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「わからない」って言ってみろ!

先日、子ども向けの美術教育をされている方に、縁あって個人的にお話を聞く機会がありました。たくさんお話を伺ったのですが、とてもハッとする事が多く、その気づきが一体何だったのかを自分なりに整理しつつ、いくつかに分けて紹介していきます。

”わかる”作品と"わからない"作品

例えば、以下のような作品を小学生に見せて「どう思う?」と聞くと、どんな感想が出てくると思いますか?

『Die Mauer』ポール・セザンヌ

『Potato Planters』フランソワ・ミレー

よくこんな感想が出てくるそうです。

「~に似てる!」「~みたい!」

これは作品の中で描かれている情景がイメージしやすく、自分なりの解釈を元に自分の過去の記憶や体験に紐づけたり、あるいは誰かの解釈を借りて感想が言いやすいのだそうです。もちろん、単に「キレイ!」という純粋な感想も出てくるそうですが。

では、こんな作品だとどうでしょうか?

『Growth』Jean (Hans) Arp

『On the Threshold of Liberty』ルネ・マグリット

こういった抽象的な表現の作品を見せて「どう思う?」と聞くと、子どもは「うーん」と黙ってしまうのだそうです。それも当然で、こういった抽象表現の作品は上の作品のように

「~に似てる!」「~みたい!」

と、自分の中にある記憶や体験に紐づけて目の前にあるものを説明することができないからです。自分が知っている限りのあらゆる語彙の中を探しても、この作品を説明する言葉が見つからず、苦しくて黙ってしまうのです。

でも、この「これは一体何だろう」という苦しみながら作品に対峙する状態こそが「思う」という心の機能を育くむために非常に大切なことなのだそうです。

誰かの解釈をそのまま取り込むな!

目の前にあるモノ・コトが自分が持っている知識や経験で説明できないと、子ども達は頭の中で「何だろう?これは一体何だろう?」と、それを説明できる何か(正解)を探し求めるわけです。

そんな中、担任の先生が「この作品はね、一般的には〇〇を表していると解釈されているんだよ」なんて教科書に書いてあることを解説したりしてしまうと、子ども達は「なるほど、そう言われれば確かに〇〇にみえるなぁ」と、誰かの解釈の一つでしかないそれを”正解”として取り込んでしまいます。そして、一度でも自分の中で「これは〇〇を表しているらしい」と思ってしまうと、それ以後、本人にとってその作品は”〇〇”にしか見えなくなってしまいます。そうなると、もはやその作品に対して彼、彼女が「思う」という機会が永遠に失われてしまうことが美術教育にとっては最も避けるべき事態です。そこで固定されてしまった「見かた」は、やがて本人の固定的な価値観=先入観として確立されてしまうからです。

美術作品には水彩画、油絵、版画、彫刻、写真など様々な表現手段がありますが、すべての美術作品に共通していることは「それが作家から見た”世界の見かた”である」という点です。

つまり

「私には世界はこう見える。あなたはどう思う?」

と、見る人自身の見かた・解釈を問うのが美術作品であり、それを見た人の解釈は千差万別、人によって違って当たり前であるべきです。ところが日本の教育では「正解」を出すことが是だと教え込まれているため、上の抽象作品のように自分の中でどうしても正解が導けないと、他者が出した1つの解釈でしかないものを「正解=固定的な価値観」として取り込んでしまう危険性があるわけです。もちろん作品を鑑賞するにあたっては作品が描かれた時代背景や作者の生い立ちなどを知った方が作者が見ていた世界をより深く感じ取ることができますが、解釈の幅が拡がるというだけであって正解なんてないわけです。

「わからない」って言ってみろ!

では、自分の中にあるリソースで、目の前にあるモノ・コトを解釈できない、説明できないとき、どうするのがよいか?というと

「わからない」

と、言葉にして言うことがとても大切なんだそうです。

日本の教育制度の中で学ぶ子どもたちは「わからない」という言葉を口にすることに躊躇いがあります。なぜなら普段の授業で「わからない」なんて言ったら先生や友達に「え、なんでコレが分からないの?」とか「なにその答えw」とか言われる恐怖を知っているからです。残念ながら「唯一の正解」を求める教育なのでそうなってしまうわけですが、美術作品の解釈に「唯一の正解」なんて存在しないのだから「わからない!」って堂々と言っていいわけです。そして、「わからない」と自分で自分自身に言いきってしまうことで「借り物でもいいから、外から正解を持ってこなきゃ」という焦りから解放され、作品の前に佇み、作品に対してじっくりと「思う」ことができるわけです。

大人も「わからない」って言え!

ここまで読んでお気づきの方もいるかもしれませんが、これって私たち大人にこそ必要な示唆だと思いませんか?日本の「唯一の正解」を求めさせる残念な教育にどっぷり浸かりきって社会に出てみたものの、社会には「唯一の正解」があるケースなんて殆ど無くて、日々「色んな正解があるもの」に仕事として対応しているわけです。私たちは子どもより長く生きている分、語彙や経験、知識のストックがあるので、初めて出くわしたモノやコトに対しても「~に似てる!」「~みたい!」と過去のパターンに当てはめて解釈し、その解釈が概ね間違わずに済んできただけです。

しかしここ数年はもう過去のパターンに当てはめても解釈がつかない事だらけになってきました。中国経済の失速、ブレグジット問題、トランプ大統領の出現・・・今から10年前の時点で今の世界の混迷状態を読めていた人がどれだけいたでしょうか?かつて流行っていた「グローバル化・グローバリゼーション」ってとんと聞かなくなりましたよね。

今後も世界中で、過去の既存パターンでは解釈が追い付かない事態が起き続けると思います。まるで抽象作品を突きつけられたように、自分が当事者としてその事態に出くわし「え、何これ?どういうこと?意味わからんw」と迷子になったときは、どこかの誰かが出した解釈の一つを「唯一の正解」としてすぐに取り込む前に、まずは「わからない!」と自分自身に言ってみること。その上で「わからないけど、自分はどう思うか?」を導きだし、それに従って生きていくようにしないと時代のうねりに翻弄されてしまうのではないかなーと思います。

おしまい。

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