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力を与える代償に人間の精神を支配する石

「地上の全ての民が」聖なるものに近づくことができる、救いを得ることができると教えられているユダヤ教ですが、その教えの中で神は、アブラハムの子からイサクだけを、イサクの子からはヤコブだけを選んだとされ、やがてその末裔たちは選ばれし民として知られるようになります。
しかし、神に選ばれた民たちのはずが、神の使いとして選ばれた民によって裁かれた歴史もありました。

アビメレクの後、イッサカルの人で、ドドの子であるプワの子トラが起ってイスラエルを救った。彼はエフライムの山地のシャミルに住み、
二十三年の間イスラエルをさばいたが、ついに死んでシャミルに葬られた。

旧約聖書:士師記10章1節~2節

トラの後にギレアデびとヤイルが起って二十二年の間イスラエルをさばいた。

旧約聖書:士師記10章3節

エフタは六年の間イスラエルをさばいた。

旧約聖書:士師記12章7節

イブツァンは七年の間イスラエルをさばいた。

旧約聖書:士師記12章8節

彼の後にゼブルンびとエロンがイスラエルをさばいた。彼は十年の間イスラエルをさばいた。

旧約聖書:士師記12章11節

アブドンは八年の間イスラエルをさばいた。

旧約聖書:士師記12章:14節

サムソンはペリシテびとの時代に二十年の間イスラエルをさばいた。

彼の後にゼブルンびとエロンがイスラエルをさばいた。彼は十年の間イスラエルをさばいた。

旧約聖書:士師記12章11節

|エリのイスラエルをさばいたのは四十年であった。

旧約聖書:サムエル記上4:18

そして、使徒パウロの言うようにユダヤ人がイエス・キリストを裁いたのなら、それは彼らユダヤ人の誤算だったのではないかと思います。なぜなら、裁きを神の行いとすることで、それまで通りの歴史を刻むはずが、迫害という形で神の刃が自分たちに返ってきたわけですから。キリストの死をきっかけにユダヤの民たちは2つに分かれます。一方ではキリストの御言葉を心に抱きながら生を全うし、もう一方では天から追放された者として変容していくことになりました。

言霊は彼らが最も大切にしていることだと前回お伝えしましたが、

考え方を変えるということ。この改心回心は彼らにとっても、キリスト教にとっても(仏教もですが)紀元後はとくに重要なテーマになってきます。このお話はまた別機会に記事にさせて頂こうと思います。

さて。

前回まではケルト人一派だった野蛮人たちのキリスト教の改宗のお話をしました。

今回はキリスト教ではなくゾロアスター教徒のまま移動して向かったインドに関して少しだけ触れてみようと思います。

ゾロアスターを国教としていたサーサーン朝の滅亡(A.D.651)を機にイランの一部のゾロアスター教徒たちはインドのグジャラート地方に移動しました。

クジャラート地方


現在でもインドはゾロアスター教の信者の数が最も多い国となっています。彼らは、ペルシャ人を意味するパールシーと呼ばれ、数としては少ないですが資産家政治的な影響力をもった人々である富裕層の割合は多いです。インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教に次いで世界で5番目に信者の多い宗教であるシク教徒に匹敵します。インドの二大財閥のひとつであるタタはパールシーの財閥です。現在でもタタは、車両製造分野や製鉄、電力、ITなど幅広い分野に関与しています。


インドは蛇神信仰の国でもあります。諸説はありますが、上半身を人間の姿で表し、下半身が蛇として描かれていたり、インドコブラ自体の容姿を思わせる記述があったりと、インドや南伝仏教圏においては純粋にとして描かれることの方が多いようです。東南アジアのインド文化圏では、頭が7つある姿で描かれます。
釈迦が悟りを開く時に守護したとされていて、仏教に竜王として取り入れられて以来、仏法の守護神となっています。これが後の天台宗、天台宗から密教を除いた日蓮宗へと受け継がれていきます。

ナーガ

これまでの記事でもイギリスに向かったダン族たちの蛇神信仰を取り上げてきましたが、蛇神信仰という点で共鳴がしやすいからでしょうか。植民地時代のイギリスはインドにいる彼らを支援するようになります。

なぜ彼らなのか?
その理由は①インド国内で少数派であるパールシーとそれ以外の勢力との間に闘争を作り出し、分割統治を行いやすくすること。
②パールシーがインドで混血していない上にヨーロッパ人に近い外見をもつ、アーリア人として優遇した。

