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書道における筆蝕とはなにか 石川九楊の筆蝕理論の考察

2022.11.13作成
 
石川九楊 著作集 別巻Ⅲ 「遠望の地平 未収録論考」 ミネルヴァ書房
を参考にしました。
 
このぶ厚い本は内容が非常に濃いものですから、読むのに2週間を要しましたが、得るものは果てしなく膨大なものです。この中でとくに筆蝕についてスポットを当て理解を深めようと思います。
 
Pは引用の該当ページ、■は、めばるの考察です。
 
P23
筆と紙の間に働く力「筆蝕」は、自己と他者の接触感覚とその痕跡に他なりません。書字って、手によって刻む自他、社会関係なのです。
 
筆蝕は、第二の手である筆の尖端=自己と、対象である紙=他者の間の接触感覚とその痕跡です。1997夏
 
■筆と紙の間に働く筆蝕という概念は、石を刻す鑿や篆刻刀が筆を紙に打ち込むことと同源であることを意味しています。そう考えると、書の宇宙に石碑の拓本や篆刻が包含されていることが容易に理解できます。
 
P39
書は単なる字句ではない。筆者が手にした毛筆の筆毫の先端部が紙に接触、摩擦し、また筆尖が紙から遠ざかっていく、その筆者と紙(対象)との間で演じられている筆蝕の劇(ドラマ)が書である。1999.4
 
■臨書というのはまさにこの筆蝕のドラマの再現です。古の人の行為を私たちは追体験し、その思いを時代を超えて共感できるわけです。
 
P95
つまり、「筆蝕」というのは、非常に多義的です。筆の尖端と、対象である紙とが触れ合うときの、その力――書者が加える一方的な力だけではなくて、力を加えた時に対象から返ってくる力も含めた――の対応関係であり、深度であり、速度であり、角度であるということになると思います。そうしたものを全て含みこんだ、いわば「書きぶり」の全てを包括する言葉であるわけです。
2000.9.30
 
■紙は平面であるため二次元ですが、深度、速度、角度を含むということは速度に時間も含まれており、四次元世界を表現していると考えることができそうです。書は形を平面的に捉えがちですが、もっと立体的な動きとして捉えれば、書の理解はもっと深まるかもしれません。
 
P107
換言すれば、文字を書くのではなく、筆画の全過程の書きぶり(筆触)を書くことになった。もはや、文字を書くのではなく、筆触を書くことになったのである。この、対象に対して主体と化した書者の、筆尖と対象(紙)との接触と摩擦と離脱の劇である芸術表現としての書が誕生したのである。2000.10
 
■少し難しい表現ですが、私は書を書くときに例えば今、「雲」という字を書いていると思っては書いていません。一画一画の手応えを意識して書いています。それは墨ののり具合や筆のすべり具合であったりします。おそらく、筆の空間的な運動(ドラマ)が主体であり、結果として文字が書かれたことになるということでしょう。ドラマは後で再現されなければ他の人には理解できません。どこまで再現できるかが書の理解に繋がるのでしょう。
 
P256
言葉にならない意識が「筆蝕」というある種の対地的振る舞いのなかに隠れていて、その言葉にならない意識を暴露してしまう。それはすなわち対象との関係における振る舞いがかたちを変えて文字となっているわけだから、文学の世界そのものもある意味で暗喩している。そういうものが書かなという実感はあります。
2004.7
 
■肉筆という文字の中には書者の内面的なものを暗喩している。言葉にならないものが別の形で表出されているからそれは文学の世界観ではないかということのようです。書には書き手の人格が出ているということもうなずけます。ただし、書は100%文学というわけではなく、美的な要素もあるはずです。例えば、漢詩の入った水墨画を文学か美術かと言われても困るわけです。そもそも文学と美術との境界は定義の問題であって、はっきりとは分からないものだろうと思います。
 
P350
この蝕というのは、ひとつは触れるという感覚。筆記具を使ってある一つの手触りと、蝕んで跡形を残すという両方の意味を込めたものが、筆蝕という言葉です。2007.2
 
■筆の感触である触と石を彫る感覚の蝕の両方の意味を持つ筆蝕を理解するためには、実際に石を彫る篆刻などでその感触をつかむことが理解の助けになることは確かです。様々な感触を経験し感性を上げるこは、書作に有効に作用するものと考えられます。
 
P419
混乱のないように言っておけば、書というのは、上手いとか下手とか言われる書字技法とその美学ではなく、肉筆の文字のその書きぶりの中に定着された書体=文体の表現の美学、つまり文学である。2007.12
 
