見出し画像

弱さを受容する事①~弱い自分もありのままの自分~



自分と向き合っている事は、自分の中の見えにくい深い部分や、普段気づきにくい自分の物事の捉え方に気づき直す事のようで、しかも気づく事はいつも当たり前にわかっていた事のようなので、家族にも友人にも、事細かく深い部分までは、なかなか話せず、相談も出来ない(伝えきらない、伝わりきらない)ものでした。
私は、時々ですが義妹と連絡をとり、深い部分までは話せなくても、その時話せる素直な気持ちを吐露して、親身になって聴いて返事をしてもらえた事に、心が救われていました。


そんな中、自然な流れに委ねて、その委ねている流れの中で通過していく時間だとわかってはいても、時折は孤独を感じて落ち込み、自分に向き合う事はもう辛いと、もう無理だと、弱音を呟きました。力なく、
何かに頼りたい...。
誰かに頼りたい...。
誰かに話して、今、苦しいと言いたい...。
そう思い涙する時もありました。


そんな時は、敢えて何も考えずに、意識して自分に優しく、自分を癒す時間を作ってリラックスするようにしました。
そうして心が緩んだ時に、色々な事で、ふと気づくきっかけをもらいました。
今回のクールもまた見ていた日曜日夜のドラマは、その1つでした。音楽と父親と娘の物語。
ドラマを観ながら、自然と登場人物と自分とを重ね観てしまう時がありました。


観ながら、きっと私の父親も、父親なりの親心。
母親も、母親なりの親心。があったんだろうな...と思いました。自分の心にとって、都合のいい見方をしたかもしれませんが、その時自然な流れでそう思いました。
そう思った事がきっかけで、
父親は...弱い人だったんだ...、と思いました。(だから虐待を容認するという事ではありません。)
私が、苦しい時、何かに頼りたい、誰かに頼りたい、と切実に感じたのと同じように、
父親も、人生のどこかのタイミングで何かに頼り、生きる為の何か支えが欲しかったんだな...と。
父親は、生きる為の何か指針が必要だったんだな...と思いました。


私の父親は弱かった。母親も弱かった...と。
そしてそう思ったと同時に、...私もなんだ...と。
私も...弱かったんだ(弱いんだ)...と思いました。
今まで、強く見られがちでした。
でもそれは、私は強く生きなければいけないと思って、思い込んで、誰にも弱さを見せないようにしていたからでした。
自分の本当に弱い所を見せるなんて出来ないと、もしも見せたら自分を保っている何かが崩れてしまうと、無意識に強がってしまう癖がついていて、過度に弱さを隠していたように思います。


少し前の向き合いの途中に気づいて、ショックを感じ、愕然として、その後ずっと気になっていた事がありました。
私にとって、体調不良になる事は、人に迷惑を掛けたくなくて、死活問題。(note記事 恐れの気持ちと向き合う事①~③)
人に迷惑を掛けたと思うと自分が辛くて苦しくなるから、もうそう思いたくなくて、体調不良になりたくなかった。
つまり、私は、
自分がもう傷つきたくなかったから、
自分が再度同じ失敗をしたくないから、
失敗を恐れて、自分の事を考えて、人に迷惑を掛けたくなかったんだと気づきました。
私は...、結局、自分の事しか考えていなかったのだろうか...と思いました。


無意識に、私は、自分を守る事を考えてしまっていた。私は、どうしようもなく弱かったんだと痛感して泣きました。
気づいた時、弱くて弱くて弱すぎる自分だったんだと思い、自分が自分にひたすら寄り添って慰めるしかありませんでした。


辛くて苦しかった(と捉えた)経験が強ければ強いほど、繰り返せば繰り返すほどに怖くなったと思います。
その都度、傷つく事が怖くなって、臆病になったと思います。
そしてもう、同じ事を繰り返したくないと。
同じ失敗(私の場合は体調不良になる事)を繰り返して、
それで自分は無力で無価値だと、その都度感じて、心に作っていた思い込みの為に、
私は生きていてはいけないという気持ちに繋がってしまう事が、もう辛すぎて、苦しすぎて、過度に恐れた。
もう繰り返したくない、もう二度と無力感、無価値感を感じたくない。
だから自分を守らねば、と思ってしまった。
無意識に、自分を1番に守る事を考えてしまった。


今までの人間関係の中で、私は無意識にそういう私になっていたんだ、と思い、これまで関わってきた人達が頭に思い浮かびました。
その人達に迷惑を掛けたくないと本心で思っていたはずなのに、辿るとそれは、私が自分自身を守る為。
本心の奥にまだそういう本心があった...。
その人達を思い浮かべ、本当にごめんなさい... ...と、涙ながら心から謝りました。時間を掛けて気持ちを感じきりました。


何度かにわけて、気持ちを感じきった時、先日気づいた事に繋がりました。
この思いは、私が私を守って生きる為に、そもそも私に備わっていた、自分が自分を守る機能だったんだ...と思いました。
私は、そもそも弱いんだ... ...。
そもそも、弱い生き物なんだ... ...。そう思い、そう受け止めました。
私は、本当は、弱かった...。
弱かったから、強くならなければいけないと、思い込んでいた。
本当は、弱い、弱くてどうしようもない私なんだ...と、そう思いました。


そして、こんな弱い自分だけれど、
私はそういう自分を赦そうと思いました。
弱かったけれど、今まで、精一杯強くなって生きてきたよね...と思いました。
もういいよと赦したい。自分にそう言ってあげられるのは、自分しかいないから。
そして、今までも、今も、今からもきっと、こんな弱い私だけれど、私はずっと一緒に、寄り添い生きようと思いました。
そういう弱い自分でもいいと、弱い自分を全部丸ごと認めて、受け入れて、赦して、そして生きていくね...と、自分に本心で伝えました。


弱くても、生きてるだけでいい。
弱い自分も、そのままでいい。
弱い自分も、ありのままの自分。
弱い自分も、そして誰もが、そのままでかけがえのない価値ある存在。誰もがそれぞれに素晴らしい、価値ある存在なんだから。
そう思いました。


お彼岸に入った先日、同僚がお墓参りに行くと話していたのを聞いて、私も休みの日に行こうかな...とぼんやり思いました。
その日の夜、偶然、私の実家の仏壇や墓を継いでくれた親戚の叔母から連絡がありました。
この連絡に少し驚き、私はなんとなく必然に思えました。
翌日休みで、天候も良さそう。
そうだ、明日お墓参りに行こう、と思いました。もしも会えたら叔父、叔母とも会おうと思い、聞くと、都合も合い、親戚宅に寄り、2人に会いました。長い間、年賀状とLINEやりとりの連絡でした。
十数年振りの再会で、私の両親や妹の事も含めて色々と、積もる話しをしました。話題があちこち飛び、話し尽きない感もある中、出会えた事、無事に行き来出来た事に感謝して帰りました。
2人とも元気でしたが、叔母は、息子家族、お嫁さんとの関係に色々思い悩んでいました。衝突した事に傷つき、その事を抱えて辛そうな一面が見えました。私は話しを聴く事しか出来ませんでした。




②に続きます。
お読み頂き、ありがとうございました。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?