以上が考えられています。

というのも、ゾロアスター教徒は、ゾロアスター教のを持つ人だけが信仰できるという条件があるということと、インド定住時に他民族との間に布教をしてはいけない約束があったためパールシーたちは混血をしていないと見なされていたからです。

更に、東インド会社によってパールシーの地位は高くなります。ほとんどのパールシーはグジャラートからボンベイ(現在のムンバイ)に移住し、主に貿易によってパールシーは財力をつけました。イギリス人がアヘン貿易によって中国から追放されたあと、イギリス人の代わりにパールシーがアヘンの貿易を行っていました。この結果、インドの独立時にはパールシーは強い経済力と支配的な地位に昇りつめ、人々の上に立つためのノウハウを身につけていたのです。

次第に大きくなっていくパールシーに今度は宗教組織である神智学協会が接近します。神智学協会は1879年にインドのマドラスに本拠地を置きました。協会は会員の半分をパールシー教徒で占めることに成功。神智学協会創設者の一人であるアメリカ人ヘンリー・スティール・オルコットはゾロアスター教の2神論に神智学と共通の価値を認識したようです。その頃、パールシーも近代化に反対をしていましたので順調に神智学を受け入れましたが、2神論は善神アフラ・マズダを高次の自我、悪神アンラ・マンユを悪しき欲望、低次の自我であるという考えに至ってしまいました。このとき、菜食主義などゾロアスター教と関係のない習慣もパールシーに持ち込まれています。そして、オルコットがフリーメーソンに入会していたこともあり、フリーメイソンの支部がパールシーに設立されます。

フリーメーソンとエジプト

ここでパールシーと結びついたフリーメイソンについて説明をしていきたいと思います。フリーメイソン(英: Freemasonry)とは、もともとは古代まで遡ると建築を得意とする石工団体のことでした。現在は、友愛結社として多様な形で全世界に存在し、会員数は600万人を超えています。

この記事の冒頭で裁きを担っていた民たちを思い出してみてください。その中にトラという名を持つ民がいました。

アビメレクの後、イッサカルの人で、ドドの子であるプワの子トラが起ってイスラエルを救った。彼はエフライムの山地のシャミルに住み、
二十三年の間イスラエルをさばいたが、ついに死んでシャミルに葬られた。

旧約聖書:士師記10章1節~2節

車に使われるタイヤという言葉がありますが、タイヤとトラは石という点で共通の語源があるようです。
フリーメーソンの象徴であるを意味する古語はタイヤという言葉に由来しています。古くは「Tur、Tsur、Tzor、Tor、Tora、Toorah、Tura」などトラに似た音で呼ばれてました。これらの単語はさまざまに訳され、という意味にもなっています。なぜなら、私たちが建物を建てるための岩や石はで手に入るからです。
これらの言葉は、古代エジプトの石灰岩の特別な種類を表す言葉から派生していて、トゥーラは古代エジプトの石灰岩の主要な採石場の名前でもあります。トゥーラ産の石灰岩はエジプトのすべての採石場の中で最も細かく、最も白いものであったため、権威ある墓の化粧石として使用されています。菱形のピラミッドやスネフェルの曲がったピラミッド、クフ王の大ピラミッドなど、多くの古王国貴族の石棺に使用されていた石灰岩の供給源でした。


クフ王のピラミッド

クフ王ギザの大ピラミッドの外壁は、石工集団たちによって高度に研磨され、およそ14万4000個ものトゥーラ産石灰岩が精巧につなぎ合わされて装飾されていると、一部の研究者たちは主張しています。その見事な仕上がりは反射した太陽の光で建造物全体を白く照らしました。

この特徴的な石は、現代ではクリーム色の色彩でみることがでます。石の密度が高ければ高いほど強度が増し、水分の吸収が少なくなり、ひび割れ荷重は破断荷重を大きく下回ることはありません。


日本銀行本店

そういえば、FRBもですが、日銀も頑丈そうな石で作られていますね。

古代エジプトでは、ファラオはエジプトの行政事務を担当する「最高司令官」(POTUS)を意味する(turtan)を擁していたほど特別な扱いがなされていました。(turtan)タータンと発音するとしたら、タイタン(巨人)にも音が似ていますね。巨人といえば、巨人伝説があります。彼らもかつては英雄でしたが、堕落した神へと変容しています。


これまでの記事で取り上げてきましたダン族が向かったイギリス・アイルランドでもアングロサクソン語のfir(モミ)、tyr(ティル)があり、領主、王子、長、栄光、支配、権力、そして火星に対応する神の名前であったエッダのTyr(ティル)を意味しています。そして、Turはアラム語で山の意味です。