■書とは書字技法を習得して技術的に美しく、きれいに、上手に書くことが本筋ではなく、肉筆の文字が並んで文となったスタイルの表現の美しさと言うことです。このように考えると美文字のようなものが書という概念から離れた物のように映ります。書とは自然と人となりを醸成するものであってデフォルメする類のものではないと考えます。近年行われているパフォーマンス書道も同様に書の概念からかけ離れたものです。
 
P469
書は、文を書くことに同伴する言葉の芸術で、美術ではなく文学に属する。ただし、文学は、「〈山〉と書いた」ことを重要視し、書は「どのように〈山〉を書いた」かその「書きぶり」の如何を第一義とする。その「書きぶり」は、筆者が手にした筆記具の先端と紙(対象)との、接触の様態―深度と速度と角度の劇(ドラマ)であり、それは、「筆蝕」と呼ばれ、言葉と文化のスタイルと連動している。2009.1
 
■山という字は人によって様々な表現があるように、書に唯一の基本形というものはありません。上手いか下手かではなく、どちらかと言えばいい感じか悪い感じかのような感覚的なものです。私の場合は、その書きぶりに同意できるかできないかということを判断しているようですが、まだはっきりわかりません。
 
P482
「筆で触れる」の意味の「筆触」は、高村光太郎(詩人、彫刻家)も使っていますが、私が使うのは「筆蝕」です。「蝕む」という字です。本当は、「触」と「食」を上下にくっつけた新字「」を作りたい。「触れる」と「蝕む」を立体的にとらえるためです。筆蝕とは和語で言えば、書きぶり、あるいは、書きっぷりです。筆触は触覚的な世界をベースに成り立っていますが、それだけではなく、「掘る」とか「耕す」という言葉をも背景に持った言葉だと考えています。
 
多くの人は現在、書というものは美術のようなものだろうと漠然と考えています。私もかつてはそう考えてきました。西洋に書はありませんが、似たようなものとして、絵画があった。絵画と書を比較すると、絵画は色を使う、書は色を使わない。それから、絵画はキャンバスを使うが、書は紙を使う。絵画は人物や静物や風景などを描く、書の場合は字を書く。だから似たようなものだと考えた。これが書を解りにくくした元凶です。書は絵画や美術ではなく、これは文学です。
 
文学は何から成り立っているかといえば、言葉です。じゃあ、言葉はどこに根を生やしているかというと、触覚、あるいは筆触です。触覚や筆触から生まれ出てくるものが文学なんです。現実に即して書を捉え直せば、書は文学としか言いようのないものであって、それを美術と比較して、解こうとしたところに問題があった。
 
高村光太郎は、詩人であるよりは彫刻家であったと思いますね。本人もそう書いています。私は彫刻家だから言うのではないけれども、私にとって世界は触覚だ、と。みなさんも世界は触覚だというところから出発すると、書はもとより、文字も違って見えてくると思います。2009.11.27
 
■西洋の絵画美術と言っても近代的なものであって、長い歴史の上に立つ東洋芸術が理解できるかというと多分無理ではないかと思います。例えば文学で日本の小説、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」を英語で翻訳してアメリカ人が読んだとします。どれだけ理解できるでしょうか。あらすじ位は伝わるでしょうが、あの雰囲気を伝えることは無理でしょう。書は絵画や美術ではなくあくまで書なのです。ですから西洋的な考えでは到底理解できません。私が知らないだけかもしれませんが、西洋人で書を理解している人を私は知りません。
 
P496
今なら、「書とはなにか」と問われたら、短く「文字の点画は触覚からできている」と答えることができる。「細い線・太い線」などと表現される文字の一点、一画(点画・筆画)は、線でもなければ形でもない。それは触覚のかたまりであると言うのが、書の本質を射ぬく言葉である。「書を書くとは、この触覚を残すことであり、書を見るとは、この触覚を観察することであり、書をよむとは、この触覚の劇を細部にわたって解剖、解析、解明することである。今後、これ以上に的確な言葉が見つかるかもしれない (否、見つかるだろう)が、今のところ「点画は触覚のかたまり」こそが、書を鷲摑みする言葉である。それゆえ、「なぞれば解る」のである。
 
