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夕木春央『方舟』(講談社、2022)

 この作品も読むのに一週間ほどかかった。2023本屋大賞の候補作。たしか22年末の『本の雑誌』でミステリの読むべき本として紹介されていたような気がするし、往来堂書店の高橋さんのnoteで本屋大賞の選定の際に名前が挙がっていたため読んだ。

 帯の文言はいささか大げさだし、好みかどうか聞かれれば300ページのうち250ページは素朴にうーん、退屈だったと答えると思う。というのも語り手があまりに自分の語りを意識していないように思えるからだ。なんというか探偵役のサポートにもなれていないし、探偵役の視点に自分の視点を重ねるようにして探偵役の行動を語っていくというわけでもない。犯人を絶対に見つけるという気力に欠ける(まあこれは仕方ない)し、語らない(いや語らないのではなく、何も見ていないので語れない?)ことが多いため、その語りはどうしても不十分なものとなる。視界が十分ではない暗闇での一週間という状況が設定されていることはこの不十分な語りであることをフォローすることができるだろうが、では時間の問題を考えるとこの語り手は回想して物語を語っているように思うのだが、果たしてどうなのだろう。

 またいわゆる探偵役として姿を現す翔太郎という人物の個性の無さも気になる。この探偵は語り手の従兄として物語に姿を現すのだが、それ以上の背景が特に語られないやや不気味な存在である。大学の登山サークルの友人たちの集まりに語り手の従兄として登場するのであれば、その妥当性が説明されてしかるべきだが、特に説明はない。探偵役ならばその言葉に説得力を持つ背景が語られてもいいだろうと思うのだが、おそらく作者の夕木春央は具体的な背景を持つ人物造型を意図的に避けて物語のなかで誰が犯人であるのかを不明瞭にする意図があったことは容易に推測がつく。そのような手法によってもたらされるこいつ(翔太郎、語り手自身さえも)も信頼できないかもしれない(=犯人かもしれない)という読者の不安感は犯人への追及の場面ではあっさりとなかったことにされる。つまり翔太郎と語り手はあっさりと容疑者からは外されてしまうのだ。しかし、地中という異常な空間で犯人を追及している側も犯人の可能性だってあるじゃないかとの声が上がることはない。

 要するに翔太郎は絶対的な能力を持つ探偵役として描かれているわけではないにも関わらず、物語は翔太郎に犯罪行為を解決する権力を与えている。古典的な探偵小説や犯罪小説では犯人を追及する側がある程度の権力を持ち、それを読者も受け入れることで成立する読書空間があるはずだが、この『方舟』にはそれが丁寧に立ち上がるわけではない。決定的に物語の転覆が起きるのはエピローグだが、絶対的な力(例えばホームズやブラウン神父、金田一耕助が持っているような)を持たない翔太郎にとってはもしかしたら当然の結末だったのかもしれないと思う。ヒーローではない翔太郎と語り手には当然の結末なのか。結末に辿り着いても語り手がどの時点で物語を語っているのかという問題は解決されないまま。

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