驚くことに、これらの場所では不滅のフリーメーソンの活動のために彼らが信仰する白い石灰岩(別名-Tyr、Tir、Tur、Tor)を採掘すると同時に、国全体、時には複数の国の支配権を得ることができていたのです。一旦支配が確立されると、彼らは商業、法律、宗教、神話、教育を通じてこれらの土地を支配し、先住民の精神、肉体、魂を征服するシステムを作り上げました。

まさに物質に支配されていた時代のようです。

一番初めの成功例がエジプトのティレクレタ島のティレです。これをもとに彼らは第三のティレとも呼ばれるアイルランドのティルコネールの征服し、彼らの石の名前を付けました。そして、それら一派の中にダン族がいるという話は下記の記事のとおりです。


アイルランドのティルコネールはフェニキア語やヘブライ語のエル(ul,il,alとも綴られ、"神、主、総督 "と様々に訳される)に彼らのの名前を加えた造語です。
つまり、ティルコネールの意味は、"神の石の岩 "または "神の石工 "になります。

アイルランド

アイルランドの神話によると、ダン族であるトゥアサ・デー・ダナン人がアイルランドに上陸したとき、すでにミース州の城をロテア・グロフィンからタラに移した王がいました。ダビデの子孫とされるアイルランドの女王テフィ王女は死後、60フィート四方の土塁に覆われた墓に埋葬されたといわれ、その遺骸は今日に至るまでそのままで、"タラの丘 "と呼ばれています。

上空から見たタラの丘

タラの丘は、アイルランドのミース州スクライン近郊にある古代の儀式と埋葬の場とされていました。ティラニア・アイルランドの石工集団たちが築き上げたこれらの墳墓や円形の囲いは「人質(奴隷)の塚」、「運命の石」(Lia Fáil)と呼ばれています。古代の言い伝えによれば、ここはアイルランドの高位王の就任式が行われた場所でもあり、王の座でもありました。タラの丘はアイルランドの政治的、精神的中心地であったと見られています。神族 Tuatha Dé Danann(トゥアサ・デー・ダナン)もタラの丘に住んでいたようです。最近の研究からは遺跡の一部が新石器時代、5000年ほど前のものであることも分かってきています。捕虜の墓にある通路には毎年11月8日と2月4日に日光が差し込むよう設計されており、ケルトの祭日と一致します。ケルト族がアイルランドに渡来すると、ミース王がタラの丘から全アイルランドを支配しました。最もよく知られている歴史は6世紀まで続いたタラの上王の居住地です。王の即位は立石の前で行われ、12世紀までこの役割は残されていました。そして、それらの立石もまた石灰岩で作られていて、数多くのモニュメントや土塁など古代の名残を発見することができます。

ケルト人に関してはこちらからご参照ください。

現代のタラは、より大きな古代景観の一つであり、タラ自体もアイルランド政府の機関である公共事業局の管理下にある保護された国定史跡です。

ダン族とフリーメイソン

フェニキアのティラニア人たちは、ティル石灰岩を探し求めるヒラム王の世襲子孫であり、世界を旅するマスターメイソンでもありました。彼らはまた、最高の船大工、航海士、商人として歴史上世界的に有名であり、東方で手に入れたフェニキア人の港にアルファベットから生まれた新しい造語で、入植地に名前をつけるという長い伝統を持っていました。

ヒラム王が遣わした同名の大工職人とダン族との関係性は旧約聖書にも綴られています。

彼はダンの子孫である女を母とし、ツロの人を父とし、金銀、青銅、鉄、石、木の細工および紫糸、青糸、亜麻糸、緋糸の織物にくわしく、またよくもろもろの彫刻をし、意匠を凝らしてもろもろの工作をします。

歴代誌下第2章14節

女系の血統ではダンの血を引いているようですね。
エジプトのトラティレとも呼ばれ、現在では同じ意味で使われることもあります。古代アイルランドで古くはティルオーウェン(Tyr-Owen)タイルート(Tyroot)、今日ではアイルランドのアルスター州の内陸郡であるタイロン(Tyrone)と呼ばれていた重要な地域にいたことを示す証拠が、最近になって見つかっています。


さて。
ここまででインドの蛇神信仰とエジプト、アイルランドのフリーメイソンを解説しましたが、前回のローマの内容と併せて1つの共通点があります。

広義ではありますが、印欧アーリア人の構図が出来上がります。人種は違いますが白人たちが歴史の中で世界を動かしてきたということは注目すべき点ではないでしょうか。ですので、かつてヒトラーがアーリア人の選民思想を掲げていましたが、一応根拠はあったようですね。ただの理想主義ではなかったということにもなります。