「形象喩」や「言形」と言っても、それだけではいっこうに書の表現の内部に入り込めないことから、「筆触」(書字の場における筆ざわり)という言葉が熟成し、はじめての書き下ろしの書論である「筆の構造」という本を書き始 めた。書き進むうちに、紙に「書く」ことが石に「刻る」ことを含みこんでいる構造が明らかになり、上梓間際になって、『筆の構造』と書き換えた。この「書は筆蝕の芸術である」という一言で、書は生き生きとその姿をさらす。この延長線上に、「筆画は触覚からできている」の語がある。この語句は、「言葉と形象」「言形」「形象」「筆触」「筆蝕」のすべてを内に含んでいる。なぞりつつ文字の筆画の触覚の劇を追体験すれば、書は驚くほど雄弁に自らの世界をうちあける。2009.12
■「書とはなにか」という問いに対する一つの結論に至った点が重要です。
「書は筆蝕の芸術である」「筆画は触覚からできている」
筆蝕については、「筆蝕の構造―書くことの現象学」が1992年に上梓され、その17年後の記述であるためその後の知見も加味されており分かりやすくなっています。
 
P507
この定義「書は文学である」が奇異に思われるのは、書を、絵の具の代わりに墨を使い、物の形の代わりに文字を 書く、一種の美術、「書は美術なり」と思いこんでいるからです。
 
しかし、書は言葉を書く過程に生まれてきます。「線」などと表現しますが、文字の点画は幅と長さと色からなる造形ではありません。言葉を書き進む、深さと速さと角度を持った力、言い換えれば触覚、の化成物です。形を変えて文学を美術と呼ぶ人はありません。同様に、書は美術ではありません。文学を生み落とす触覚の広大な領域に、書は属しています。美術という既成概念から離れて、触覚の世界を想像できれば、書はもとより文学も違って見えてきます。
 
一枚の書きぶりを、最初から最後まで本当に読み切っていけば、その文を生みつつある基本的なスタイルは全部読み解けるはずです。文学はこの書き進む力、筆蝕から成り、これに支えられています。書と文学はひと続きのものです。2010.1
 
P514
「書く」というのは、人間の一つの営みですから、どう書かれていったかは、そのプロセスを追っていけばわかります。つまり筆記具の先端と紙との間でのやりとりで、触れ合い方を見ていきます。文字の筆画、点画は、表面的には太さと長さと墨の色からなる造形に見えますが、その実体は、触覚にあります。紙があり、筆記具があって、字を書いていく。その時、紙に筆が触れることによって字は生まれてきます。書くことはまさにこの触覚的な営みです。2010.4.1
 
■書というのはプロセスの学習という側面を持っている。
 
P523
筆記具の尖端が紙と接触・摩擦・離脱する筆蝕――その「手ざわり」「手ごたえ」 「手順」――を伴って、意識が言葉へと変わる日常不断の行為なくして、漢字や漢語を身につけ、使いこなすことはできない。書くことが稀薄になれば、政治、経済、思想、宗教等の表現を担う漢語から日本語は急速に崩壊する。2010.6.11
 
P531
実は今、書道会でも安易化が進んでいます。墨すり機や墨汁の氾濫です。だけど本当は墨をすり、硯の堅さ、柔らかさ、へこみ具合、墨の具合、墨が濃くなっていくプロセスでの触覚を感じ取ることが感覚を研ぎ澄ますウォーミ ングアップになる。
 
だから墨汁ができるまでの過程をもっと大切にすれば書も違ってきますよ。墨が筆に変わり、硯が紙に変わり、墨をすることが、筆を使うことに変わっていって生まれるのが、書であるわけですから。2010.11
 
P632
結局、書は一点一画の佇まいなのだから、一点一画の動きをなぞり、その構造を読み解いていけば、書はわかることも見えてきました。とすれば、書は視覚的に分析することで明らかになるのではなく、むしろ筆記具の尖端が紙と接触する筆ざわりである「筆触」を原動力とする表現なのではないか。さらにその「筆触」はノミによる刻り跡=刻蝕を含ん | でいることに気づいて、「筆蝕」という言葉に到達しました。「筆蝕」から「書」が生まれ、「言葉」が生まれてくる、その意味での「筆触」です。2016.10,11

■筆蝕を中心に考えると自然に書の姿が見えてきます。今はやりのパフォーマンス書道、バケツに墨液を入れ、モップで字を書いていますがこれは書ではありません。このようなパフォーマンスペイントと呼ぶべきものを書であるかのように言うことが誤解の元です。書は西洋美術ではなく、文学的な美の要素を持った筆蝕芸術であり、書は書としか呼べないジャンルのものであるということが私の現時点での理解です。
 
■最後に「遠望の地平」になにが見えたかということですが、見えてきたものは、果てしない書の世界です。とても全て理解できそうにない膨大なもの。西洋文化至上主義の世の中ですが、東洋文化について少しずつ理解を深めたいと思います。なぜなら私は極東の辺境人だからです。
 
最後までご精読いただきありがとうございました。本書の内容はまた違うテーマで考察したいと思います。


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