とはいえ、本当に負担かというと、気持ち的にはそうでもない。
慣れてしまったから負担とは感じなくなっているというのが気持ちの面での真実ではある。

だが、それでも時間にして少なくとも30分、長いと1時間以上は書くのに時間がかかるのも事実だ。この時間で6000文字とか書けるのだから、早く書けてはいるとは思う。だが、2.1日あたり30分から90分ほど時間をかけているということは紛れもない事実である。週にすれば2、3時間は書くことに費やしているだろう。

その意味では、時間的な負荷はかかっている。
気持ち的には負担を感じていないにしても。

ようは時間的に物理的な負荷はかかっているのだが、それを負荷とは感じないように気持ちの面ではいい意味で鈍感になっているということだ。大変なこととも思わず、ルーティンのトレーニングができる状態が作れているわけだ。
いまの頻度で書くことは、僕にとっては努力ではなく、普通のことだ。

ようするに、普通にできることのレベルが上がっているのだ。
3食ご飯を食べたり、平日は毎日会社に通勤したりと同じくらい、noteを2.1日に1本くらいのペースで書くことは、僕にとっては普通のことだ。

普通にやれるようになるまで続ける

普通にできるようになれば、努力ではないので、モチベーションを上げる必要もない。ただ、やる予定のことをただやるだけという感覚。
もちろん、やる内容はその都度考えるにしても、その考えること自体、普通にルーティンでできるようになってる。だから、考えること自体にも苦労はない。

考えることに苦労がないのは、考えるためのきっかけとしてのインプットもルーティン化しているからだ。毎日だいたい30分以上は本を読んでいる。仕事をする中でいろんな気づきをちゃんと得るように思考や行動をしている。
そうやって過ごしていれば、2.1日に1本のnoteを書くくらいのネタは普通に手に入る。苦労はない。

だから、普通にできることのレベルを上げることが大事だ。
ずっと苦労してやらなくてはいけないのだと続かない。普通にできるレベルが上がれば苦労はなくなる。
けれど、ある程度は続けないと、普通にできるレベルは上がらない。負荷を感じないレベルまで続けてみることがとても重要だ。ここは続けるという意思が必要になる。

そのためには、ちゃんと何を目指して、それをやるのかをイメージしてほうがいい。どうなりたいかが明確な方が意思は続きやすい。
実際、僕も20代の頃、小説になりたいと思い、「毎日2000文字以上、小説を書く」を数年間続けていたからこそ、文章を書くことが苦ではなくなった。文字を書くこと自体が苦ではなくなっていた30代になってからは、自分の考えを毎日ウェブ上で公開するようになり、ブログを書くようになったり、本も書かせてもらったりして、今に至る。
そうなると書くこととしゃべることにはもはや何の違いもない。今もしゃべるようにスマホでこれを書いている。

残念ながら、小説家にはなれていないけど、今のような自分にはなれた。

流れが進化をつくる

物理学者のエイドリアン・ベジャンが『流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則』で、こう書いている。

生きるべきか死ぬべきか―― それは問題ですらない。生命は自然界における普遍的傾向だからだ。生命は自由を伴う物理的な動きだ。動くもの、流れるもの、突き進むものはすべて、配置や道筋やリズムを変えることによって、しだいに動きやすくなる傾向と、動き続ける傾向を示す。進化するこの流動構成とその終焉(死)こそが自然であり、生物・無生物の2領域を網羅する。

努力しなくてはできなかったことが、普通にできるようになるということは、ある意味、進化である。

その進化というものが生物であろうと無生物であろうと万物において、ベジャンがいうように「流動構成」、すなわち流れと動きによる連続的な負荷の影響を受けて、配置や道筋やリズムが変わることなのだとしたら、日々のルーティンで負荷をかけ続けることは、「努力」から「普通」への進化にとっても不可欠なものだと思う。

力の生成と消費と動きは、進化の統一的見解を提示する。この見解によって、動物のデザインと動き、河川流域、乱流、運動競技、テクノロジー、グローバルなデザインなど、進化の現象が科学的に観察され、記録され、研究されているすべての領域の説明がつく。進化とは、時の経過とともに起こるデザインの修正であり、生物の地表と無生物の地表の全体へそうした変化が拡がることを意味する。

「時の経過とともに起こるデザインの修正」。
ようは、時間はかかるということだ。

けれど、時間をかけて起きた進化によりとてつもないバージョンアップが見込めるはずだ。
たとえば、他人が1日かけてやる仕事が15分で終えられるようになる。
他の人には気づかないことを誰かの話の中から見つけられるようになる。

仕事が、早くなれば仕事以外のことも考えたり、いろんな本を読む時間が増える。本をいろいろ読むと、思考の角度が多様化して面白いことが考えられることになる。面白い仕事ができるようになる。仕事を面白くできるようになる。
そういうことが普通にできるようになる。

そうなると、見える世界、生きる世界が変わって、違う進化を目指せるようになる。普通でできることのラインはどんどん上がる。

普通にできることのレベルは段階的にではあるが、無限に上がる。
だが、それはなにかを継続的にやることで、まずは一段階上げることをしなければなにも変わらない。

単細胞生物がいきなり人間には進化しないが、けれど、単細胞生物はまぎれもなく人間の進化の元にいる。

再び、ベジャン。

良いアイデアは遠くまで広まり、そして広まり続ける。こうしてデザインが進化しながら流れることこそが、「良い」という言葉の意味するところだ。

滞ることなく流れ続ける流れが「良い」を作り、良い流れがさらにまた「良い」をつくる。継続的に動かし続けることでこそ、良いものを得る資格は身についていくのだと思う。

学ぶとは、この流れを継続させることに他ならない。

というわけで、これからも学び続けて、普通にできることのレベルアップを図りたい。
次のレベルアップで見えるようになる景色を楽しみにして。


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