エジプトは、旧約聖書では出エジプトにもあるようにユダヤ人を奴隷としていましたので、立場があいまいにも見えますが、実は旧約聖書の十戒で有名なモーセはエジプト人であるという説もあります。

モーセと言えば、モーセが用いたとされる 最も古いタウ十字 である「 T 」形をした十字架があります。フリーメイソンにおけるこれらのシンボルのひとつはTスクエアと呼ばれるもので、今日では多くの宗教で知られています。Tと言えば、タイヤやトラもTからはじまりますね。
古代エジプトのアンク、あるいはタウ十字は、神性の象徴です。フリーメイソンにとっては、肉体的(動物的、獣的、悪魔的)本性に対する人間の精神的本性(人間的、天使的、神的)の勝利を象徴しています。

また、タウ十字は裁かれる者を見分けるためにつけられた額の印でもあります。神秘思想にも取り入れられているこの考えは旧約聖書から引用されているようです。

時に彼はわたしの耳に大声に呼ばわって言われた、「町を罰する者たちよ、おのおの滅ぼす武器をその手に持って近よれ」と。
2 見よ、北に向かう上の門の道から出て来る六人の者があった。おのおのその手に滅ぼす武器を持ち、彼らの中のひとりは亜麻布を着、その腰に物を書く墨つぼをつけていた。彼らははいって来て、青銅の祭壇のかたわらに立った。
3 ここにイスラエルの神の栄光がその座しているケルビムから立ちあがって、宮の敷居にまで至った。そして主は、亜麻布を着て、その腰に物を書く墨つぼをつけている者を呼び、
4 彼に言われた、「町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ」。
5 またわたしの聞いている所で他の者に言われた、「彼のあとに従い町をめぐって、撃て。あなたの目は惜しみ見るな。またあわれむな。
6 老若男女をことごとく殺せ。しかし身にしるしのある者には触れるな。まずわたしの聖所から始めよ」。そこで、彼らは宮の前にいた老人から始めた。
7 この時、主は彼らに言われた、「宮を汚し、死人で庭を満たせ。行け」。そこで彼らは出て行って、町の中で撃った。

エゼキエル書第9章

この旧約聖書の章から見ても、後にフリーメイソンとなった彼らを裁きを担う者たちということが読み取れるかと思います。

ちなみにダン族でもあったケルト人たちが崇拝していた敵の頭部を祀る頭蓋崇拝は世界最古の聖地、トルコでも見つかっています。

頭蓋崇拝に関してはこちらの記事で取り上げていますので、よろしければこちらもご参照ください。

そして、最近トルコで「旧約聖書にある大洪水が起こったとされる頃に、その地域で人間が活動した痕跡がある」と考古学者によって発表されました。ノアの方舟の遺跡である可能性があるそうです。

トルコおよびアメリカの3大学の研究チームはおよそ1年を費やし、トルコ最高峰のアララト山にある有名なドゥルピナー遺跡の地層(Durupinar formation)から岩石と土壌を分析しました。結果、彼らは「船の形をしたこの場所が、伝説の『ノアの方舟(Noah's Ark)』の遺跡であることの可能性がさらに高まった」と考えています。

頭蓋崇拝が見つかったトルコのギョベックリ・テペ遺跡では、タウ十字を崇拝していた痕跡もあります。彼らは人頭(頭蓋)崇拝者たちでもありました。

「従来の学説では、人類が信仰を行ない、宗教のようなものが生まれたのは定住農耕生活が行なわれてしばらく経過してからだと言われてきました。
しかし、ギョベクリテペを調べていくと、そうではなかったことがわかります。まだ定住や農耕が行なわれていなかったはずの1万2000年前にもかかわらず、人々は集団で巨石を運び込んで切削し、この施設を造り、祈りを捧げていたのです。
考古学上の定説とは異なり、人類は定住農耕生活に入る前から信仰を持ち、大規模な集団生活を行なっていたのです」

遺跡の周囲には見学用の回廊が一周分整備されており、そこから覗き込むことができます。さきほどビジターセンターで見た3メートルを越す大きな石をT字型の板状に加工した石碑が、同心円状に並べられているのが見えました。その同心円の中心部分にはさらに大きなT字型の石碑が向かい合うように並んでいます。石碑の表面には動物などの模様が彫られているのも見えます。


フリーメーソンの拡大

カール大帝の時代(B.C.800~814)、フリーメーソンと司祭たちは協力関係にあり、イギリス、フランス、ドイツ各地で多くの教会、修道院の共同体を建設しました。教会との提携により、彼らは制限なく自由に町から町へ行き来する権利を与えられていたため、後に「自由な」という形容詞がついたフリーメイソンと呼ばれることになります。フリーメイソンという言葉は、石積みに適した粒子を含まない砂岩石灰岩を装飾するために施工するフリーストーンワーカーという言葉の意味も含まれています。

現代フリーメーソンの「父」と呼ばれたデサグリエ(A.D.1683–1744)は、儀式は書に残すのではなく記憶すべきだと主張したことによって英国の儀式の発展に関する文書が不足する事態にもなりましたが、この不透明さが功を奏したのか、フリーメイソンの拡大に大きく貢献しました。反フリーメイソンの勢力が激しくなったことで出版物報道によってフリーメイソンの知名度はいっそう増します。攻撃的な論調に加わって、フリーメーソンの「暴露」で金儲けをしようとした元メーソンもいたようです。

フリーメーソンのロッジ支部が活発なコミュニティから思索的な親睦団体に変わっていった理由は依然として解明されていません。 16 世紀に設計の責任がマスターメイソンから建築家に移ったため、建築家たちは協力関係にあったフリーメーソンのロッジに参加し始めたようです。また、東インド会社のような他の組織が行っていたように、フリーメーソンのロッジ支部では会費で資金を集め始めていた可能性もあります。また、賃金と労働条件を改善するために、富裕層や権力者を意図的に取り込んだと考える人もいるようです。
フリーメイソンが拡大するにつれてフリーメイソンの内部も「古代派」「近代派」で分裂していきました。古代派の中には、国王ジョージ 3 世の六男であるサセックス公爵もいました。1811年にグランド・ロッジは「古代のランドマークと義務が何であるかを確認する時期が来たら、古代のランドマークに戻る」といった意志を表明。しかし、古代派は決定事項に関する報告義務を怠っていたため、モダン派との溝は深まる一方でした。古代派は委員に全権を与えることでモダン派の不満を解消し、古代派とモダン派は徐々に統一していくことになります。

戦争で広がるフリーメイソン

●南北戦争
1850 年代後半までに、アメリカのフリーメイソンは再び世間の関心の対象となり、反フリーメーソンによって底を打っていたロッジの会員数も増加し始めました。南北戦争の頃までに、米国のフリーメーソンは全米に5,000以上あるロッジの会員数を66,000人から200,000人へと3倍に増加しました。この会員数の急増は、フリーメイソン友愛団体のメンバーであると主張する敵の戦闘員を救出していたことが影響しています。戦闘中にフリーメーソンたちがフリーメーソン様式で墓を埋葬したことや、フリーメーソンの捕虜に与えられた援助特別待遇なども記録されていて 、南北戦争後、アメリカのフリーメーソンは、いわゆる「黄金時代」として他の友愛団体とともに繁栄しました。

●フランスでは、フリーメーソンの数は、ナポレオン時代の1802年の1万人から、1889年には2万人、1908年には3万2千人、1926年には4万人に増加し、1936年には約6万人に増加しました。ほとんどすべてのロッジ支部は急進党に属しています。歴史家であるセオドア・ゼルディンは、19世紀のフランスでは次のように主張しています。 フリーメーソンは何よりもまず、神秘的な儀式、難解な象徴主義、派手な制服を好み、アイデアを話し合ったり、志を同じくする友人と出会う場所を求める人々に惹かれました。しかし、徐々に、政治家が選挙目的で利用する組織となり、公務員は昇進のチャンスを得るために参加し、ホテル経営者は顧客を増やす有効な方法と考え、ビジネスマンたちは互いに契約を結ぶようになりました。
異業種交流会のような会員同士で取引をすることで仕事を得る仕組みはフリーメイソンが構築したようですね。一方、特定の宗派が密かに政府を運営し、唯物論的で反聖職者のプロパガンダの主要な発信源であるという噂が、特に保守派の間で広まるようにもなったそうです。


と、今日はフリーメイソンまで語らせて頂きました。
次回からはこの流れで哲学の話に進もうと思います。(たまに歴史を取り上げるかもしれませんが)

今回も最後まで読んで頂き、貴重なお時間を頂戴しましたことを心よりお礼申し上げます。
宜しければ次回以降もお付き合い頂けますと嬉しいです😊

それでは、またお会いしましょう。

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